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ロスチャイルド財閥-104 左翼系ニュー・リパブリック誌の創刊

2022-11-13 22:58:35 | 国際政治・財閥

ウォルター・リップマン(Walter Lippmann、1889年 - 1974年)は、アメリカ合衆国の著作家、ジャーナリスト、政治評論家であり、「冷戦」の概念を最初に導入した人々のひとりとして、また、現代における心理学的な意味での「ステレオタイプ」という言葉を生み出し、さらに新聞のコラムや著作、特に1922年に出版された『世論』を通してメディアと民主主義を批評したことで知られている。

生涯
ドイツからのユダヤ移民の三世としてニューヨークに生まれる。

1906年にハーバード大学に入学し3年間で全単位を修得し、最後の1年は同大学の教授で哲学者のジョージ・サンタヤナの助手を務める。1910年に最優等賞にて卒業。

卒業後、雑誌の編集助手を探していた著名なジャーナリストのリンカーン・ステファンズの招きに応じて『エヴリバディーズマガジン』の編集に携わる。1912年にはニューヨーク州スケネクタディ市の新市長でアメリカ社会党のG・ランの補佐になるが4ヶ月で辞職する。翌年には処女作である『政治序説』を発刊。同年に『ニュー・リパブリック』の創刊に携わり、セオドア・ルーズベルトとともに「ニュー・ナショナリズム」を説く。

第一次世界大戦中、ウッドロウ・ウィルソン大統領のアドヴァイザーを務め、情報将校として渡仏し、対ドイツ軍に対する宣伝ビラの作成をしたり、「十四か条の平和原則」の原案作成に関わる。「各民族の自治権は確立しても、ハプスブルク帝国を解体してはならない」とウィルソン大統領に進言し、草案にオーストリア=ハンガリー帝国の存続を盛り込んだ。結局オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊してしまったが、リップマンは「これが中欧の政治的均衡を破壊し、ヒトラーへの道を開いた」と後々まで嘆いたという。

戦後間もない1922年に『世論』を刊行。『ニューヨーク・ワールド』紙の論説委員・編集長を務めた後、『ニューヨーク・ワールド』紙の廃刊にともない、ライバル紙であった『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙のコラムニストになる。1931年9月8日から、彼のトレード・マークともなったコラム『Today and Tomorrow』が『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙に掲載される。

マッカーシズムとベトナム戦争に対し、鋭い批判を行い、ジョンソン政権と「リップマン戦争」と呼ばれる激しい論争を起こす。1967年5月25日の掲載を最後に『Today and Tomorrow』を断筆。

1974年にニューヨークにて85歳で死去。1958年と1962年の2回、ピュリッツァー賞を受賞している。著書『世論』は、大衆社会化する現代におけるメディアの意義を説いた本として、ジャーナリズム論の古典として知られる。

出所 Wiki





ウォール街と左翼系出版社が提携した格好の例は、ニューリパブリック誌です。 この雑誌は1914年にペイン・ホイットニーの資金を運用したウィラード・ストレートによって創刊されました。 

チャイニーズ・インペリアル・カスタムズ・サービス理事長で中国支配をもくろむヨーロッパ帝国主義者の重鎮、ロバート・ハート卿を補佐していたストレートは、1901年から1912年にかけて極東に滞在し、モルガンの共同経営者として極東問題の責任者を務めました。

彼がドロシー・ペイン・ホイットニーと結婚したことによって、米国の二大財閥が血縁で結びつきました。

ドロシー夫人は、ニューヨーク市の公共事業で財を成した百万長者ウィリアム・C・ホイットニーの娘で、スタンダード石油「トラスト」のオリバー・ペインの共同法定相続人の妹です。

彼女の兄弟の一人はガートルード・バンダービルトと、もう一人、ペイン・ホイットニーは中国で米国の「開放政策」を言明した国務長官ジョン・ヘイの娘と結婚しました。


次の世代では、最初の3人の従兄弟、ジョン・ヘイ(ジョック)・ホイットニー、コーネリウス・バンダービルト(ソニー)・ホイットニー、マイケル・ホイットニー(マイク)・ストレートがプロパガンダ的な性格を持つ数多くの公共政策事業で共同歩調を取り、ニューディール後期や、トルーマン政権でそろって要職に就きました。

彼らはネルソン・ロックフェラーをはじめとする「ウォール街リベラル派」と密接の連携しました。 ニュー・リパブリック誌を発刊した本来の目的は、進歩的左翼に発言の場を与えることと、彼らをすんなりと親英家に仕立て上げる事でした。



ウォルター・リップマンとニュー・リパブリック誌

親英家づくりの仕事は、ハーバード大学卒業後、わずか4年ですでに謎の円卓会議グループの一員となっていた若者に委ねられていました。 

そして、円卓会議グループは、1909年に公式に設立された後、英国外交政策の舵取り役を果たしていました。 新たに登用されたこの青年ウォルター・リップマンは、1914年以降国際問題に関して大西洋をはさんだ両国エスタブリッシュメントを代表する米国ジャーナリズム屈指のスポークスマン役となりました。

彼が隔週寄稿するコラムは全米の南百万もの地方新聞に掲載され、その著作権を握っていたのは、J・H・ホイットニーが所有するニューヨークのヘラルド・トリビューンでした。

1918年当時、20代のリップマンが、ウッドロー・ウィルソンの14ケ条の平和原則の真意を公式に英国に伝える役目を担ったのは、ウォール街と円卓会議グループとのこうしたつながりからでした。








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