米ウォール街の関係者と会うと11月の米大統領選の話題になる。多くがトランプ前大統領の返り咲きを予測するものの、前大統領が退任した3年前にそれを予測してきた関係者はいない。
米経済界が戸惑うのは「ディープステート(闇の政府)と闘う」(前大統領)という陰謀論の強まりだ。
米首都ワシントン北部に「コメットピンポン」という名のピザ店がある。卓球台が置かれていることをのぞけば、ごくありふれたレストランだが、筆者はワシントン駐在時(2015〜21年)に同店を何度か訪れたことがある。同店は「トランプ氏は闇の政府と闘っている」という奇っ怪な陰謀論の発祥の地といえるからだ。
16年12月、同店は陰謀論者から銃撃を受けた。「同店の地下室を拠点に、ヒラリー・クリントン元国務長官らが児童売買ビジネスに手を染めている」というニセの情報がオンラインで出回ったためだ。
コメットピンポンのオーナーの名前がクリントン陣営から流出したメールに記載されていたことが遠因だが、トランプ支援者や白人至上主義者によって何重もの虚偽情報が加えられ、陰謀論が形成された。
ワシントン市内にあるレストラン「コメットピンポン」は陰謀論者の標的となり、16年に銃撃を受けた
16年当時、ワシントン駐在記者だった筆者は、こうした陰謀論を必ずしも重要視しなかった。荒唐無稽な少数派の意見としか思えなかったからだが、陰謀論の軽視は間違いだったと4年後に気づく。
トランプ氏は20年の大統領選で敗北を最後まで認めず「バイデン陣営による選挙不正があった」と自らも陰謀論を唱えるようになった。
「Qアノン」と呼ばれる陰謀論者らを扇動して、連邦議会議事堂が襲撃される歴史的事件にまで発展した。多くの政治関係者は「民主主義の歴史に汚点を残したトランプ氏の政治生命はこれで絶たれた」と判断したが、それはまたしても間違いだった。
「連邦政府は秘密結社に掌握されている」。米調査機関によると、今では米有権者の44%がこう信じているという。
秘密結社や闇の政府という概念は、程度の差こそあるものの「国際金融資本と軍産複合体、さらに官僚組織が結託して政府を陰で動かす裏の組織」というものだ。
強力な陰謀論者はそこに「闇の政府は国際的な児童売買ビジネスに手を染めている」などというストーリーを加える。
トランプ前大統領は選挙結果を覆そうとしたとして起訴され、投票集計機に不正があったと誤報を流したFOXニュースは、製造業者に7億8750万ドル(約1170億円)もの和解金を支払うことになった。
それでも陰謀論が消えないのは、政府機関による科学的データや客観的証拠が信用されないからだ。米世論調査によると「連邦政府を信頼している」のはわずか16%で、1960年代の70%台、2000年台初頭の50%台から大きく落ち込んでいる。
2021年1月には、トランプ大統領(当時)の支持者が連邦議会議事堂を襲撃する事件が起きた=AP
既成の政治権威への厳しい不信感が陰謀論を生む。背後にはあるのは、回復不能なほど広がった経済格差が固定しつつあることへの絶望感だ。
米国勢調査局が持つ半世紀の家計所得データをみると、上位5%部分に位置する家計は所得(インフレ調整済みの実質値)は1.8倍に増えた一方、中間層は1.3倍にとどまる。
米国の富(142兆ドル)は上位1%が全体の30.5%を握り、中間から下位50%はわずか2.6%にすぎない。バイデン政権下でのインフレは実質所得を目減りさせ、この3年間で中間層の所得は5%も少なくなった。
最大の問題はその経済格差が固定化しつつあることだ。例えば教育。2000年以降、大学の学費は2.7倍に膨らみ、消費者物価の伸び率を超す大幅なコスト高となった。
低所得層は大学教育を受けにくくなり、学生数はこの3年で100万人も減っている。公立小中学校をみても、その財源は主に地元の固定資産税で、初等教育から富裕層に有利に働く。機会の平等は損なわれ「持てる者と持たざる者」の分断は強まる。
経済格差は命の格差にもなる。全米50州で平均所得が最も低いミシシッピ州は最も短命で、平均寿命は18〜20年の間に2.7歳分も短くなった。米国の保健医療支出は平均で年1万2000ドルと日本の2倍強もかかり、自己破産の7割弱は高額医療費が原因とのデータもある。
23年の政界でのロビー活動費をみると、例えば上位20団体・企業のうち7団体・企業が医療・製薬関連だ。
クリントン政権で労働長官を務めたロバート・ライシュ氏は、新薬開発のための追加利益を認めつつも「企業の利益保護へ強力なロビー活動を展開している」と指摘する。
浮かぶのは巨大企業と政治権威との強い結束であり、実態のない「闇の政府」という陰謀論者の概念は、ここから形作られることになる。政
治権威からからはじき出された層は「不当な扱いを受け、虐げられている」(トランプ前大統領)。持たざる者のワシントン政治への拒否感は強まる一方だ。
米政治は1980年代以降、新自由主義に影響を受けた共和党と、大きな政府を志向する民主党の対立構図だった。
トランプ現象にあるのは、自由市場と大きな政府の対立ではなく「市場と政府は誰のためにあるのか」という持てる者と持たざる者の対立軸だろう。アメリカンドリームの源泉である機会の平等を取り戻すことが、その分断を埋める解決策となり、闇の政府という陰謀論を消し去る方策にもなる。
トランプ前大統領は自ら反体制派と名乗り「闇の政府を粉砕する」と選挙公約に掲げる。
ただ、その施策は関税引き上げなど場当たり的な手法にとどまる。ケインジアン、マネタリズム、新自由主義と、戦後の経済政策理論は20年ごとに主役交代してきた。
ところが2000年以降は柱がみえず、資本主義そのものが迷走する。バイデン氏とトランプ氏の論争が新たな政策理論を生めば幸いだが、その兆しはみえない。