高周波発振器 BAW素子採用でPLLを不要に
体積弾性波素子(BAW素子)は水晶など体積弾性波を利用した圧電振動子の総称であるが、水晶と差別化するため、本稿ではこの定義を「圧電薄膜を用いた振動子」に限定して用いることとする。
BAW素子は圧電薄膜を上下電極膜で挟んだ構造をしており、基本振動を強勢に得るため、この多層構造が基板から振動絶縁されている。代表的なBAW素子の構造を図3に示す。
BAW素子は携帯電話機のフロントエンドにて、送受信デュープレクシングを行うフィルター素子として広く活用されており、表面弾性波素子(Surface Acoustic Wave:SAW素子)と比較して、2GHzを超えるような高い周波数帯で好適に利用される(図4)。
CPT原子時計で活用される代表的なアルカリ金属元素であるルビジウム(Rb)とCsの時計遷移周波数を図4に書き加えると、BAW素子の利用帯域が原子時計の帯域に重なることがわかる。
特にRbの周波数は実際の通信規格のそれと重なる。このBAW素子を共振器として活用し、原子時計用の発振器を構築することで、水晶発振器とPLLベースの周波数逓倍器とを必要としない、新規の原子時計システムを、円滑に市場展開することが可能となる。
![図4 SAW/BAW素子の通信システムにおける住み分けと原子時計の動作周波数との関係](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00057/z04.jpg?__scale=w:500,h:375&_sh=0a20160cf0)
![](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00057/z05a.jpg?__scale=w:400,h:295&_sh=0800290110)
![](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00057/z05b.jpg?__scale=w:400,h:298&_sh=06901901c0)
![図5 原子時計用BAW発振器の特性](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00057/z05c.jpg?__scale=w:400,h:389&_sh=0590970b20)
(図:筆者)
図5(c)は、アラン分散による周波数安定度を評価した結果である。
ここで、アラン分散は発振周期のばらつきを統計的に処理したもので、分散が小さいほど周期(周波数)が安定していることを示す。
また、この分散が平均時間を増大させるのに伴って減少する場合は、発振器への安定化制御が有効に機能し、平均化効果で周期のばらつきが抑制されていることを示している。
一方、増大していく場合は、周波数が定まらず、ずれていく(ドリフトする)様子を表している。本図では、フリーランニング状態のBAW発振器がドリフトしていくのに対して、BAW発振器を図2(a)のフィードバックシステムに組み込むことで、安定した原子時計動作が得られていることが確認される9)。
図6は我々が開発したBAW発振器の写真である。サイズ比較のため、水晶発振器とPLLチップとで構成した原子時計用RF発振器の写真を付記した。本図より、BAW発振器のコンパクトさが実感される。
![図6 原子時計用BAW発振器のサイズイメージ](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00057/z06.jpg?__scale=w:500,h:212&_sh=08f0750140)
量子光学系 MEMSミラーで低背化
原子時計がチップ部品として受け入れられるには低背化の議論が必須である。小型原子時計モジュールの高さは、現状、cmオーダーであり、そのまま実装するとボードから突き出し、携帯機器のスマートな筐体デザインを損ねてしまう。
原子時計モジュールの低背化に向けたボトルネックは量子光学系にある。アルカリ金属元素を封入したセルを挟むように発光素子と受光素子とが対向配置される現行の実装方式(図7(a))では、高さ方向のサイズ圧縮に限界がある。
これに対し、我々は、MEMSミラーを内蔵した図7(b)のガスセルを開発した10)。本方式では、受発光素子を片面実装できるとともに、原子とレーザーとの干渉長を、ガスセルの厚さを増大させず、ミラーアレンジだけで延伸させることが可能である。
また、片面に集約された受発光素子は光集積回路としてワンチップにすることも可能である。
MEMS技術を用いたミラーの内蔵は、高反射率な貴金属薄膜に対するアルカリ金属元素の高い反応性から、反射率の確保に課題があった。
我々は、ミラーとして誘電体多層膜を活用して耐腐食性を確保し、高い反射率を実現した。これによって狭線幅なCPT共鳴の取得に成功し11)、原子時計動作の実測評価から、短期周波数安定度として10−11オーダーの特性を取得した12)。
![図7 MEMSガスセルの構成](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00057/z07.jpg?__scale=w:500,h:224&_sh=020e907302)
将来的にガスセルは全固体化・薄膜化されることが望まれ、それに向けたいくつかの研究シーズがすでに報告されている13)14)。
いずれの研究でも、炭素結晶中に原子(不活性な窒素原子が多い)が不対電子を維持したまま閉じ込められており、この原子の超微細構造遷移(Hyperfine splitting)を時計遷移として光学的に取得している。
これらの技術は、製造コストや安定性の面でブレークスルーを必要とするものの、今後の発展が大いに期待される。
デジタル判別系 よりシンプルなシステムループへ
デジタル判別器はロックイン増幅器によって実装される。従来は市販のマイクロコントローラーを用いてボード上に組み込まれるが、このままでは低消費電力化と小型化とに行き詰まる。
ASIC(Application Specified Integrated Circuit)を活用する手段も想定されるが、その場合、市場の獲得と開発コストとの間でジレンマを抱えることとなる。
1つの解は、量子光学系を共振器と捉え、自励発振系を構築することである(図2(b))。これによってデジタル判別の工程自体が省略できる。
ただし、自励発振系の構築には、新規に2つ技術開発を要する。1つはより高コントラストに量子光学系から共鳴線を得る手法であり、もう1つは時計周波数を2分周してフィードバックする発振回路の開発である。
CPT共鳴はセルの透過光強度により観測されるため、バックグラウンド光の影響を受けやすく、高いSN比の確保が難しい。
コントラストを向上させる手法として直交偏光子法と4光波混合法とが挙げられる15)16)。
直交偏光子法は直線偏光レーザーが原子と相互干渉したときにわずかながら偏光方向を変化させることを利用したもので、原子へのレーザー照射を直線偏光で行い、検出器前段の偏光子の角度を調整することで、不要なバックグラウンド光を除去する。
4光波混合法は、励起準位の異なる2つの3準位系において、2つのポンプ光λ1、λ2とプローブ光λ3が注入されるとき、λ4なる光が生成される現象を利用するものである(図A-1を参照)。
このλ4を偏光子とガスセルを用いて単離することで、高コントラストな共鳴線が得られる。
4光波混合法は高コントラスト化に非常に優れる一方、ガスセルと光源とをそれぞれ複数準備する必要があり、オンチップ化は容易ではない。
2分周発振回路はCPT方式固有の課題と言える。CPT共鳴に必要な2本のレーザーには、通常、単一レーザーへの周波数変調によって得られるサイドピークが充てられる。
そのため、量子光学系から出力される時計遷移周波数に対して、半分の変調信号を入力する必要がある。我々は、現在、前述のBAW発振器への注入同期による分周を検討している(図8(a))。
3GHz帯に共振周波数を持つBAW素子に6GHz帯の時計周波数を強制注入し、BAW素子の非線形性から2分周された3GHz帯の発振を得る試みである17)。
すでに実際のデバイスにて、6GHz帯の信号注入に対して、3GHzの発振が得られることが確認されている(図8(b)、(c))。
(図と写真:筆者)
おわりに
原子時計の小型モジュール化は、2000年代のNISTからの衝撃的なレポートを起点に、世界各国で検討されることとなった。
先行した米国でのプロジェクトは製造まで意識し、早い段階で企業間の競争が促された18)19)。市販化までの急峻な立ち上がりはここにも1つの要因があったように思われる。
本稿では、先行して開発された小型原子時計モジュールを要素に分け、個々に小型化・簡単化の方向性を示し、NICTが大学などの研究機関と共に得た成果を中心に議論を進めた*。
今後の集積化・集約化のフェーズでは、熱や磁場の閉じ込めに配慮したパッケージ設計や、振動・放射線といった環境変数に対する耐性強化など、さらに多くの検討課題と向き合うこととなる。
これらに、多元的かつ、効率的に取り組むには、今までのように官学のプレーヤーだけでは限界があり、明らかにピースが欠けている。
やはり、民間企業によるエンジニアリングが必要不可欠と考える。これは、米国の先行事例からも明白に感じ取られる。
NICTでは、本編で示した要素技術の開発に注力するとともに、企業、特に我が国の製造業が参画しやすい環境を整えている。
原子時計動作の評価を目的としたテストベンチや、CPT共鳴の高速シミュレーターの開発を実施し、これらを用いた開発環境を技術支援制度の一環としてオープンラボ化している。
また、実際の部品供給で課題となる特殊材料の入手や組み込み部品の歩留り(スクリーニングコスト)改善に向けた技術開発も行っている。
本稿を通じて、原子時計やその微細化技術に興味を持つ技術者・研究者または学生の輪が広がることを期待している。
1)N.Cyr et al., “All-optical microwave frequency standard:a proposal," IEEE Trans. Instrumentation and Measurement, vol.42, pp.640, 1993.
2)J.Kitching et al., “Miniature vapor-cell atomic-frequency reference," Appl. Phys. Lett., Vol.81(3), pp.553, 2002.
3)R.Lutwak et al., “The MAC-a miniature atomic clock," in Proc. IEEE IFCS 2005, pp.752, 2005
4)J.Haesler et al., “Swiss miniature atomic clock:First prototype and preliminary results," in Proc. EFTF 2012, pp.312, 2012.
5)J.Zhao et al., “Chip scale atomic resonator frequency stabilization system with ultra-low power consumption for optoelectronic oscillators," IEEE Trans. Ultrason. Ferroelectr. Freq. Control., Vol.63(7), pp.1022, 2016.
6)H.Zhang et al., “ULPAC:a miniatured ultralow-power atomic clock," IEEE J.Solid-State Circuits, Vol.54(11), pp.3135, 2019.
7)R.Lutwak, “Principles of atomic clocks," in Tutorial Material of the IEEE IFCS 2011.
8)M.Hara et al., “Microwave oscillator using piezoelectric thin-film resonator aiming for ultraminiaturization of atomic clock," Rev. Sci. Instrum., Vol.89(10), 105002, 2018.
9)M.Hara et al., “Drift-free FBAR oscillator using an atomic-resonance-stabilization technique," IEEE IUS2019, pp.2178, 2019.
10)H.Nishino et al., “A reflection-type vapor cell using anisotropic etching of silicon for micro atomic clocks," Appl. Phys. Express, Vol.12(7), 072012, 2019.
11)H.Nishino et al., “A reflection type vapor cell based on local anodic bonding of 45°mirrors for micro atomic clock," in Proc. Transducers & Eurosensors XXXIII, pp.1530, 2019.
12)Y. Yano et al., “Micro-device-technologies toward chip level integration of Microwave Atomic Clock System," in Proc IEEE IFCS2020, 2020.
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15)S.Knappe et al., “Advances in chip-scale atomic frequency references at NIST," in Proc. SPIE, Vol. 6673, 667307, 2007.
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17)M.Hara et al., “Injection Locking Type 1/2 Frequency Divider Employing Poezoelectic MEMS resonator for Simplifying the Micro Atomic Clock System," in Proc IEEE MEMS 2020, pp.1195, 2020.
18)J.F.DeNatale et al., “Compact, low-power chip-scale atomic clock," in Proc. IEEE/ION Position, Location Navigat. Symp., pp. 67, 2008.
19)D.W.Youngner et al., “A manufacturable chip-scale atomic clock," in Proc. Int. Solid-State Sensors, Actuat. Microsyst. Conf., Jun. 2007, pp.39, 2007
出典:日経エレクトロニクス、2020年9月号 pp.88-92
記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります。
日経記事 2020.09.18より引用