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小説のお約束は、縛られるべきか?

2011-10-22 14:56:38 | SS・小説
 私は正直『物書き』だなんて自称出来る程、偉くはないのですが。

 でも、やはり書くからにはいろいろと真面目に考えたり、可能性を追求したりするのは当然、『物書き』の方々が過去に通られたであろう道を追いかけてしまうわけです。


 以前、このブログでも触れた『小説のお約束』と言う物は、元々は出版の都合ではあっても広く一般に浸透しました。

 もちろん、それが表現として理に適っているからこそ作家陣もそれに倣って書かれる様になったわけなんですが、それに縛られ過ぎるのもどうなんだろう、と、よく思います。
 正式な場ではもう、そうしなければ違和感を抱かれてしまう時勢ではありますが、もっとくだけた場面、もっと気楽に書けるシチュエーションでもガチガチにそれに縛られて、表現の可能性、ニュアンスの広がりを狭めてしまうのを、個人的には残念に思うのです。

 いえ、まぁ素人が勝手に言っているだけなんですけれどもね^^;


 例えば、『簡単な漢字は全て漢字で書かなければ読みにくいから、平仮名にしない』と言うのがありますが、私は以前、あえて意図的に平仮名を多用した物を書いた事があります。

 主人公がいつも冷静に思考や行動を出来るとは限らず、溢れ出る想いは漢字に変換されないかもしれない。理路整然と漢字に変換し、正しい候補を選ぶ精神的余裕が無いのかもしれない。
 そんな、『弱々しい想い』を表す言葉は、平仮名であるべきではないか。そんな試みをしてみましたが、自分ではそれが『正しかった』と納得出来ました。

 或いは、序盤では冷静であった主人公が、様々な想いを巡らせる内に思考が絡まってしまい、弱々しく心の中で泣き崩れる。最初は頭の中でちゃんと変換されていた漢字が、いつの間にか平仮名のまま行を連ねて行く。

 それが、過去に表現した『嫌い、嫌い、きらい』だったのです。
 「どうしてこの言葉、平仮名なの?」と言う物は、全て主人公の弱々しい想いでした。

 想いは強いけれど、輪郭がハッキリとしないボヤけたビジョン、と言うイメージでしょうか。



 次に、以前にも触れた『三点リーダ』。これはよく話題に出ます。『…』と言う物ですね。

 私が小説をサイトに投稿し始めた頃は、三点リーダでなく『・・・』を使っていました。中黒と言うヤツですね。三点リーダではないので、並べる数は三の倍数に縛られません。
 状況や感情の『間』を表現するのに、三の倍数に縛られる事にどうしても違和感を覚えてしまうんですよね。

 なので、場合によっては『・』を五つ。或いは七つぐらいだったり、極稀には二つにした事もありました。
 数が一つ違うだけでも微妙にニュアンスが変わる。
 例えば、「そう・・・」と「そう・・・・」では『間』だけでなく、感情の流れや葛藤の大きさ等、心情の背景の深さが違うと思うんです。なので、そういった細かい表現が出来ない三点リーダが嫌いでした。しかもこれ、『偶数個並べるべし』と言う決まりまであり、さらに幅を狭めています。つまり、六の倍数である事が確定しているわけです。
 最近は自分も三点リーダを使用していますが、今でも「なんで三点リーダの表現はこうなんだよ!!」と泣きたいやら怒りたいやら、納得しかねる事も多いです。
 また、三点リーダは『…』といつも中央に表示されるわけでもなく、場合によっては『...』と言う感じで下に下げられてしまう事があります。あれ、個人的に許せないんですよ^^;
 なんと言いますか、美しくない。

 まぁ、三点リーダが何故偶数個セットなのかはメリットもあるようなので、そちらは他の方がどこかで紹介されることでしょう。




 そして、実は今「このままお約束に従うべきなのだろうか」と一番強く疑問を抱いていますのが、鍵括弧(「」『』)内の最後に句点(。)を置かない、と言うお約束です。
 これは出版の都合と言いますか、こうやって文章を打っていても自動的に行末を調整される事がありますよね。
 一行の文字数が決まっていて、でも句読点(、。)や括弧類の分だけ見えない余裕があって、末尾にそれが来た時には改行しないでそのまま見えない余裕に句読点や括弧が表示される、と言う物でして、おそらく括弧を閉じる直前に句点があると不都合なんだと思われます。二文字分、スペースを食ってしまうので、行末にあると改行してしまい、次の行頭が閉じ括弧になってしまいます。
(分かりにくい表現なので後日補足:例えば一行二十文字と決まっている場所で、二十一文字目に句読点や閉じ括弧が来た場合、改行されずに二十一文字目として例外的に同じ行に表示されることです)

 しかし、私は台詞の末尾に句点が無い事に、大きな違和感を覚える事が多いのです。

 台詞は口から出ますよね。発言者は、句点で口を閉じると思うんです。心の中で語っているにしても、やはり句点でその想いは小さく区切られ、様々な感情が入り乱れた心も『ほんのわずかな冷静さを取り戻す間』が用意されるべきだと思うんです。

 例えば、
「私はそんな事言っていないし、思ってもいないわよ」
と言う台詞があったとします。文末が突然容赦無く閉じ括弧にバッサリと区切られてしまった事で、この台詞はただの『否定・反論』として単純な意味しか持つ事が出来ません。

 それを、
「私はそんな事言っていないし、思ってもいないわよ。」
と変えると、意味合いは全然変わってくる様に思えます。
 まぁこれは、単に私の妄想なのかもしれませんが、この末尾の『。』一文字の間に発言者は自分の口から出た『否定・反論』を、ほんの一瞬だけ冷静に振り返って葛藤を持つ事が出来る、と思っています。

 言うなれば、
「私はそんな事言っていないし、思ってもいないわよ(今更そんな事言われても困るし、本当の事私の口から言えるわけないじゃない……)」
と言う様な、『発言者が言葉を口から出した後の複雑な余韻』のニュアンスを読み手に感じてもらうためには、この末尾の『。』が必要不可欠だと思うのです。

 これも、最近は『お約束』に従って自分も句点を入れていませんが、やはり納得は行きません。



 まぁ、私がちゃんと世間に評価される様な作品を出せたら、私の主張も真面目に議論される事になるのかもしれませんが、なにしろ素人ですからまず相手にされませんな^^;


 或いは、こういった制約を物ともしない文章力があれば、あえてこんな反論を投じなくてもいいのかもしれませんね?



 文章のお上手な方々は、どう感じて(思って、でなく)みえるのでしょうねぇ…………。






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