イタリアの風に吹かれて ~con te partiro~

前世(かこ)から未来(いま)へと紡がれし時の記憶
あなたと交わした約束の欠片を辿る遥かなる愛しき旅

雪の舞う中で

2017年01月20日 12時21分36秒 | 日常のあれこれ

父の49日法要の日も今日のようにとても寒い日でした。

お経をあげて頂いたあと 集まってくれた親戚に見守られ、

納骨式は滞りなく行われました。
まるで納骨が終わるのを待ってくれていたかのように
雪が舞い降りてきました。
会食場所に向かうタクシーに乗ると雪は激しくなりました。
それは「私のことをいつまでも忘れないで」という
父のメッセージであり
粋な演出のように感じさせられました。

「私の納骨が終わるまで待って下さい」と、父が神様にお願いしていたかのように
納骨が丁度終わったタイミングで降り始めた雪に神秘を見せられ素敵だなと思いました。


今日、歯医者さんの帰り道、お昼過ぎから降ると言われていた雪が
ちょっぴり早く舞い踊る中、父の納骨の日に降ったあの雪のことを思いました。

昨日は4年ぶりに師の元を訪れ 霊界の通訳としてメッセージを届けて頂きました。
人生のコーディネーターである龍神様。
私の支配霊も龍神様ですが昨日は龍神様がお出まし下さり、
いつもそうであるように厳しくも有難いメッセージを沢山届けて下さいました。
昨日から今日にかけて、録音したメッセージをワードで清書しました。

去年、能動的に動いた中で様々な体験をしました。
その中で対人関係において深く考えさせられ
大きく感情を揺さぶられる出来事もありました。

「さみしさに似た違和感を覚える」 

「人と人をコネクトしたり応援したり誰かの為に動いていることが圧倒的に多い」etc


そんな風に改めて感じ 気付いたとき、神ではない
ごくごく一般的な 未熟な人間の私の心はフンとスネていました。
そこで内観し 辿り着いた私の想いの着地点はこうでした。
【割に合わないと感じたり気持ちを萎え
させてしまう関係はもう要らない・・・】

心は誤魔化せないので不要と感じた様々を
思い切ってそぎ落としました。
それは
これまで築きあげてきた人間関係も含めてでした。
でも時々「これでよかったのかな」と思うこともありました。

友達づきあいをさせて頂いている一部の近場の友人知人に
出店や個展の案内状を送付させて頂きました。
案内を出した方の中には
付き合いが長く親しいと思っていた友人もいましたが
その友人達からは何の反応もありませんでした。
人間が出来ていない私は(苦笑)
「あら、結構ドライなのね。」と思ってしまいました。

広義の意味において 発信したことや働きかけに対し
実際は目を通しているのに何の反応もないというのは
言葉は悪いですが 無視と同じであると寂しく思います。
友人達の大半は子育てに追われている様子なので近年は
学生時代のように定期的に会うようなこともありませんでしたが
それでも心は繋がっている、そんな風に思っていましたので
普段から頻繁に会っていなくても、何かあった時などは互いに連絡を取ったり
応援したり 励まし合ったりができる関係と どこか信じていました。
私自身、相手の負担にならないように サラッと心のままに
相手の喜びごとには共に喜び「良かったね」と都度言葉で伝え
悲しい気持ちの時にはお声かけし寄り添ってきたのでショックでした。
相手にも勿論、日々の生活や色々な事情があるのかもしれませんがそれでも、
長年の付き合いなのに 知らんぷりを決め込む そうした友人達に
「もう関わる必要のない人達なんだな 私の一方通行なんだな。」と確信し
「でも、もし私がメディアでバンバン取り上げられているような所謂 旬の人、
著名人だったなら こちらから連絡を入れずとも恐らく積極的に連絡をくれ、
応援してくれたり、予定を調整して開催場所に
顔を出してくれたりするんだろうな」とぼんやりと思っていました。
もはや動きのなくなった色褪せた名ばかりの関係は私にとって
何の意味もなさずそこに価値を見出すことはできませんでした。
学びが終わったことも魂レベルで気付いていました。 
それなのに、こうもりのような宙ぶらりん状態を保ち、
相手の出方を賢く見定めながら 
どっちつかずのグレーゾーンに留まり続けるということは
心が苦しくなってしまうので出来ない私は
これまで大事に思ってきたからこそ、あいまいなフェードアウトではなく
それらの友人達に自らきちんと別れを告げました。

こうしてお付き合いを断った直後「あ、そういえば・・・」と気付いた事がありました。
人の喜ぶ顔を見るのが好きな私は本来もてなすことが好きなので
かつては親しい友人を呼んで手料理を振る舞うこともありました。
今回関係を断った友人達は皆、かつて我が家に遊びに来たこともあり、
今は亡き我が家の大切な家族の一員だった先住猫と会ったこともありました。
関係を断ち切ったあと、 ふと過去の様々を冷静に振り返ってみた時、
そういえば 愛猫が亡くなったことを知ったあとも
この方々からは何の声かけもありませんでした。
今更ながら気づいたのは 【一事が万事そうだった】 ということでした。
反対に、愛猫が亡くなった時、おもいがけず
普段、特別親しく交流をしていない方々や
ご縁を頂いて間もない方、作品を購入下さった方、ブログの読者様などから
愛猫へのお悔やみと私を気遣う温かなお言葉を頂いた時 心が温まり
いち早く届けて下さった皆様の真心に深く感動し癒され有難いなと思い
心は温かな言霊1つで癒されることを実感しました。
私もそういう言葉がけが出来る人でありいたいと思いました。

友人達の大切なご家族やお子さん同様、愛猫も私にとっては
かけがえのない大切な家族の一員です。それは私との付き合いの長さから
その友人達はよく知っていました。私の甘えかもしれませんが、
友人の大切な家族の一員だった愛猫が 天に召されたことを知っていて、
哀しみにくれているだろうと想像がついていたとしても
何の言葉がけもしては頂けなかったということに対し、
それって道端ですれ違った見ず知らずの人と変わりないと感じましたし、
こういう関係って やはり ちょと変だなと思いました。

「なぜ、たった一言の言葉がけさえ 出来ないのだろう・・・


このように実際は希薄な付き合いになっていても
裏も表も全て印刷された一言も無いような年賀状は
相も変わらず判を押したように毎年キッチリ届くという違和感に
いつしか言い知れぬ違和感を覚え
嫌悪感を抱くようになっていました。

自分にとって必要なものごとやレアな情報を
本人は意識しているのか いないのか定かではありませんが
気付けばいつも一方的に他人かに受け取り続けるような
イイトコ取りばかりするような人というのは友達ではないと思います。

こんな風に過去のあれやこれやを冷静に振り返ってみた時、
これまで友人達に割いてきた時間や真心は何だったんだろう・・・
無駄だったのかな、利用されてたのかな、
ただ単に私の人を見る目がなかったのかな・・・・と
正直悲しくなりました。

けれど 昨年自身が下したこの決断に
今は何の迷いもなければ後悔もしていません。

話しは戻りますが、
巧みなコールド・リーディングの手法でご相談者と向きあう師ではないので
こうしたこちらの感情のゆらぎや思いも含め
最初に私の方から師に現状を伝えることは一切なく、その上で
霊界から視せられる私の現在であり未来を客観的に目を瞑った状態で
淡々とお伝え下さいますがこの時、コールドリーディングを避ける為
声を出すことも相槌をうつことなど、もつまり一切の反応はNGで
その状態は最初のメツセージを伝え終わるまで続きます。
この様にこちらの状況は一切伝えない状態で霊界から齎されるメッセージを
通訳(=ミィディアム)となった師が伝えて下さるのを静かに聴くことに撤します。
気付きの多いメッセージには毎回本当に驚かされると同時に
身が引き締まります。


去年、今年と人生の整理整頓の時期に入っているので

要るものと要らないものを選り分ける必要があるということ、
そういう時期に入っているのでそうならざるを得ない流れになっているということ、

環境をシンプルに整えなおすことで手放すものもあるが
新たなものも入ってくる等々只々客観的に人生の事、仕事の事、対人関係の事etc・・・
メッセージを聞くなかで今更ながら
「さすが人生の伴走者の守護霊様 全てお見通しでいらっしゃる」と
有難く思いました。


「人間関係において貴方は相手の事を助けてあげるのが当たり前だった」etc
そう伝えられたとき、
「そうそう、ほんとに その通り」と心の中で呟いていました。
そして、「私、いつも一生懸命だったよね」と
その当時の自分をイイコイイコしてあげたい心境になりました。

気付けば自分のことを後回しにし喜んで相手の為に動くことが大半でした。
そんな風に動く時というのは損得勘定など抜きでただ本能のままに
パパッと無償で動いている自分がいるのですが、
ふと
気がつけばいつも私の方から相手に手を差し伸べていて
相手の応援団となって 相手の気持ちを察知して
相手からお願いされる前に自身の大切な人脈を紹介したり
色々思いを馳せ行動して差し上げることが殆どでした。
では、同じように皆さんも私に対して必要な人材やものごとを
コネクトしたり知らせて下さったか?と言えば残念ながらそうではなく、
ここ数年はそうしたモヤッと感に「自分ばかりが・・・」という気持ちでした。

健やかな関係というのは どちらの心も満たされることだと思います。

友達というのは、親が子供に無償の愛を与え続ける関係とは違うので
一方がいつもひたすら与え続けるものでもなければ
一方が当たり前に毎回受け取り続けるものでもありません。

自分だけが・・・・と いじけたり 寂しくなるのは
提供することと受け取ることのバランスが崩れている証です。
割に合わないな・・・そんな風に感じてからは 
心を鬼にして(笑)
これまでフットワーク軽く、すぐ動いてしまうという
お人よしの
自分の言動を意識して封印するようにしています。
こうしたブログでもこれまで自身が大切な時間やお金をかけた結果
学び得た大切な情報をこれまでそうしていたように「どうぞどうぞ」と安易に
開示提供することはやめにしました。

去年ワークショップでご一緒した方から後日snsの伝言板を通して
「今度お茶如何ですか?」とお声かけ頂きました。その方はワークショップの場で
私の無意識の言動を見てある能力がある人と感じられたようで
お茶をしませんか?と声かけされた際、「スピリチュアルな事を色々話しましょう」と
お茶する時に話すテーマまで先に仰られてきたので実は違和感を感じました。
勿論この私の心情はご本人にはお伝えはしていませんが、思ったのは
「この方は私と話したい、お茶をしたい、ということではなく
私とお茶をすることでご自身の欲しいなんらかのスピリチュアルな情報が得られる
と感じられたのでお茶に誘ったんだろうな」と思ったからでした。
結果を申し上げるとその方とのお茶は実現しませんでした。
人間関係が構築されていないうちから 
自分が必要とする情報が欲しいからという理由で
ガンガン近づいて来られてしまうのは
やはり気持ちの良いものではありませんし、
そうした相手のおもわくが見て取れる(感じられてしまう)と

「計算高くズルイ人だな」と思います。

これまで興味のあるセミナーなどを受講してきましたが、
自分の知らないことを教わり 情報を得、研鑽を積む為には
受講料がかかります。それまで自分が知り得なかったことを
教わる場というのは貴重と分かっているので
受講料が発生するのは至極当然のことと思います。
なので例えば友達と食事中、話題がそれまで自分が知り得なかったことを
友達がサラッと話してくれた時などは本当に有難いことだな~と
心底思い感激するので なんとなく聴いたり聞き流したり
冷静に「へぇ~、そうなんだ」ではなく その場でちゃんと
「素晴らしいこと(情報)を教えてくれてどうも有難う」と
喜びと感動を言葉に出して必ず伝えます。
本来、自分が必要としている情報は自分で時間をかけて調べ
知識を得たいのであれば受講料を支払いそこに赴く必要がありますが、
そうしたことを飛び越えて、他人様との会話の中で思いがけず
様々な情報を開示頂いたり 教えて頂けるというのは本当に【有難し】であり
とても価値のあることなのです。
受講費を払うこともなく、交通機関を乗り継ぎ会場へ足を運ぶ事もなく
色んなことを知っている目の前にいる人から
「教えて頂けますか?」というお願いもせず、会話の成り行きで相手が
色々なことを話すのを耳をダンボにしてジッと待つというのは
いやらしいなと思います。
時々、知らないことなのに知ってるフリをされる方がいますが
あれってカッコ悪いと思います。
自分が知らないことを知らないままにしてやり過ごしたり、
知らないことを知ってるフリをして話を合わせることは
とても恥ずかしいことなので、友達や知人との会話の中で
分からない語彙知らないことがあった場合は、
「それってどういう意味なの?知らないので教えてくれる?」と
素直に言葉に出してたずねるようにしています。

気の置けない友達との何気ない会話の中にも
実は沢山の素敵なヒントが鏤められていたり
のちのち、自分にとって とても役に立つ情報が含まれていたりします。
こんな風に私達は高い受講料をお支払しなくても、周りの人達から日々
様々なことを教わっていて、素晴らしい情報を沢山得ています。

知りたくて知りたくて仕方がないことがあるのに本音をうまく隠し、
礼節を重んじることなく「教えて頂けますか?」の一言も無く
何とな~く会話をしながら  うま~く目の前の相手から
自分にとって必要な情報を聞きだしちゃおう!という いやらしさというのは、
「この人、ガツガツしていて何かヤな感じ。関わりたくないな」と
必ず相手に伝わるものなので、今まで無意識にイイトコ取りをしていたり、
本来、受講料を払い学ぶようなことを、友達という免罪符を勝手に掲げ
感謝することもなく、当たり前に ただで、あれやこれやを聞きだし
受け取ってばかりいたなと思う方は そろそろ、ご自身の学んだものであり、
知っていることも還元(お裾分け)されるなどされた方が宜しいかと思います。
お金をかけず、努力もせず、ただで得た情報というのは一見ラッキーで
すごく得をしたように感じられるかもしれませんが、
一方が一生 得をし続けることなどなくて、対価を払う時は必ずくると思うのです。

これまで損とか得とかのそろばんをはじくことなく、深く考えず 気前よく、
いつも「どうぞ、どうぞ」と圧倒的に提供、差し出してしまうことが多かった私は
相手から受け取ることが申し訳なく思ってしまい苦手な方でしたが
バランスを取る為にも
これからは提供するばかりでなく、遠慮せずに堂々と
ちゃんと本来受け取る筈のものを笑顔で感謝して受け取ろう、受け取る時だわ、
そんな風に思っています。

呼吸を吐く時というのは吸う時の倍、時間をかけるといいそうですが、
今年参加したお茶会でも先生がアウトプットの方がより大切と仰られ、
何か新たなものをいれる為には先ず「不要なものを出すこと」が先決と
私自身自身のあれやこれと重なりました。

何年も前から守護霊がお伝え下さっている大きなメッセージがあるのですが
どこか畏れもあって中々踏み出せないでいた私ですが今年こそは
未来の様々な可能性にしっかりと結びつけるために本腰を入れて
トライしようと思いました。
私が本気にならないと その先の素晴らしい景色を見せては下さらない
中々楽をさせては貰えない。本当に厳しい私の守護霊団ですが
本来行くべき場所へちゃんと私が自分の脚で力で
たどり着けることを一番よくご存じでいらっしゃり
信じて下さっているからこその 「さぁ、おいで」と
気長に待っていて下さるのかもしれません。
有難いことです。

そして、そして・・・・皆様が私に抱かれるイメージとは真逆で
「practice」が苦手なわたしですが、
(か
けっこの練習や生み出すことが楽しい創作活動は別として)
今回のメッセージのなかに自身の霊能についてのお話しもあったので
霊能においての訓練も
今年はコツコツはじめようと思いました。
龍神様が時折お姿を見せて下さる意味が今回お出まし下さったことも含め
自身の中で繋がりました。

先生通訳ありがとうございました。
龍神様いつも有難うございます。


新春のお茶会に心ほころび笑顔になりぬ

2017年01月09日 21時00分00秒 | 日常のあれこれ

その時が来れば
本来出逢うべき人にはちゃんと出逢うことになっているということを身を持って知った
一昨年12月に受講したあるセミナー。
このセミナーを受講する1年程前、私は夢の中で先生とお逢いし言葉を交わしていました。
更に遡ること7~8年前、皆さんもご存知のある番組を見ていました。
番組で取り上げた内容に興味を持った私は先生のご著書を購入したものの、
私のレベルでは理解できる内容ではなくそのままになっていました。
それから10年近い時を経た一昨年、
まさかその先生のセミナーを受講する流れになるとは思いもよりませんでした。

先生を囲んでセミナー受講した方々とのお茶会が本日都内で開催され参加しました。
先生のご提案でそれぞれお菓子を持ち寄り、皆さん先生の色々なお話しに耳を傾け、
またセミナーで学んだことを掘り下げて熱心にご質問される方々もいらして
和気藹々とした雰囲気の中で先生や皆さんの素晴らしいお話を沢山聴かせて頂けて
新年早々 とても嬉しく豊かな気持ちになりました。

興味があることに対しては集中するのですが、
コツコツと地道な努力を重ね、日々繰り返し練習するというタイプではなく、
時折、「練習しなくちゃ」と思うものの なかなかどうして、の私ですが(苦笑)
今回、先生のお話しを伺う中で「繰り返し練習をする」ということが
如何に大切であるかを痛感しました。


自分へのご褒美に

2017年01月05日 16時45分48秒 | Favorites





ドレープのきいたエレガントな物やレーシーな素材(オーガンジーも含め)に惹かれます。
素敵なレースのあしらわれた近沢の商品は大好きなので
お世話になった方へのお礼や自分へのご褒美に時折求めています。

これまで哀しみの場に立ち会うことがあまりなかったこともありますが
袱紗などの小物を持っていませんでした。
昨年、父が他界し、それから1カ月も経たないうちに突然の
叔父の訃報に接し(父の実弟) 哀しみの場に立ち会った時、
こうしたフォーマルの小物を持っていた方がいいと改めて思いました。
そこで12月下旬、袱紗をはじめとしたフォーマル数点を求めました。
自分へのご褒美にはゴールドのトートバックとシルバーの化粧ポーチを選びました。
今日届いた商品たちは いつものように丁寧にラッピングされていて
新年早々トキメキました。

昨年、父のことでお葉書をお送り下さったH様、
大晦日にメールを下さったE様、ありがとうございました。

皆様のお幸せな日々を願って・・・・・
今年もどうぞ宜しくお願い致します。