黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

廃道:下山隧道と南部新道

2013-03-04 01:03:52 | 廃道
オープロジェクト新作DVD『廃道クエスト』
そのロケを振り返りながら、
一つ一つの廃道を取り上げてアップしています。

シリーズでアップして来た廃道撮影リポ、
最後の撮影日の後半です。

最後の撮影には、
かねてから平沼さんにご紹介頂いていた、
女性廃道探索者の石井あつこさんにもご参加頂き、
石井さん推薦の隧道を見学にも行きました。

下山隧道

前回アップした高長切川隧道から
ほど近い場所にある下山隧道です。
旧道は富士川沿いの国道52号線から
少し入ったところにあります。
この物件は、ウェブとかでの情報をまったくなしで、
現場で石井さんが発見した隧道なので、
石井さんの思い入れはひとしおだそうです。





下山隧道

まずは南側からのアプローチ。
本来現道とほぼ同じレベルだった筈の道に、
土砂、あるいは工事用残土の堆積物などがつもり、
道はみえず、隧道へのアプローチも、
かなり斜面を登るかたちになります。
そしてほどなく登りきると、
眼下に目標の下山隧道が見えて来ます。

この隧道、ご覧の様に、
トンネルの大きさに比べて、
扁額がかなり大きく造られています。





下山隧道

実際現場でおおよその大きさを測ってみると、
横幅が約4メートル、高さが約1.8メートルもあります。
つまり扁額の中に、立った人が横並びできるサイズ
といえばその大きさが実感できると思います。

栗子隧道の扁額の書に比べて、
こちらの書はかなり気合いの入った一筆です。

ちなみに何故これほど大きな扁額にしたかは不明なものの、
この別途化粧石等で造った扁額の埋め込ではなく、
入口上部のコンクリートに凹凸をつけることで造られた扁額のため、
これだけの大きさが実現したということです。
確かにこの大きさの扁額を別に造って、
この位置につり上げてはめ込むのは、
容易なことではないですね。





下山隧道

一旦現道へ戻って、今度は北側からアプローチです。
南側は隧道の目の前まで行けますが、
北側は隧道の手前の谷に橋等がなく、
谷に降りてどこからか登らない限り、
隧道の入口へは辿り着けません。
ただ、谷幅はそれほど広くないので、
対岸からでも十分その様子がわかります。

南側同様、巨大な扁額にはかわりありませんが、
書体が違います。
南側に比べると少し堅い印象をうけるので、
もしかしたらこちらが先に書いたものかもしれません。

谷が手前にあることから、
当然橋がなくなったと考えがちですが、
それにしては橋台も橋脚もなく、
また断面の様子もなんとなく妙です。
橋と言うよりは、
土地自体が無くなってしまった様な印象です。

後日平沼さんが現役当時の写真を持って来ました。
それを見ると、トンネルを出た付近は、
橋ではなく殆ど土地状の形をしています。
ただし下には細流があるので、
殆ど土地の様に造って、
その下部に水流の抜け道を造った
暗渠だったということがわかりました。



最後の撮影は、下山隧道からほどなく南下した、
身延町とその南の南部町を結ぶ、
南部新道の旧道でした。

南部新道

もともとこの付近の街道は、
富士川沿いに造られていたもの、
氾濫川として知られる富士川に浸食され、
幾度も決壊崩壊したそうです。
その経験から、
現在の国道52号は内陸に造られているわけですが、
かつての富士川沿いにあった南部新道は、
現在でもかろうじてその痕跡を残しています。





南部新道

この廃道探索は、平沼さんからの提案で、
当日いくことになった廃道なので、
案内は全ておまかせ。
なのでどのあたりから旧道へ入ったのかなど、
殆ど覚えてませんが、
廃道に入るなり、猛烈な竹薮の連続です。
しかも密度がかなり濃く、
また半分くらいの竹が寿命尽きて倒れているので、
それらをくぐったりしながら進まなくてはなりません。





南部新道

猛烈な竹薮を歩くこと小一時間、
急に視界が開けた先にあったのが、
この扁額も竣工年表示などもなにもない、
謎の廃道です。
平沼さん曰く、
恐らく戦中に軍事物資の輸送目的で造られたものだと思うも、
その実体はまだ調査中とのこと。

こんな山の中に、
何十年も使われていないにもかかわらず、
崩落はおろかヒビすら入っていない、
奇麗な隧道が眠っているとは驚きです。
※実際はすぐ近くに富士川が流れていたり、
隧道の反対側の斜面の上には民家があるなどしますが、
何と言っても竹薮が深すぎて、
印象としては山の中としか思えません。





南部新道

一旦現道に戻り、少し移動してから、
再び次の目標に向かって竹の薮漕ぎです。
地図で言うと下方の黒い星の付近ですが、
こちらも平沼さんに連れて行かれるままなので、
なにがあるのかは分からない状態での探索です。

南部新道の探索でも、
石井あつこさんが参加されていましたが、
とにかく平沼さんと石井さんは、
進むのが早くて追いつきません。
その様子はDVD本編に収録してあります。
そして歩く事約30分位、





南部新道

行き着いた所にあったのはかつての道標です。
何と書かれているかを判別すべく、
この場所に30分位いました。
画像をクリックすると、
文字を強調して分かり易くした拡大画像が表示されます。

上の二文字は左と右。
そして左の下は「身延山道」でその右は
「舟道」だそうです。
「身延山道」の下がなかなか読めませんでしたが、
左が「あはめし」(粟飯)、右が「さくら志ミつ」(桜清水)
という字ではないかと判断し、
一番下が「霊場あり」となります。

身延町には日蓮宗の総本山久遠寺があり、
付近には日蓮ゆかりの霊場がたくさんあります。
「粟飯」とは道端で休息をとっていた日蓮に、
粟飯を差し出したのが縁で出家した母を偲んで、
その息子が建てた大石山正慶寺のこと。
また「桜清水」とは、正慶寺より少し南の高台にある、
横根という集落が水の便がわるかったので、
桜の木の根方に杖を突きさし清水を沸き上がらせた伝説から
桜清水の霊場となった玉林山実教寺のこと。

つまりこの道しるべは、
日蓮ゆかりの霊場参りのための道標だったのですね。

道しるべが石造りだったからこそ、
こうして悠久の時を越えて、
この道を通行したかつての人たちのことがわかります。
もしこの道標が近年の鉄板やプラスチック製だったら、
こうして残っている事もなく、
その道がなんのための道かも、
知ることは出来なかったと思います。

残念ながらこの道しるべは、
本編には収録していないので、
ここで詳しくアップしました。



こうしてDVD『廃道クエスト』のロケは終了しました。
しかし廃道は廃墟のように分かり易い形がなく、
画像ではただの山道にしか見えない場所も多々あります。
また、以前にアップした国道299号の崖崩れなども、
画像ではその様子がまったく伝わりませんが、
映像では画像よりははるかに臨場感があります。
廃道は映像で見て、
初めてその面白さや状態がわかると思うので、
このブログの記事は予習程度にさらっと流して頂き、
是非DVD『廃道クエスト』をご覧になって頂ければと思います。



廃道クエスト




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