歴史の教科書では、オーストリア皇太子がサラエボの青年に暗殺され、第一次世界大戦が勃発。 そして決着は、英米仏の勝利、独露の敗北、そしてドイツはベルサイユ条約で天文学的数字の賠償金を背負わされ、ハイパーインフレ。
英仏は勝利するも没落し、世界覇権は欧州からアメリカに移動。 なんのこっちゃ?と思った人も多いかと思いますが当然です。
アメリカに覇権が移動したのは、ロスチャイルド・モルガン・ロックフェラーなど国際金融財閥が、アメリカ政府は一株たりとも持たない100%の私企業FRB(アメリカ中央銀行)を1913年に設立し、
ただの紙切れにドル札を印刷しまくって、イギリス(大英帝国)とフランスに巨額の戦争国債を買い、巨額の軍事物質を売りつけたのd簡単に説明でき、その通りでしょう。
ただ、サラエボの件とか、何でドイツがやられなあかんねん?という疑問には全く答えてくれていません。
実は、当時はドイツの興隆期で、科学技術・哲学・音楽・文化などが花開き、特にガソリン機関(エンジン)やディーゼル機関を開発し、軍事的にも、英米仏を上回り、大英帝国の覇権を脅かす存在になっていました。
そうです、石油です。 石油が第一次世界大戦の本当の原因です。 今まではロックフェラーのスタンダード石油 vs 英欄・ロスチャイルドのロイヤル・ダッチ・シェル の話を書いてきましたが、この宿敵の両雄は、ドイツをやっつけるために本音は別にして一時的に仲良くなるのです。
『東方に進出せよ!』を合言葉に、ドイツの外交陣は条約の絆を締め、実業家もこの政策に沿って利権の獲得に血眼になってました。 軍部もまた、この目的の下に動いていました。 これがサラエボ事件の背景です。
ドイツの東方進出政策がバルカン半島の雲行きを怪しくし、サラエボの悲劇を生み、世界を戦禍に巻き込む一大動乱となったのです。
ドイツの東方進出の目的は石油以外の何物でもありませんでした。 カイゼルの3B政策ーベルリン、ビザンチン(イスタンブール)、バクダッド(イラク)を地政学的に支配し、
大英帝国の3C政策ーカイロ(エジプト)、ケープタウン(南アフリカ)、カルカッタ(インド)を地政学的に支配し、植民地政策を、有利に進める政策に対抗するものでした。 実は、ドイツは大英帝国の世界覇権を狙っていたのです。
このドイツの3B政策は、先ずバクダッド鉄道によって実行の第一歩を踏み出しました。その鉄道が走った線路は、今までアラビアンナイトの主人公たちがラクダでゆっくりと移動していた道と同じところに敷かれ、鉄道のけたたましい音に、彼らはびっくりしたのです。
このバクダッド鉄道も、またシリアのアレッポからモスールに向けたアナトリア縦貫鉄道もすでに石油を運び、石油とは切っても切れない存在になっていました。 アナトリア縦貫鉄道会社は1904年早くもメソポタミアにおける石油採掘の許可をトルコ政府から得ていました。
鉄道によって代表されるドイツのメソポタミア進出は、実はフォン・ティルピッツ提督率いる潜水艦や巡洋艦に燃料を供給する使命を負わされていました。 そして、こうした目的を帯びた鉄道建設が、戦争への速度をはやめた事は否定できない事実です。
そして、1914年の第一次世界大戦の勃発となります。アナトリア縦貫鉄道はは最終区間のブルグルトゥ=アレッポ間が、トンネル一つを除いて完成していましたが、バクダッド鉄道はバクダッド東方約60kmのイスタラブッドという小さな駅まで完成していただけでした。
開戦後、2,3ケ月の間に、更に北へ北へ60km、サマラ市までは完成されましたが、まだメソポタミアの石油開発までは手が伸びていませんでした。 そこに早くも開戦です。ドイツはたちまちに石油の不足に悩ませられました。
戦前の、ドイツの石油輸入額は126万3千トンで、その内訳は、以下の通り。
米国から 719,000トン
ガリシア(スペイン北西部)から220,000トン
ロシアから 158,000トン
ルーマニアから 114,000トン
インドから 52,000トン
ドイツにとっては英国を敵として戦うことになった結果、宣戦布告の当初から、これらの石油補給路はほとんど封鎖されてしまいました。 ドイツ参謀本部が、先ずガリシアに対し、次にルーマニア、そして最後にコーカサスに対して猛烈な攻撃を加えたのは、この石油のためです。
英国の封鎖にあい、ドイツには一滴の石油も入ってきません。 潜水艦、飛行機、トラックも石油なしには動きません。 しかもドイツは作戦上の不自由をしのんでさえ、石油の使用に制限を加えなければなりませんでした。トラックは重大な作戦以外は使用を禁止されます。ドイツ農民はランプに灯りをともすことができず、 リヒトホーフェンをはじめとして、ドイツの戦闘機はガソリン不足のため、がそりんよりはるかに低能率なベンゾールを燃料として使っていました。
実は、英国側も石油に悩まされていました。 第一次大戦中、連合国がオスマン帝国のイスタンブールを占領するために、ダーダネルス海峡に対して実施した、あの悲惨を極めたダーダネルス作戦は、石油のための戦いでした。
コーカサスの豊富な石油は、トルコが門戸を抑えているにも関わらず、何とかして英仏艦隊のために獲得する必要がありました。 またドイツの盟友たるトルコの王が、ダーダネルス海峡に頑張っているとはいえ、黒海の石油はこれを開放する必要がありました。 だから、はるばる遠征してきた軍隊は、がリポリの丘の中腹に、屍を積み上げたのです。 豪州兵はロシア石油の犠牲になったともいえます。
いかに犠牲が大きくても、ダーダネルス海峡を封鎖することができれば、連合軍はバクダッド平野とドイツ軍を両断できるのです。 まさに石油のための戦争です。
石油獲得のために、フォン・マッケンゲン元帥率いるドイツ軍は、ルーマニアに殺到し、石油産地、精油所および送油管をことごとく占領。その所属会社のストゥア・ロマナのために、イギリス、オランダ、フランスおよびツーマニアの諸会社の財産を没収してしまいました。
この占領に当たって、ドイツ軍はバイコープ=コンスタンツァ間の送管を破壊し、これをプロエスチからジウルジウに至る軍用路に敷設しなおしました。 ついで、ドイツ軍の経済本部として石油工業設立会社を興し、他の石油会社をことごとく没収、整理かつ略奪し、採掘と販売によるすべての利益を一手に収めてしまいました。 この独占は、1918年8月、ドイツの東西両戦線が崩壊するまで続きました。
英国のタウンセンド将軍は孤立無援でクトの防衛にあたり、147日にわたり、死守しました。 メソポタミアおよびペルシャにおけるアングロ・ペルシャン(英・イラン)石油会社の権益確保のために死力を尽くしました。 しかし、間もなく英国軍はバクダッドを占領しました。
バクダッド陥落の報により、ベルリンの参謀本部は石油問題がいよいよ自国に不利となってきていることを知りました。 ここにカイザルはフォン・ファンケンハイン元帥に対し,如何なる犠牲を払っても、この石油首都を奪還すべき特別命令を下しました。
しかし、ファルケンハイン元帥は失敗。 英国軍はさらに北上し、遂にもスールのデリック(クレーンの一種)を占領しました。ベルリン参謀本部はいよいよ不安に包まれ、ドイツ国内における石油の使用はますます窮屈になりました。
メソポタミアの更に北においても、彼我の戦線が相対峙していた、それは実に石油戦線でした。 ロシアのニコラス大公がコーカサスの山岳地帯を死守していたのは、バクーの油田を防衛するために他なりませんでした。
ドイツとトルコの連合軍がこの山岳地帯に猛撃を加えたのは、ロイヤル・ダッチ石油会社(後に、ロスチャイルドの仲介で、ロスチャイルドも株主となるシェル輸送会社とロイヤルダッチ社の合弁、ロイヤル・ダッチ・シェル)のデターディングの石油権益の奪取を目的としていたのです。
この方面の戦況を有利に導くために、ドイツとトルコの連合軍がアレンビー軍と戦っているシリア戦線から、多数のドイツ兵を移動させました。 シリア方面の司令官はこの措置に対して抗議を申し込みました。
しかし、豊富に流れ出るバクー油田の方が、パレスチナの聖地よりはるかに重要である以上、司令官の抗議は当然でしょう。
ロシアの石油
こうしている間に、ニコラス大公の戦線の背後では、恐るべき陰謀が計画されていました。バクーにおいて、一人の陰険で狡猾な労働者が、ツァーもカイゼルもデターディングも喜ばないような新しい歴史をつくるべく準備をしていました。
ゾゴ・ジュガシェフはこの地方の靴屋に生まれましたが、ボリシェヴィキ(過激派共産主義者)の有力な先駆者でした。 彼は1905年(日露戦争中)の革命のとき、捕らえられてシベリアに流されましたが、世界大戦中に釈放されて帰国し、密に復讐の機会うかがっていたのです。
彼はバクーにおける石油労働者の状態をよく知り、マルクスに通じていて、かつコーカサスの山々にとどろく砲声が何を意味するのかも知っていました。 ストライキが各地に勃発しました。
その背後には、名前も分からない一人の人物が、労働者を指導していました。 「バクーのプロレタリア」と題する左翼新聞が廃刊され、盛んに労働者を煽動します。 さらに、怪奇な陰謀が成功し、ボリシェヴィキ宣伝文は奇異にも政府発行の新聞に堂々と印刷されて、労働者の間に配布されました。
そして、ツァーの秘密機関オクラナの活動となり、この陰謀に糸を操っている指導者が明らかとなりました。ジュガシェフは遂に捕らえられて、牢屋に叩き込まれてしまいます。 しかし、1917年に決起したボリシェヴィキは、ケレンスキー(穏健派共産主義者)政府を葬り去り、天下に号令することとなり、ジュがシェフは獄中から救い出されました。
ゾゴ・ジュガシェフはモスクワに赴き、レーニン、トロッキー、およびクラーシンなどの巨頭に次ぐ最高委員の席に着きました。ジュガシェフという名はロシア語でも呼び難いので、彼は自ら「鋼鉄」という意味をとって、スターリンと改名しました。
彼はロシア再建にあたって、特に鋼鉄に興味を持っていました。 彼の同志達のなかには、彼の革命家としての踏み出しが石油であるところから、ロシア語の石油という意味をとって、「ナフタ」というべきだと主張した人もあったといいます。
ボリシェヴィキストの石油政策は極めて早くから着手されましたが、常にその要はスターリンでした。 そして彼は今や、ソヴィエト連邦の独裁者です。
こうした石油戦が展開している間に、西部戦線および北大西洋においては、重大な事件が少しも一般の注意をひかずに、頻発していました。 ルシタニア号の撃沈は新聞のトップ・ニュースとして大々的に取り扱われましたが、小さいタンカーの爆沈はあまりにも毎日のこととして、たいして話題ともなりませんでした。
ドイツ軍は欧州の一隅および近東で石油の略奪に熱中する一方、海上を唯一のタンカーとたのむ連合軍の石油と潤滑油を満載したタンカー征伐に躍起となってましたのです。
ヘリゴランドの基地を出動した全潜水艦は、フランスおよびイギリスに向かうタンカーに攻撃を集中すべく命令されていました。
その成果は恐るべきもので、連合軍は石油補給に一大支障をきたしていました。戦前まではアメリカにつぐ石油国ロシアは失われました。しかも、今やアメリカのスタンダード石油は危険な大西洋を航行して石油を運ぶより、もっと安全で儲かる国内および太平洋方面の市場開拓に全力をあげていました。
元来、連合軍の石油消費量は、陸上においては製油100万トン、海上においては重油800万トンでした。1917年には石油不足は切実な問題となり、英国大艦隊は練習航海も機動演習まで中心しなければならないところまで、追い込まれました。
連合国側の各首相は、石油需給予測が難しいのを見て、新たに石油大臣を閣僚に加え、この問題の解決に乗り出しました。さらに連合国各国から委員を選定して、連合国石油委員会を組織し、貴重な石油の公平な分配をするようになりました。
連合軍の危機
こうした努力にも関わらず、日に日に、石油不足は深刻になってきました。絵国海軍の大半は石油を燃料とする軍艦より成り立っていました。 陸上にはトラックがあり、戦車あり、飛行機ありで、驚くべき速さで石油を消費していました。後方の鉄道輸送系統の混乱のため、軍隊の輸送や移動はすべてトラックを使用していました。 もし石油の供給が停止されたら、トラックも動かなくなってしまいます。
対戦勃発当時、フランス軍はわずかに110台のトラック、60台の牽引車、132台の飛行機を持っているにすぎませんでした。大戦最終年には、フランスの保有するトラックの数は7万台におよび飛行機は1万2千に達していました。
一方、英国及び米国の軍隊が使用していたトラックは、10万5千台、飛行機は4千に及んでいました。西部戦線における攻勢に当たり、連合軍側の使用数石油は1日に1万2千バレルに達していました。
1917年12月は連合軍にとって暗黒の月でした。 石油消費と石油補給との間にはい大きな開きがあり、フランスにおける石油のストックはわずかに2万8千バレルまでに低下していました。
従来、フランス軍に対する石油の供給にあたっていた石油精製所10社よりなるカルテルは力及ばず、国内の石油は最後の1滴となるのも認めざるを得ませんでした。
ウォッシュ将軍は大変驚き、もしこの状態が続くなら、ヴェルダン戦のような一大機動戦が展開した場合、全フランス内の石油を3日で使い果たすであろうといい、政府の善処法を要望したのです。 この時、クレマンソー仏首相からウィルソン米大統領いあてた切実な要求が送られました。
結果、ウィルソン米大統領はタンカーの獲得に成功。 スタンダード石油が彼の要求を充たしてくれたのです。 こうしてウォッシュ将軍はフランス軍のトラックに石油を充たすことができました。
しかし、ドイツのルーデンドフは、それができませんでした。 何故なら、連合軍がルーマニアおよびその油田をドイツから奪還したからです。1918年、ドイツ軍はこれを反撃して連合軍戦線の突破ン成功しましたが、トラック不測のために必要な援軍を得ることができなかったのです。
フランスのウォッシュ将軍は、その多数のトラックと豊富な石油によって反撃に移り、遂にドイツを破りました。 カーゾン卿に言わせば、『連合軍は石油の波に乗って勝利を得た』としていますが、正確には「米国の石油」と付け加えるべきです。
こうしたアメリカの貢献にも関わらず、戦後の米国石油権益は恵まれた地位に置かれたとは言い難く、世界石油の支配者、ロイヤル・ダッチ・シェルとスタンダード石油は、連合国側の勝利のために、従来の競争的立場を捨て、手を握らねばなりませんでした。
この協調は、ロイヤル・ダッチ・シェルにとっては王都合でしたが、スタンダード石油にとっては不利でした。何故なら宿命の敵、ロイヤル・ダッチ・シェルを倒すのに絶好の機会を、みすみす、見過ごさなければならなったからです。
1918年3月、独ルーデンドルフ将軍の死にもの狂いの攻撃に際しても、連合軍は石油があるがために支えることができました。 当時フランス石油委員会会長シャサンルゥ・ローバは、『フランスはその要求量4万4千トンに対して、作戦上の必要によっては、優に清製油17万526トン、その他の石油6万7千トンを自由に使える』と豪語していたほどです。
このような豪語は、何回も言いますがアメリカの石油のおかげで口にすることができたのです。近視眼のウッド・ロー・ウィルソンが欧州外交団の仕掛けた罠に落ちたように、米国人は駅油獲得の埒外(らちがい)に追いやられていました。
世界大戦の終息は、石油秘密戦に新たな数章を加えることとなり、っ世界石油支配と市場制覇を目指す覇権争いが展開することに名rました。そして、アメリカは世界大戦に参加して連合国勝利の直接の恩人とあがめられながらも、経的には苦杯をなめさせられたように、石油業界に於いても恩を忘れた英仏に熱い湯を飲まされることになりました。
次の投稿に続く。
(参考:本件、今までの投稿)
日本市場でのロイヤル・ダッチ・シェル vs スタンダード石油 販売戦争
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f9b0c8415ececd8eb83f86f3c2271c80
極東における血みどろの石油販売戦争
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f22623351b78925c3350ffb60ea56de9
ロックフェラーを倒したロイヤル・ダッチ・シェル(デターディング・サミュエル連合)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/f8dee26c06fec6a31193a3eee46ad2c9
石油業界のナポレオン、デターディングと英国のユダヤ人、マーカス・サミュエル https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/7addcc3b4d7d47626e3ddf56898b30ec
独ガソリン・ディーゼルエンジンと仏プジョー、そしてロスチャイルドhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/e16baece0ccf5acec5e58e26f8bdcd04
ロックフェラーより早かった日本の石油商用化
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/7bf2a45203a4f71982dfdf7e53dd2c02
石油の発見と利用の人類史
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b555050c36935ad6e972408f0bae2c6b