ふれるほどやさしくなる立谷沢川流域

山形県庄内町の観光スポットやイベント情報を紹介するサイトです。
四季折々の写真や流域の今をアップします♪

文化財特集④ 山形県指定文化財 清河八郎関係資料

2010年03月09日 | 流域の文化財
ひさかたぶりの更新、大変申し訳ございません さかなべです。

3月2日に冬期間のお休みが終わり、
開館した清河八郎記念館に収蔵されている
「清河八郎関係資料」を今日は説明します

この関係資料は清河八郎が弘化4年(1847)から文久3年(1863)までの間に
記した自筆の著書、日記、漢詩集等で、生家の斎藤家から寄贈されたもの

著書は論語・學庸(中国の思想書「大学」と「中庸」とを合わせていう語)・
文道・武道・兵学など9件、日記類は安政2年(1855)母と旅行した道中日記「西遊草」、
文久年間(1861~1864)国事に奔走した時期の「潜中機略」「潜中記事」など7件。
和歌1件等計27件49点から成り、八郎の実績のみならず、開港後の政治資料として貴重なものです


八郎は天保元年(1830)、清川村斎藤治兵衛の長子として生まれて、
幼名を元司といい、長じて江戸に上り古学を東条一堂、
朱子学を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、
剣術は千葉周作の門に入り北辰一刀流を修め、
清河八郎と称し、神田に(文武指南所)、「清河塾」を開きました。

桜田門外の変を契機に国士を志し、
山岡鉄舟らと『虎尾(こび)の会』を結成し、尊王攘夷のために活動しました。
京都の治安を守るため、幕府に浪士組の編成を献策、
のちに「新撰組」「新徴組」が誕生します。
ですが文久3年八郎34歳のときに、刺客に暗殺されてしまったんです。

その後、清河八郎は明治維新「草莾(そうもう)の士」・明治維新の魁と言われています

今話題の「坂本龍馬」にも関係のある方で、
坂本龍馬が高知から出て、
江戸で日本一の剣道の道場で腕を磨きたいということで行ったのが千葉周作道場
そこの師範代をつとめていたのが、
清河八郎だったといわれています

清河八郎に関する資料がそろう清河八郎記念館↓↓
 

隣には清河八郎を
文武両道の神としてまつる「清河神社」と清河八郎の座像があります



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。