イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

父の旅立ち

2016年11月29日 04時00分00秒 | 日常のあれこれ



雪化粧された大好きな実家の庭の門扉前で私が写した61歳当時の父。
(表札及び車のナンバーは伏せました。)

元々写真写りの良い父。これは私が最も好きな父の写真です。

仕事に生きがいをもち、弱い立場の人を守り、地域に貢献した、
赤い色と帽子がよく似合う責任感の強い父でした。

9月21日、母と共に定期検診の為大学病院に訪れた父。
限界だったのか痛みを訴え即日緊急入院となりました。

数日後、集められた家族は病院の一室で余命宣告を受けました。
父には告知しませんでした。

1ヵ月余り大学病院では沢山のスタッフの皆様に
血の通った介助をして頂きました。
誕生日には写真を撮りサプライズして下さいました。

10月下旬退院し、様々な方々のお力を借りながら
自宅で
1ヵ月過ごした父でしたが、
11月24日夜、数日前から食べ物も受けつけなくなり、

痰が絡むようになり
弱りゆく父を診た医師の
助言を受け入れた弟から
明日、入院することになったと連絡がありました。
のちに母から聞かされたことですが、
自宅で看取りたいと思っていた弟は
自宅で過ごす最後の夜、静かに泣いていたそうです。

翌日、母と私は父の乗る介護タクシーに便乗し
父や私達家族と縁のある地域の
ある病院に入院しました。
良く晴れた日でした。

「お父さん、昔、よくここを通ったね。
今日は天気がよくて良かったね」など
目を瞑り台車に横たわる父に一方的に
優しく語りかけました。

4日後、日付が変って間もない29日の深夜1時過ぎ
父は
静かに召されました。
僅か6時間前、母と見舞っていましたが
最期には立ち会うことは叶いませんでした。
最期の4日間、
お世話になった病院で父を見舞っている時、
枕元に今は亡き、父の兄弟達や
縁のある人たちのお迎えの気配を感じました。
痰が絡み、呼吸が苦しく、
自分の足で歩くことが出来なくても、
「生きる」ことをあきらめなかった父は、
それを振り払うように
何度も何度も顔をしかめ、
首を左右に振っていました。
そんな父の姿を見るのが辛かった私は
愛猫ミーシャの時と同じく
「お父さん、今までどうも有難う・・・
もう逝っていいよ。
みんながお迎えに来てくれてるよ・・・
大丈夫だよ・・・」と、
手を身体をさすりながら伝えました。
いつからか亡き愛猫ミーシャに
「お父さんが迷わない様あの世への案内頼むね」と
心の中で呟いていました。

28日夕刻、自宅に帰えろうとしている時、
父の足元の壁に
オーブがふわりと飛んでいるのを見て、
いよいよかもしれない・・・と覚悟しながらも
まさかその数時間後、本当に父が
 この世から旅立つとは思っていませんでした。

深夜1時過ぎ、
ソファでウトウトしていると電話が鳴りました。
看護師さんからの電話でした。
すぐにタクシーで駆けつけましたが
間にあいませんでした。

4日間という短い時間でしたが、
先生、関わって下さった看護師さんは皆、
心ある介護をして下さいました。

痰を引く時、
「○○さん、ごめんなさいね。苦しいよね。
もう少し引かせてね。」と声かけして下さり、
人ってあたたかいな、
看護師さんてすごいな・・・と感動しました。

11月20日 日中、実家を訪れた時、
筆談したいという仕草をしたので
父にメモと鉛筆を渡すと、弱々しい文字で
「生きたい」と書いた父。
達筆な父の文字は乱れ、
「い」の文字にいたっては
水に流れてしまいそうな文字でした。
まだ、書き、伝えたいことがあったものの、
もはや父の手には
えんぴつを持つ力も残ってはいませんでした。
なのに父は次の瞬間、
そんな力、どこに残っていたの?と思うように
私の右腕を両手で強くしっかりと握りしめ、
かすれた声で でもはっきりと
私の目を見ながら
「わたしは、長く 生きたいんだ・・・。
だから、宜しく頼む・・・家族・・・
お母さん、宜しく頼む・・・」と言いました。
(言葉が綺麗だった父は生前自分のことを
「わたし」と言っていて
とても丁寧な言葉を使う人でした。)

既にこの時からお迎えが来ていて
父にはそれが死神の様に見えていたのか
私の腕を強く握ったまま
 私の後方に目線をやり、宙を睨み強い口調で、
「わたしは まだいかないからな」と
宣言していました。

主治医として10年以上お世話になったO先生に私は
直接お会いしたことはなかったのですが、
大学病院退院の前日、父を見舞った際、
もし、可能なら一言お礼と
ご挨拶を申し上げたいと思い、
午後、診察があるという
先生のいらっしゃる外来に
初めて立ち寄り対応して下さった看護師さんに、
現在父が入院していること、
O先生に12年前から父がお世話になっていることを伝え
 もし可能なら、先生にお目にかかって
一言お礼を申し上げたい旨お話ししました。
看護師さんは「お伝えしますが
お会いできるかどうかは分かりません」と
前置きしたうえで
「携帯を教えて頂けましたらご連絡します」と
仰って下さったのでお伝えしました。
アポなしだったので、お会いできないことも想定し、
病院の食堂でお昼を頂きながら、
用意してきた小さなメモ用紙に
思いつくままに感謝の言葉をしたため 
もう一度、外来に立ち寄り
看護師さんに先生にお渡し頂けるようお願いし、
父の病室へ向かいました。
お昼ご飯を食べ終える父を見届け、
元々乗る予定だったバスに乗りました。
バスが動きだして間もなく携帯が鳴りました。
看護師さんからで、
「先生が少しお時間を作って下さるそうです」
というものでした。
あいにくバスに乗ってしまったことをお伝えすると、
残念がって下さり、
そばにいらした先生にかわって下さいました。
初めて先生とお話しをさせて頂きました。
バスの中での短い会話でした。
思った通りのお優しいとても温かなお声でした。
母から聞いたのですが、
父はO先生をとても信頼していて、
定期検診のあと帰る時はいつも必ず、
「また先生に会いに来ます。」と
笑顔で握手をしていたそうです。

「(再発した)場所が悪くなければ、
私も もっと何か出来ることがあったと思うのですが」etcと
言って下さいました。

12年前、健康診断で
ラッキーな見つかり方をした父でした。
何度が抗癌剤はしたものの、QOLは全く落とすことなく、
この12年間、自分の脚で歩き、地域の活動に再び情熱を傾け、
食べたいものを食べ、完治ではありませんでしたが、
病気と上手く付き合いながら普通に元気に過ごしていました。

これまで他の人に何かして差し上げることは多くても、
何かをして頂くということや、甘えること、
弱音を吐くことは殆どなかった父ですが、
天に召されるまでの2ヵ月間は
沢山の方々にサポートして頂く日々でした。
介助頂いたあと父は毎回必ず両手を合わせ
皆さんに有難うを伝えていました。

自宅に戻ってから一カ月ぶりに
お風呂のサービスを受けた時は、
それはそれは嬉しかったようで満面の笑みで
「あぁ~気持ちいい」と言いバンザイをしたそうです。

そんな父は秋に緊急入院をしてから2ヵ月で
逝ってしまいました。

通夜、告別式には
沢山の方がお運びくださいました。

小さい頃遊んだ親戚とも久しぶりに顔を合わせ
懐かしい話に花が咲きました。

ご近所のおじさん、おばさんたちと
暫くぶりに顔を合わせお礼を言うと、
皆さん私の名前を呼び、涙を流し
抱きしめて下さいました。

私達家族の知らない父の姿、
父がしてきた善意の数々を父亡きあとに知らされて
改めて思うのは
「お父さん、今度は色々なことを背負わなくていい、
両親に沢山愛され幸せいっぱいの人生であるといいね」
という思いでした。
棺には手紙を入れました。

今生、心を通わせることが難しい親子関係でしたが、
父亡きあと、思いかえすのは
楽しい日々の想い出でした。

上野動物園にランラン、カンカンを見に
連れて行ってくれた時、
立ち止まって見ることも許されない行列の中、
身体の小さな父が一生懸命肩車してくれたこと。

実家の柿をもいだと、
自転車でフラッと何度も来てくれたこと。

色んな所に連れて行ってくれたこと。

父と私とは血液型も、長男、長女という点も同じ、
リーダー的な役割を引き受けることが多いことや、
弱い立場に手を差し伸べる気質も
よく似ていると感じています。
赤色が本当によく似合った父。
父が亡くなったあと赤が似合うのは
父のオーラの色だったんだ・・・と
改めて思い、そしてまた意外にも
私のオーラの色も赤であると知らされ、
なるほど・・・と思いました。
高校で生徒会の会長をしていたという父。
私も高校時代生徒会の役員をしていました。
私が20代の時、クローゼットから出てきた
父が訳したフランス語の真面目な本を見つけた時は
大変驚きました。
絵も字もうまく、スポーツも得意だった父。

告別式の翌日から父の死を知った地域の方々や、
父の部下、父に親切にして貰ったという
沢山の方々が実家にお運び下さり、
お線香を手向けて下さっていると母から聞きました。

この2ヵ月、父に携わって下さった沢山の皆様、
本当に 本当に お世話になりました。
どうも有難うございました。

皆さん、本当に愛に溢れた素晴らしい方々でした。

弟家族との二世帯同居に伴い
半分ほど切られる前の大好きな白木蓮。


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