マリウス・バーサス・ジャンセン
( 1922 - 2000 )
日本の歴史・文化研究がメイン
プリンストン大学は、ニュージャージー州プリンストンに施設を構えるアメリカで四番目に古い大学です。 28代大統領のウッドロウ・ウィルソンはプリンストン大学の教授で、1902年から10年まで学長を務めました。
同大学の東アジア地域の研究は、もともと、1927年に設立された、「東洋言語・文学科」に根源を持ちます。
ライシャワーやフェアバンクの流れを汲む正統派の東洋学(オリエンタル・スタディーズ)がアジア研究の主流です。
プリンストン大学で日本研究を開始したのは、マリウス・ジャンセン名誉教授です。 1959年にライシャワー門下のジャンセンはプリンストンの日本・東アジア研究を拡張するために教授として招かれ、1961年には「プリンストン大学東アジア研究所」を立ち上げています。
所長に、マーティン・C・コルコットという、明治の岩倉使節団についての研究を行っている日本史教授がいます。
輸入品だった? 司馬史観
ジャンセンのライフワークは、日本の幕末・明治維新史の研究でした。 1922年、オランダ生まれの彼はアメリカに移住し、米国陸軍日本語学校で日本語を学んだことがきっかけで、日本に関心を持つようになりました。
その後、ハーバード大学デ、ライシャワーの指導を受け、ライシャワーの近代化論(日本は明治維新を通じで、近代社会に脱皮したとういう説)に影響された形で、日本研究を行いました。
ちなみにこの近代化論を提唱するジャパノロジストたちが一堂に会したのが1960年の「箱根会議」です。 これは反共文化会議としても知られ、ジャンセンも参加しています。
ジャンセンはハーバード大学でキャリアを築いた後、プリンストン大学に招かれ、2000年に78歳で亡くなりました。
このジャンセンが、1961年に書いた本が、『坂本竜馬と明治維新』です。 ジャンセンは、土佐出身の坂元龍馬と中岡慎太郎という維新半ばで暗殺された二人の生涯を追いながら、激動の明治維新の時代を描きました。
そして、ジャンセンのこの著作をヒントにして、5年後に描かれた新聞小説が、元産経新聞記者の司馬遼太郎(福田定一:ふくだていいち)の小説『龍馬がゆく』(1966年)です。
このことは、『龍馬がゆく』の最終巻で司馬自身がほのめかしています。 司馬と言えば、日本を代表する歴史作家で、彼の著作にはライシャワー系のアメリカ人ジャパノロジストの対談も多くあります。
そもそも、日本の近代化は明治維新をもって嚆矢(こうし)とする「司馬史観」は、ライシャワー史観と近く、極端な言い方をすれば、芝史観というのはアメリカからの輸入品ともいえます。
さらに面白いことに、ジャンセンが、ハーバード大学で教鞭を執っていたときの教え子が。トム・クルーズ主演の映画『ラスト・サムライ』。ド・ズウィックです。ズウィック監督は、ライシャワー教授の孫弟子にあたります。
この映画は、ちょうどイラク戦争に自衛隊を派遣するか、しないかで日本の国論が揺れていた時期に公開されたために、そこに政治的な意図があるのではないかと噂されました。