夢への道筋

青臭いけど、人が夢の実現のために発揮できる力って無限。夢を実現するための方法論について徒然なるままに。

「逃げない」こと、「諦めない」こと

2005-09-17 09:26:57 | ちょっといいはなし
 夢を実現したり、目標を達成していく上で僕が痛感していることは「逃げない」こと、「諦めない」ことの大切さです。今日はそのことについて詳しく話をしてみようと思います。

 何かを成し遂げようとすると、たくさんの障害と出会うことになります。そのハードルにどう取り組むかがとても肝要です。人間は障害に遭遇すると見て見ぬ振りをしたり、現実逃避する傾向にあるのではないかと思います。特に遭遇した障害が大きければ大きいほど。

 僕も障害に遭遇したときは、ともかく一目散に逃げたい一心でした。「でした」というのは、今は違う考え方に自分の意識を変えたからです。ただし、まだ全ての障害に対して、逃げないのか、諦めないかは分かりませんが、意識を変えてから今日まではなんとか心の上では逃げず諦めずに行動し、今を楽しむことにしています。なぜならそれが成長のまたとない機会だからです。結果として十分な成果が出てないことは多々ありますが…。また、正直キャパを超えちゃったときは逃げ腰になる悪い癖はまだ残っちゃっていますね。
 しかし、勝負事で逃げ腰になると勝てることはまずないですね。負け方も相当悲惨な負け方になることとが多いと思いますね。気をつけなきゃ。

それでは、まずは、意識を変えることが出来たエピソードから。

 僕は、2001年3月期までは今の会社の副社長でした。時はネットバブル。未公開ITベンチャーの株式公開キャピタルゲインを見込んだ巨額の資金が溢れんばかりに日本中を駆け巡っていました。売り上げ一桁億円の会社(今では日本中の人が知っている会社も多々あります)が数百億円の資金を株式公開時に調達して時価総額も3桁億円を超えている事例も複数ありました。うちの会社も2桁億円に届く金額の資金を公開前だったのですが、調達することができました。
 それまで資本金が億に届いておらず、売上げも億に届いてやっとちょっと億プラスαになったばかりの会社が2桁億円のお金を未公開にもかかわらず調達してしまっていたのです。資金調達を担当していた当時の社長の投資家を惹きつけた力量は今更ながら感心しています。
 その資金調達によって事務所も移転しました。結構広くて新しいきれいな事務所です。それまでお世話になっていた筆頭株主だった某大企業のビル内にあったちょびっと古めの事務所とは大違いでした。家具も筆頭株主の企業さんにお借りしていたのが全て新調。引越しにはかなりのお金を使いました。従業員も大幅に増やしました。ベンチャーらしくもなく身の丈の合わない大手の人材派遣会社から契約社員も雇いました。そして、致命傷になったシステムに対する超大規模な投資も行いました。役員の生活も同年代の会社勤めの人たちと比較すると、少し贅沢になりました。洋服、食事、遊び、住居。身の丈に合わない資金を持って使っているうちに、謙虚さがなくなりました。慎重さもなくなりました。そのときはリスクを取ることが美徳だという片方向的な意識が強調され、当然考えるべきリスク回避策も考えないことが黙認され続けてしまいました。今まで扱ったこともない大きなお金に僕自身も役員としてのそれまで持っていた価値観・経験は全く役に立たない機能不全の状態に陥りました。
 そうこうしているうちに、会社の支出構造だけは大きな資金調達をした会社に見合ったものになる一方で、売上げは従来どおりという危機的な状況が続きました。当然ながらその状況は長く続く訳でもなく、すぐに会社の存続が危ない状況が続きました。当時はまだネットバブル絶頂の時期で投資したがっている人はたくさんいたので、可及的速やかに再調達しようということになりました。が、既に役員が自分たちではコントロールできない状況に陥っているのは、投資する立場の人からみれば明らかで、彼らにその状況を見透かされてしまい、再調達の試みは全て失敗しました。翌月で資金ショートという倒産寸前の事態に直面しました。
 そこから起こったことは本当にいろいろあったので、割愛させてもらいますが、結果として、生まれてはじめて本格的な「経営責任」というものに直面しました。

 既に役員報酬は全役員無給の状態でした。少なくない報酬をちょっと前までもらっていたので、きちんと貯金をしていれば、ある程度しのげたはずなのに、私生活のコスト構造もゆるくなってしまっていた自分は、金欠による焦りや恥で心の余裕がなくなり、冷静な思考ができなくなりはじめました。それまで仕事以外では我慢をしたことがあまりなかったのですが、私生活でいろいろな我慢を強いられました。
 また、会社は当然のことながら不信感で覆われました。労使というか従業員と役員の間の不信感・不透明感はこれ以上ないものとなり、役員の間でも心の余裕がなくなってきたことから、価値観の違いや会社に求めるものの違いが深刻になってきて、もう一緒にやるのは無理かなー?って状況に陥りました。役員と従業員間、役員間が一番力を合わせなければいけないのに何をやっていんろうだろう?という惨めな気持ちでいっぱいになりました。仕事を始めて最も大きく、かつ、深刻な敗北感を感じた一瞬でした。このままこの会社は、僕の人生は、どうなるんだろう?と意気消沈していたある日、毎晩行っていた事態打開のための有志のミーティングである人から突然「社長はお前がやれ」と言われました。その人は別に取締役ではなく僕を社長にする権限を持っている人ではありませんでした。

 資金調達を開始して自分たちの会社にもネットバブルの余波がきてから、ぶっちゃげ当時の僕は経営者として会社を制御できておらず、現場スタッフの一員的な働きしかできていませんでした。そんな中、これまで経験したこともない損失を出している会社の取締役として機能するかどうかも自信が全くありませんでした。「もはや取締役を辞任して責任を取ろう」と考え始めていたところでした。責任といえば聞こえはいいかもしれませんが、その状況から逃げたくて逃げたくてしょうがなく、諦める直前の精神状態でした。そんなときに、この話が出てきました。その話が出るまでは、この状況が本当に嫌で苦でしょうがなくいつ抜け出せるのか?早くこの状態が終わって欲しい!そればっかり考えていたのですが、「社長になれ」という一言で目が覚めました。

 固辞しそうな状況だったのですが、「もしかしたら、これはチャンスかもしれない。ここまでのピンチは狙ってもそうそう陥るチャンスはない。これを乗り切れたらかなり成長できそうな気がする。どうせなら受身でこの状況から抜け出すのではなく、社長として最高責任者として自分でピンチを乗り切ってみたら得られるものは大きいのではないか?どうせ今が最悪だからこれ以上状況が悪くはなりはしないだろう」不思議とそんな気持ちが沸々と湧いてきました。純粋に株主に結構な投資をしてもらったのに、何もお返しできないのは株主に任命していただいた取締役の立場として、ともかく情けなく、辛かったという気持ちも強かったですが。。。
 そう思ったら吹っ切れました。真っ暗だった気持ちにも少しずつ光が差し込んできました。役員・社員・株主などいろいろな関係者の皆さんの協力もあり、なんとか会社は倒産せずにすみました。僕がその中で出来たことはわずかだったかもしれないのですが、どん底だった気持ちからちょっとずつエキサイティングな気持ちに変わり、なぜか分からないのですが今までにないモチベーションを持つことが出来たような気がしました。その過程で自分の社会人として経営者としてプロとしての至らなさを痛切に感じ、また一方で周りの人たちの協力や優しさのありがたさが心に染み入りました。

 会社の存続がこのままでは難しいという確定的な判断をしてから、なんとか最悪の状況を乗り切るまで半年に満たない約数ヶ月というすごい短い期間でした。嵐のような毎日だったのですが、嵐に吹く飛ばされないよう一つだけ自分の心の中で唱えていた言葉がありました。それが「逃げない」という言葉でした。あの当時は正直言って仕事出来ていることの方が少なく出来ていないことだらけで反省だらけだったのですが、「逃げない」ことを行動規範の中核においた判断だけは手前味噌で申し訳ないですが立派だったと思っています。現実逃避をせずに真正面から受け止め、この状況をなんとか打開してやろうと自己洗脳しました。会社の役員としては当然といえば当然で、義務を果たしただけですけどね。「もう何が起きても逃げない」。それだけを当時は考えていました。そうこうしているうちに本当に代表取締役社長に就任しちゃっていました。


意識を変革したエピソードは以上です。

 
 当時「逃げない」という言葉を心に唱えるときはいつも同じ映像が頭に蘇っていました。それは、漫画のスラムダンクで湘北高校の安西監督が何回か言っていた「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という台詞のシーンです。
  スラムダンクはそれまで大学時代に週刊誌で読んでいたのですが、大学時代は毎週月曜日のスラムダンクが楽しみで楽しみでしょうがなく、あまりにも唐突に連載が終わったときは喪失感でいっぱいでした。それだけに記憶に鮮明に残っていたのだと思います。

 その台詞は、何箇所かで使われていたのですが、一番印象に残っているのは、山王工業戦で絶体絶命のピンチでベンチにいる桜木花道にオフェンスリバウンドの策を授けているところのシーンです。そのシーンがが特に頭に思い浮かびます。

 一般的に逃げ始めると、逃げること、もしくは、現実を否定することのみに神経が集中し、本質的に考えなければいけないこと、やらなければいけないことに意識が集中しなくなります。
 勝利することに諦めをいだいているからです。この山王工業戦のこのシーンでは、桜木をベンチに下げた時点から安西監督はなぜ湘北がここまで山王にひどくやられているのか?という現状分析が出来ており、その現状を打破する「オフェンスリバウンド」という答えを用意しており、その策を当事者の桜木に納得させ、桜木もその指示通りに素晴らしい働きをして、反撃のきっかけをつかみました。この安西監督と桜木花道は現状から逃げず、諦めず、自分たちの使命を果たしました。
 僕はこのシーンを思い出すことでどんなにピンチに陥っても「今のこの状況において【オフェンスリバンド】は何だろう?」というように打開策がないかどうかを心の中で唱えることを心がけています。

 こういうと事業においては撤退しないことが正しいのか?と誤解される人がいるかもしれませんが、「撤退」と「逃げる」こと「諦める」ことは次元が異なります。根本的に何が違うかというと「勝利」の定義です。勝利の定義には5W1H(Why、What、Who、Where、When、How)の前提が必要です。

 歴史好きの人はご存知かもしれませんが、「金ヶ崎の戦い」で信長軍は撤退しました。信長の「勝利」の定義が、元亀元年(一五七〇)に朝倉義景の首を取り朝倉氏の勢力をぶっ潰すことのみであれば、この撤退は勝利から逃げたし、勝利を諦めたことになったんだと思います。
 ただ、織田信長の勝利は、「天下布武」であり、それにつながる一連の戦略を実行し、戦乱の世を終わらせ新時代を迎えることだったのだと思います。したがって、織田信長は朝倉家をぶっ潰すことは一時中断しても生き永らえる必要があったし、戦力の損失を最小化する必要がありました。
 織田信長は天下布武から逃げなかったことで「金ヶ崎の戦い」では撤退を選択したんだと思います。天下布武が彼にとってどうでもよくて、元亀元年に朝倉義景の首を取ることが最終目的だったのであれば、歴史はまた別の結果に終わったことでしょう。

 逃げない・諦めないためには、何が大事なのか?何が勝利なのか?という命題に答えが出ていることが前提になります。その命題に答えが出ていないと何から逃げないのか?何を諦めないのか?の「何」に答えが出ていないことになり、決断そのもの意義がよく分からないものになってしまいます。会社経営においても、人生の選択においても「何」が大事なのか?勝利なのか?何から逃げたくないのか?何を諦めたくないのか?はっきりと明確にする必要があります。明快に答えられない人が多いのではないでしょうか?真剣に何かに取り掛かる前にしっかり心の整理をした方が時間の無駄がないと思います。
 
 僕は組織においても個人においても逃げてはいけないもの・諦めてはいけないものは「夢」なのではないかと思います。アメリカ独立宣言日本の憲法の前文にも、実現したい夢がしっかりと表現されています。アメリカのキング牧師の有名な"I Have A Dream"というスピーチも明快ですよね。
 夢は漠然としたものより5W1Hが明確なほうが、揺るがないものになります。特に大勢で夢を共有するケースでは単純かつ明確なほうが、何から逃げてはいけないのか?何を諦めてはいけないか?という問いかけに対して揺るがない方向性を示すことができると思います。
 価値観が多様化し目まぐるしく変化する現代社会では国も地域も企業も学校も個人も同じ夢を共有するには難しい局面に立たされているのではないかと思います。しかし、しっかりとこの問題を突き詰めた考えた組織や個人のみが夢を実現し、真の幸せを掴むことができると思います。

 何から逃げてはいけないのか?何を諦めてはいけないのか?しっかり意識して一日一日を大切に過ごせば、夢には一歩一歩近づいているのではないでしょうか?

「言うは易し、行うは難し」
頑張ろう!