分かったよーなこと、言ったって~!!

中途半端な知識で適当ぶっこく無法地帯へようこそ( ^-^)ノ

まこバー!?(アイマスネタ)

2012-04-29 16:53:41 | アイマス・ニコマス
 今日は、アイマス関係者にしか分からないお話です(´・ω・`)


 以前、まぁウソm@sに私が突発的に出した動画なんですが、こんなの投稿しましたよね。


わんたP 【第五次ウソm@s祭り】『真盛り(まこともり)』 第72話




 この中に出てきます『まこバー』の看板ですが、これは金沢市片町を歩いていて偶然見つけた物なんですよ。もう、脊髄反射で写真撮りましたw


 で、今頃になってちょっと気になってきたので、軽く検索かけてみましたら出てきました。


たまには片町のバーでも紹介しようかな?「まこバー」
(あさぴーのおいしい独り言 様)



 まぁこれは2006年7月13日の記事なわけですが、注目すべきはこのバーのママさん、いや、マスター???


 どうも、『彼』とも『彼女』とも言える方のようでして、『まこっちゃん(或いはまこちゃん)』と呼ばれるその方がなんだか、菊地真 嬢を彷彿させるではありませんか!
 いろいろ検索で出てきたのをクリックして回ってみますと、他のブログさんでもやはり人気者でして、ある意味『アイドル』的存在なわけでしてね、ちょいと変わった方ではあるようですが、全く違う業界から華麗に転身されても豊富な話題とトークで上手くやっていらっしゃるようでございます^^;


 ノベマスでは立ち絵が存在する所から、まこりんがバーテンダーをやるお話がちょこちょこありますが、なんだかこちらの方に影が重なってしまいますねw


 北陸はよく訪れるので、そのうち行ってみようかなぁ…………?(・・;)





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夏が来~れば思い…出したくないわ!?(^-^;)

2012-04-28 14:36:51 | 徒然の日常
 寒さがぬるんだと思ったら、随分とあったかくなりまして。

 かと思うと急に気温が下がって、着る服に困ったりなんかして。

 私の車には外気温度計が付いてるんですけれど、もう毎日気になって気になって。

 そんな中この間、全国に先駆けて九州では真夏日(気温三十度超え)を観測されたとか。


 そうなりますとねぇ~……、まぁた、虫がいろいろと出て来るわけなんでございますよ。

 そろそろまたムカデが怖くなってきたわけなんですが(毎年凄い数が家中うろうろする)、とりあえずその前に自室で大きな蚊に遭遇致しまして。


 あぁ……また今年もあの音と痒みに苛まれるのか、と戦闘体勢に入ったわけでございますよ。



ポンポコP 【第5回MMD杯本選】なつのか2010






 以前貼ったような気がしなくもないですが…………また今年もってことで( ̄▽ ̄;)






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運命の神様は悪戯を楽しむ!?

2012-04-27 20:16:21 | 思考の散歩
 今日、お話する事は、随分前に書かせて頂いた考え方と同じなのですが、実際に今日の夕方に起こった出来事が例として打ってつけだと思いますので、地図を御覧頂きながら現場を御想像下さい(^-^;)






 場所はこちら、岐阜県庁よりちょーっと東にあります、岐阜県美術館のそばです。

 ちょいと用事で車を走らせておりまして、いつも通る道が時間的に混んでいるなと思い、普段余り使わないルートを選びました。





 [A]を走っています。最終的に[B]方向へ行きたいので、どこかで環状線に出なければなりません。

 普段使わないルートなので、特にここで曲がりたいという拘りはありませんでした。





 地図では分かりにくいですが、道の実際の広さとしてはだいたいの車が[C]方向へ曲がることになります。

 特に逆らう事も無く、自分もそちらへ左折。ところが正面の環状線には中央分離帯が見えます。

 そのまままっすぐ環状線に出てしまっては逆方向へ出る羽目になりますので、遠くを見ながら「それじゃ、[D]で曲がろう」と、見当をつけて右折します。


 しかし、[D]も中央分離帯に突き当たってしまいますので、左折せずさらに北進しました。





 んじゃここで曲がるか、という信号が赤だったので、混雑にウンザリしながら歩行者の動向を、見るともなく見ていたんです。

 するとその信号に歩いて近付くおばあさんが、[E]地点で折り畳み傘(日傘と思われる)を落とされたんです。

 袋をいくつかお持ちだったので、そこから傘が抜け落ちても気が付かれなかったのでしょう。


 私も凝視していたわけでもないので自信は無かったのですが、「奥さん! それ落とされませんでした?」と大声で呼んでみましたら、やはりその方の傘で間違い無かったようでした。


 お互いニヤニヤとアイコンタクトを交わして、そのまま私は[F]の通り、環状線で帰途に就いたわけなのですが、「これは凄い偶然だったな」と、運命じみた感覚を覚えたのです。





 いつも通りのルートは、この[G]です。いつもならば[E]は通らないわけですよね。

 そして、なんとなく気分的に通過しましたが、本当は手前に[H]というルートが存在しました。ここで曲がれば、環状線を北上出来るので曲がっても良かったんです。むしろ、流れとしてはここで曲がった方が自然なはずだと思います。通過したのは、『ほんの気分』でしかありません。


 そして、実は[C]の時点で少し迷って、まごついていました。タイムロスがちょこっとあったんですね。

 しかし、[E]の時点で私の車は先頭から二台目。タイムロスが無ければ、とっくに曲がっていますので、おばあさんが傘を落とされた頃には[F]の信号で止まっているか、もしくは目的の環状線に合流出来ていたと思われます。



 たったひとつ、この中でひとつだけボタンを掛け違えば、おばあさんの傘はそのまま持ち主に拾われる事は無かったことでしょう。運良く手にする事が出来たとしても、それは家に帰られてからもう一度道を辿られた場合のみ、或いは翌日現場を通ってまだそこにあったら、そしてそれに気付いたら、というかなり限定的な条件となります。



 つまり、私がたまたま[A]のルートを珍しく選んだのも、[C]で曲がった末にまごついたのも、[H]を気分的にスルーしたのも、運命の神様が気まぐれで私にその瞬間[E]で信号待ちをさせるために仕組んだシナリオだったのだ、と考えますと、なんだかうそ寒くなるやら、感動を覚えるやら、なにやら壮大な仕組みの一端を垣間見た心地になったわけです。




 皆さんも、こんな事ってありませんか?




 くすっ、と満足気に吹き出す声が聴こえたら、きっとその主は運命の神様でありましょうぞ^^





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児童虐待を考える。

2012-04-26 12:43:08 | 思考の散歩
 よく『泣く子と○○には勝てぬ』なんて表現を目にしますよね。

 ○○には様々な言葉が入れられます。自然災害だったり、会社の上司だったり、役所だったり、警察だったり。

 御存知の方も多いと思われますが、出典は『泣く子と地頭には勝てぬ』です。


357.【な】 『泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ』

「泣く子と地頭には勝てない」という言葉の意味するところについて



 赤ちゃんがわんわん泣いて、こっちは仕事なりで疲れていて。

 鬱陶しくてイライラしてしまう。

 怒鳴りつけてみると、一層声を高くあげるので、自分もさらに強い口調になる。

 相手は負けじとさらに声を張り上げる。埒が明かないので手を出す。

 それでも静かにならないので、暴力がエスカレートする。


 その結果、この日本中で何人の赤ちゃんが亡くなる事になったか、昨今のニュースを見ていましても心が絞りきられる様な気持ちになってしまいます。有名な『北風と太陽』、北風は勝つ事が出来ないんですよね。


 今日の冒頭、○○に入る物はいずれもそういった言葉になると思います。

 例えば、雷。台風。津波。地震。

 思い出すのも嫌なワード、ここに入れられる事がありますよね。


『力を尽くしても適わないもの』『暖簾(のれん)に腕押し』

 そういう事ですよね。真っ向から立ち向かっても相手が強大過ぎて、こちらは自分の小ささを痛感させられて終わってしまう、これは大変なストレスと挫折感を伴います。


 しかし、赤ちゃん相手の場合。愛情が希薄な場合には、自己都合でいとも容易く暴力手段に訴える事で物理的に黙らせてしまえるわけです。御自分が挫折感を味わう事無く、力によって黙らせる事で「自分は相手を黙らせられる偉大者だ。無力感に苛まれる様な、小さい存在ではないのだ」と、歪んだ自己満足と浅はかな達成感を得てしまうわけです。

 「自分は強い北風だ」と自分を納得させてしまう、そこに愉悦を感じてしまう。


 悲しいことです。御自分もそうやって小さい頃に泣き喚いて、親を我慢させて育ったであろうに。




 身近なお話で、意外な事例がありました。


 中学時代の同級生、ワルのヤンキーだった男の子が、何年か前に小さい娘さんを連れて歩いているのを見ました。

 3~4才ぐらいだったでしょうか、えんえんと道端で泣き喚く子に、彼は屈んで目線を合わせ、一生懸命「これはこうでしょう、あれはああでしょう」と、猫なで声で諭していたのです。

 ああ、アイツはこの子のことを、本当に大事にしているのだなと安心し、改めて世間で起こる児童虐待がどうして起こるのか、憤りを感じてしまいました。



 別の事例では、子供を作らない女性がみえまして。

 彼女曰く、
「私は子供を作ったら、虐待をしてしまうと思う。でも、大事な子供にそんな事をしたくない。そんな事をする親にもなりたくない。だから、私は子供を作れないんですよ」
だそうで、それも衝撃を受けました。


 結局、『我慢をして、子供と接する』と言うのがネックなのでしょう。

 件の女性は才能型で、自分に良い意味でも強くプライドを持ってみえて、少々精神的に不安定な傾向があった方なので真面目に考えて自分がそうしてしまう、自分の精神を蝕まれる事に我慢が出来ないだろう、と気付かれたのだと思います。
 自分も子供も大切にしようと思えば、『作らない』という寂しい結論に至らざるをえなかったのでしょう。



 それでは、どうして実際に虐待のニュースがここまで溢れているのでしょう。

 罪の無い赤ん坊が、どうして早々と人生を閉じなければならないのでしょうか。


 結局、現代人は『我慢』が出来なくなってきているのだと思います。


 文明が発達し、様々なストレスを感じなくて済む様になってきていますよね。

 戦後の様な貧しさは無い。世界各地のおいしい物が食べられる。遠い場所に速く辿り着ける。公衆電話を探さなくても手元に電話機がある。いろんな店を回らなくてもデパートで全部買い物が出来る。或いは、出掛けなくてもネットで注文して自宅に届けられる。洗濯物を機械に放り込めば乾燥まで自動でやってくれる。冷めてしまったご飯が電子レンジで簡単にホカホカになる。夜中に電球が切れても近くのコンビニですぐ手に入る。

 また、『便利』を提供する事で商売が成り立ち、メーカーは『便利』な物を作る事で利益を上げる。

 我々はその恩恵を受け続ける内に、『我慢』しなければならない機会が随分と減ってしまいました。


 『我慢をする』と言う事は、『自分を抑える』と言う事ですから、どんどん『自分を抑えなくて良い』時代になってしまった。

 『自由』『権利』が叫ばれる時勢が、そこへさらに拍車をかけてしまった様にも思えます。


 『自分が我慢をする』と言う事を、『自由・権利を奪われた』とネガティブに捉える様になったのではないでしょうか。



 よく、アメリカを『自由の国』呼びますが、彼の国の自由・権利には『責任・義務』も伴います。

 翻って我が国は戦後、その『責任・義務』をすっ飛ばして『自由・権利』ばかりが叫ばれる様になったのではないでしょうか。


 これは、極端な支配や統制が行われていた敗戦国に対して、市民を解放する意味、またはそれによって(あえて言う、立場的な表現ですが)占領軍に対する民衆の敵意を緩和させる目的もあったのでしょう。



 さて、随分前に書きました記事(どの記事かはさすがに忘れてしまいましたが)で『人間は、やって良いと思った事をやるなと言われると怒る』みたいな言葉を出しましたが、これはアラブの方で言う『ラクダが頭をテントの中へ入れる事を許すと、そのラクダは全身をテントの中に入れてくる』と言う事ですね。

 ラクダの気持ちで考えてみれば、テントに頭を入れても怒られなければ『頭を入れても良い』。

 そして『ここまで良い』の次にどんどん『首は』『前足は』『胸は』と、許可の要求はエスカレートしていくわけです。


 我々日本人は、我慢しなくて良い『便利』に慣らされる内に『ここまで我慢すれば良い』と言うハードルが、どんどん下がってきてしまったのではないかと、最近ニュースに出てきます数々の衝動的な犯罪を見ていて痛感するのです。





 泣く子供を静かにさせる『便利な機械』など、存在しません。




 我々誰もが、『不便利な人間』に育てられたんじゃありませんか――――――






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