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Renaissancejapan

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ロスチャイルド財閥ー25 ユダヤ化される英国貴族と政界

2022-10-03 21:23:27 | 国際政治・財閥


ウェストミンスター宮殿、16世紀から英国国会議事堂。 右端の時計台がビッグベン



ライオネル・ロスチャイルドの下院議席獲得
下院にに当選したライオネル・ロスチャイルド(ネイサンの長男)は、1859年7月26日、国会議事堂でキリスト教ではなく、旧約聖書によってユダヤ教で誓いを立てました。 ディズレーが近づき握手を交わし、ライオネルは下院の議席に座りました。

ライオネルの下院入りは、ロスチャイルド家にとって、そしてユダヤ人全体にとっての大勝利でした。ロンドン・ユダヤ人協会からは、「市民的自由と宗教的自由のための戦い勝利したた」との祝電が届きました。

伝統的かつ中核的なユダヤ人団体「ボード・オブ・デピュティーズ」(ユダヤ人代表委員会)は、満足と経緯と感謝の表明を決議しました。彼の下院入りが認められた日は、ユダヤ人無料学校(JFS)では記念日となりました。  一方、ライオネルはに借りなくキリスト国協会の学校にも多額の奨学金を寄付しました。



ユダヤ化される英国貴族と政界
ユダヤ人の下院入りで、「かくしてイギリス政府の汚染と堕落が始まった」とのつぶやきも出ました。 既にイギリス貴族の血はユダヤ化されているとの声は一部で出ていました。 

困窮した貴族階級の地主などが、持参金に目がくらんでユダヤ資本家から嫁を迎えていたのです。このような結婚は、貴族階級の血を混濁(こんだく)させ、その結果、国体は弱体化したとの見方です。

ユダヤ人はユダヤ信仰の純潔を保持することを望みながら、他方、ユダヤの女性を貴族階級と結婚させたがっていました。 彼らの地位を高め特権を増すからです。

このユダヤ人とその混血が、下院で勢力を増やしていきます。下院議員の多くはライオネルと同じく大地主で、その店子(たなこ;借家人)たちの支援によって選挙に勝ち議員に選出されます。

後には、「大英帝国およびチャーチル、イーデンなどの内閣が退廃しているのは、ユダヤ人のための内閣であるから」という類のつぶやきも聞かれるようになりました。

ロンドン家の面々は、ケンブリッジ大学時代から特に皇太子(アルバート・エドワード後のエドワード7世)と親しく、ともに食事や狩猟や宴会に興じたのでした。ディズレーリ首相が同席することもありました。

皇太子とその兄弟は年間王室費の予算を超えて贅沢な生活をしていました。 将来の支配者にお金を貸すのは、ロスチャイルド家の得意なやり方です。 ライオネルの弟アンソニーは皇太子に徹底的な財政支援を行いました。



ヴィクトリア女王(1837年-1901年)


1874年には、ヴィクトリア女王は皇太子がアンソニーから巨額の借り入れをしているのを知って驚きました。 皇太子が27年後に即位するまでの長い間、ロンドン家は、慎重に秘しながら皇太子の邸宅を担保とした貸し付けを行い、同時に、皇太子が他からは借金しないように「お守り」していたのでした。

1880年頃になると、皇太子はロスチャイルド一族の結婚式にも臨席する関係になっていました。

1868年(明治元年)、ロスチャイルド家の側仕え(そばづかえ)にしてはじめてのユダヤ人(ただしキリスト教への改宗者)首相ディズレーリが誕生しました。

第一次内閣は9ケ月と短命でしたが、第二次内閣は1874年から1880年と6年間続きます。 ライオネルは、同世代の二人の首相、ディズレーリとグラッドストーン(任期1868年12月ー1874年2月)を操りました。

ライオネルが政治家としてぼディズレーリを育て大成させたともいわれ、ディズレーリは首相になってもライオネルと毎晩食事するほどの関係でした。

ライオネルはグラッドストーンともしばしば食事をともにし、ビジネス、財政、外交を打ち合わせたのでした。ロスチャイルドイルド家と自由主義者といわれるグラッドストーンとの親密な交際は、1850年代、彼の大蔵大臣時代から始まり、1868年の最初の首相就任後も保たれ、彼の政治人生の最後まで続きました。



イギリス貴族院(上院)の門をユダヤ人に開く
ラオネルは、案の定、貴族院(上院)の門をユダヤ人に開くことを目指し始めました。 1869年、彼はグラッドストーン首相によって貴族院(上院)議員に推薦されました。

しかし、彼がユダヤ人であることに加え、貴族の条件である地主の面より企業家・投機家の面の方が強いとみなされていたため、ヴィクトリア女王は反対しました。けれども、結局、女王は譲歩sます。

1885年、ライオネルの息子であるナサニエルの代になって「ロスチャイルド男爵」の爵位を与えました。ここからイギリス貴族院(上院)もユダヤ人の金権政治に代わり始め、政府はキリスト教政府からユダヤ政府に代わったと言われ始めたのでした。 ちょうど、日本の明治政府が誕生した頃の時代です。

半世紀後の1940年には、貴族院(上院)には純粋のユダヤ人が60人いると報告されており、これ以外にユダヤとの混血の議員が加わります。




 

 

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ロスチャイルド財閥ー24 1844年イングランド条例銀行

2022-10-03 14:10:39 | 国際政治・財閥

1836年のネイサン・ロスチャイルドの死後、ライオネル(1808年-1879年)が後を継ぎ、N・M・ロスチャイルド&サンズの頭取となりました。

その翌年6月には、ビクトリアが18歳でイギリス女王に即位しました。 彼女も初めからロスチャイルドの手の内にありました。ビクトリアは、他の要人たちと同様、恋人との手紙のやりとりなどの通信を、いつも「完全に安全でとても迅速」なロスチャイルド家の郵便(密使)サービスに委ねていました。 

彼女だけでなく夫となったドイツの公子のアルバートも頻繁に利用し、おまけにロスチャイルド家に銀行サービスやホテルの予約サービスまでも世話になっていました。

すなわち、動静がすべて把握されていたのです。 




ライオネルの下部、ベンジャミン・ディズレーリ首相
ユダヤ教からの改宗者で後にイギリス首相となるベンジャミン・ディズレーリ(1804年ー1881年)は、ロスチャイルド家の側仕えとも陰口を叩かれていました。

1844年にロスチャイルド一族を褒めたたえるごとき小説『コニングズビー』をし出版し、そのなかでライオネルに擬した主人公シドニアのことを次のように述べています。

「彼は世界の金融市場の王者であり、もちろん実質的に他のすべてのものの王者である」。 

「唯一シドニアの興味を引いた人間の特質は知性であった。・・・シドニアほどに秘密情報部員や政治スパイとつながりを持っている者は、大臣といえどもいなかった」。

「彼は世界各国の頭の切れる放浪者と関係をや持っていた。 彼の知己にはギリシア人、アルメニア人、ムーア人、隠れユダヤ人、タタール人、ジプシー、さまよえるポーランド人やカルボナリ(19世紀初めのイタリア急進共和主義者)がおり、それらの名簿から、世界の出来事に多大な影響を及ぼしてきながらも世界でほとんど知る人のない秘密組織が浮かび上がってくる」。


また、この頃、欧米ではロスチャイルド家は次のように言われました。 

「ロスチャイルドは王や皇帝よりも上で、キリスト教世界を支配し、内閣は彼らの助言なしで動けない。 ロスチャイルドは、ロシア、オーストリア、フランス、イギリス、アメリカにやすやすと手を広げている。ロスチャイルドは、真のユダヤ王であり、救世主である。平和か戦争かの鍵を持ち、ヨーロッパの王たちとアメリカ共和国の指導者たちの相談役であり仲介人である」。


実際、19世紀半ばから後半の大英帝国絶頂期、ライオネルを先頭にロスチャイルド家はヨーロッパ各国、日本を含む世界中の途上国や属国や植民地において政治と経済を裏から牛耳り、N・M・ロスチャイルド&サンズ者は18ケ国に及ぶ巨額の債権を取り扱っていました。

うち4人が、ネイサンの息子のライオネル、アンソニー、ナサニエル、そしてマイアーでした。 各人の残した財産の金額は3番手以下でしたが、4人兄弟を合わせると敵(かな)う敵一族は他にありませんでした。





1844年イングランド銀行条例(ピール銀行条例)
~ロスチャイルド家のフロント企業「イングランド銀行」を中央銀行化~

ロスチャイルド家が引き起こしたと言われる恐慌を背景にして、ライオネルが発案し、側仕えのディズレーが仲介し、ロバート・ピール首相(在位1834年ー1835年、1841年ー1846年)が提案した「1844年イングランド銀行条例」(以下「ピール銀行条例」)がイギリス議会で成立しました。

ロバート・ピール卿は、首相をニ度にわたって務めた保守党の政治家で、イギリスで初めてユダヤ人開放法案の成立を目指した、ロスチャイルド派の人物といわれています。

「ピール銀行条例」では、イングランド銀行に金(Gold)で保証された銀行券(金兌換券)を「独占的」に発行させ、地方銀行が独自の紙幣を新規に発行することを禁じました。

銀行券の流通量はイングランド銀行にある金の量で決まります(金準備との固定比率での銀行券発行。および有価証券を担保にした固定金額1400萬ポンドの銀行券発行が決められました)。

そして、それまで全国で通貨として流通していた銀に制約を課しました。 この後、津方銀行券の流通高は一層減少していきます。
つまり、ロスチャイルド家の代理機関、あるいはフロント企業としてのイングランド銀行を名実ともに中央銀行化したのです。




ビクトリア女王の金庫番からすべてのものの王者へ
イングランド銀行から金(Gold)が流出すると、同行は銀行券を流通からその分引き上げる(破棄する)ので、経済情勢によっては金融逼迫(ひっぱく)と経済恐慌を招くことになります。

利子率は急騰し資金は供給されず、事業者は困り果て、企業倒産が相次ぎます。国内の需要を考慮せずに、金保有高により通貨量および信用が調整されるため、この後、当然の成り行きで1874年、1857年および1866年に恐慌が発生しました。

しかし、金融資本家たちは恐慌を利用し、金利高騰で収益を上げ、かつ資本の集中によって規模を拡大していきました。 信用の収縮などで自分たちで恐慌を創り出せば、自らは被害を受けずにやり過ごすことが可能です。

不況が始まる前に有価証券を売り、暴落してから、売値の何分の1かで買い戻し大儲けすることも容易です。 通貨の信用の膨張と収縮によって、」弱者の財産は強者の手に取得され、大富豪と貧者がつくられるのです。

彼らは、」この手法を繰り返し、世界の富を急速に獲得していったのです。 不況は彼らの富の源泉です。

科学的社会主義の祖と言われるカール・マルクスは、「ピール銀行条例」を「金融業者たちと株式仲介人たちとが加わった盗賊どもの力が増大したことの証拠である」と批判しています。こうも言えます。

「ピール銀行条例」は、イングランド銀行の経営者に大英帝国の物価と賃金を統制する権限を与えたので、事実上、世界の物価と賃金をも左右する力を与えたのです。

そして、イングランド銀行は世界の手形交換所に、ポンドは世界通貨になりました。 

「ピール銀行条例」は議会でほとんど反対はありませんでした。 それは、ロスチャイウド家の影響力の下、与野党の党首の支持されていたためと、他の国会議員や一般人には内容が理解されていなかったからです。

「ピール銀行条例」によって、民間所有の中央銀行と金本位制のふたつの体制が同時に完成し、ロスチャイルド家に世界戦略上の大きな利益をもたらしました。 1844年以降、ロスチャイルド家の力は万能になり、「ビクトリア女王の金庫番」から「すべてのものの王者」となったと言われています。

そして、事実上、世界の金(Gold)の大半を管理下に置きました。 


ロスチャイルド財閥ー18 キューリー夫人https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/1feb6656b6dbdb2c32f498c6cd841d94

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イギリス以外の各国においても、ロスチャイルド家の働きかけによって、通貨発行や信用供与の最高権威はロスチャイルド家へと移されていきます。

その際、インうランド銀行が各国の中央銀行づくりの模範となりました。 彼らは同じことを、後にアメリカ国民にも押し付けるのです。


ジキル島の秘密会議
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FRB「連邦準備制度理事会」
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ロスチャイルド財閥ー11 合衆国銀行https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/298ff70e5599f850b9160c392cb774a7

 



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・ロスチャイルド財閥-111 国際金融財閥の序列
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・ロスチャイルド財閥-215 ロスチャイルド当主 ANAホテル(赤坂)プライベート会合https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/15e42c79348485224e0b9ae63ca899e4

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ロスチャイルド財閥ー23 アームストロング社

2022-10-03 03:38:46 | 国際政治・財閥
16世紀末からドイツの西部エッセンに居を構えていたクルップ家は、19世紀半ばに強力な鋼(はがね)を完成し、戦争で繁盛する兵器にも目をつけ、大砲の生産に乗り出し「鉄鋼王」と呼ばれていました。

ユダヤ人を嫌うクルップにとって、大英帝国の名に隠れてロスチャイルド家が世界中に進出することは面白いことではありませんでした。 

巨大コングロマリットであるクルップを育て上げたアルフレート・クルップ(1812年ー1887年)は、自ら製造した兵器でプロシア(1871年以降ドイツになります)が興隆することが長年の夢でした。

彼は、プロシアのビスマルク宰相と意気投合し、ドイツの軍事近代化を強力に推し進めました。 さらにプロシアだけでなく軍備強化に励む(はげむ)各国から手広く受注を取り付けていきました。

アルフレートはいつしか「大砲王」と呼ばれるようになります。 当時、世界における銃砲生産は、伊フィリスのアームストロング社とフランスのシュナイダー社が独占的でした。

各国がこの2社から鉄砲を購入し、互いに殺しあいました。 兵器メーカーは、戦争のうま味をっていました。 このアームストロング社のスポンサーもロスチャイルド家です。 

創業者ウィリアム・アームストロングの右腕の人物が、ロンドン家のハンナの夫で、後のイギリス首相ローズベリー卿(アートボルト・プリムローズ)と親しくなってから、同社は勢いづきました。

1851年のロンドンで開催された第一回万国博覧会にクルップの大砲と鋼塊が出展され、金賞を取り注目を浴びました。 その後、クルップが工場拡張時に融資を受けた銀行シンジケートの背後には、巧みなことにロスチャイルドけがありました。

そして、19世紀の終わりには、クルップ、アームストロング、シュナイダーの3社が世界の銃砲生産を独占します。

火薬の方は、ヨーロッパのノーベル、アメリカのデュポンの禎メーカーが独占しました。


デュポン財閥
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ロスチャイルド財閥ー18 キューリー夫人
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ロスチャイルド財閥ー19 キューリー夫人とRTZ(リオ・チント・ジンク)そして原子力産業
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1853年から1856年のクリミア戦争では、イギリス政府の戦費調達国債への応札がロスチャイルド家だけという場合もありました。 戦争を支えるロスチャイルド家とイギリス政府との濃い関係を示すものです。

クルップは、鉄道の継ぎ目なしの車輪などの製造にも生き店を置き、後にクルップ製の鉄道が普仏戦争をプロシアの勝利に導きました。





クリミア戦争
ちなみに、クリミア戦争について少し付け加えておきます。今日のロシアのプーチン大統領がウクライナのクリミア半等に侵攻したのが2014年です。そして西側の経済制裁を受けて、現在ではGDPがブラジルや韓国よりも小さくなり、半導体・電子デバイス、コンピューター、家電などエレクトロニクスや自動車などハイテク産業もない、地下資源だけに頼る三流国に成り下がりました。 プーチンの見栄張り、コンプレックス、そして焦りが今日の混乱を招いています。


1853年から1856年のあいだに起こったクリミア戦争。黒海の北にあるクリミア半島をめぐり、ロシアvs(オスマン帝国、フランスとイギリス)で戦いました。

ロシアの南下政策が発端となったので、「南下政策いや誤算(いやごさん=1853年)のクリミア戦争」という語呂合わせで覚えてください。


開戦までの経緯
もともと黒海周辺には、さまざまな文化と宗教を持つ民族が入り混じっていました。そんななか13世紀末にオスマン帝国が誕生します。当初は遊牧民族のオスマン1世を指導者とする集団でしたが、徐々に力をつけ、16世紀から17世紀頃には地中海一帯、エーゲ海、紅海、カスピ海西側とその領土を拡大していきました。

しかし17世紀後半になるとその勢いに陰りがみえます。領土を広げ過ぎたため地方を制圧しきれなくなったこと、オーストリアやペルシャからの攻撃の激化したこと、国内の経済が悪化したことなどが理由です。

そんなオスマン帝国の弱体化に、ロシアがつけこみました。領土の多くが寒帯に属しているロシアにとって、温暖な気候を持つ黒海周辺の地域は喉から手が出るほど欲しい場所。ヨーロッパやイスラム圏への侵攻の足掛かりにもなります。軍事大国として力をつけた18世紀末、領土拡大のために「南」を目指しました。

その動きに警戒を強めたのが、イギリスやフランスなどヨーロッパの国々です。フランスは以前から、オスマン帝国の領土に取り込まれていた聖地エルサレムでのキリスト教徒保護権をめぐりロシアと争っている状態。

一方のイギリスはインドへの航路という側面からクリミア半島周辺の動向を注視してはいましたが、ロシアと直接争っていたわけではありません。立場としては中立です。政治家たちの意見も一枚岩ではなく、結果としてロシアとオスマン帝国の双方がイギリスの支援を期待して、争いを激化させていきました。

1853年、オスマン帝国がフランスに対し、キリスト教の保護権を認める出来事が起こります。当然ロシアはこれに反発。自国に聖地管理権があると主張し、オスマン帝国に同盟を申し込みますが、オスマン帝国側は拒否をします。

これをきっかけに、ロシアが宣戦布告することなくオスマン帝国に進軍し、開戦となりました。フランス、イギリス、そのほか周辺の国々の利権や思惑も絡み、戦争はやがてヨーロッパ全土を巻き込む大規模なものへと発展していきます。




クリミア戦争の結果
激しい戦いが続いた結果、勝利したのはフランスとイギリスを味方につけたオスマン帝国です。敗北したロシアはクリミア半島から退きました。

1856年3月、オーストリアとプロイセンの調停によって進められた講和交渉によって「パリ条約」が締結されました。

パリで締結された条約はアメリカ独立戦争やナポレオン戦争などいくつもあるのでややこしいですが、クリミア戦争の締結もパリ条約と呼ばれています。

この条約には、オスマン帝国の領土の保全とドナウ川の自由航行、ボスフォラス海峡の通航制度や黒海の非武装・中立化といった項目が盛り込まれています。その目的はロシアの南下政策を阻止することにありました。

オスマン帝国と同盟を組んだフランスとイギリスは、これ以降世界に大きな影響力を持つようになります。

一方、敗戦したロシア側にも転機が訪れていました。それまで強い姿勢で南下政策を推し進めていたニコライ1世が1855年3月に死去。次に即位したアレクサンドル2世はロシアの近代化の遅れを痛感し、内政改革を進めるとともに東アジア方面への進出に方向転換を図ります。



日本への影響
当時、江戸幕府による鎖国がおこなわれていた日本も例外ではありません。ペリーが浦賀に来航したのは1853年で、実は同じ頃ロシアも日本に向かって船を進めていたのです。

受験生の皆さん、1853年は、「いやでござんすペリーさん」で年号を覚えましょう。

ロシアが江戸幕府に接触したのはペリー来航の翌年となる1854年。クリミア戦争の真っただ中で、極東地域に労力を割くことができず、アメリカに一歩遅れた形になりました。もしロシアがアメリカより先に江戸幕府に接触していたら、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。



誤算続きのプーチン
一気に首都キーフ(旧名キエフ)占領し、ウクライナ全土を掌握しようとしたプーチン、しかしウクライナから激しい抵抗にあって撤退。 そして各地で欧米から最新のハイテク兵器と衛星からの情報をもらって、ウクライナの抵抗にあい、またまた惨めな撤退を繰り返すプーチン。 また完全に、全世界を敵に回し、経済制裁されるロシア国民には1991年のソ連崩壊どころでない地獄がまっています。

何が起こるか明白です。まずソ連崩壊時と同じように子供の含めた餓死者続発。 これに関してはプーチンには腹が立ちますが日本も援助の手を差し伸べなければなりません。 食べる物もなくなり貧困状態になると、前回のようにマフィア(暴力団)が自然発生し、ロシアの女性を食い物にします。 そして、戦争に徴兵され一家の収入を支えていた夫が亡くなると一家の収入は途絶え、世界各国に売春婦として、マフィアに売られてしまいます。 

折角、最近、優秀で容姿端麗のロシア人女性のyoutuberたちの活躍で、日本におけるロシアのイメージは変わり、ロシアという国にも好印象を持ち始めたので、そんな悲惨なロシアは見たくありません。 できればロシア国民による革命によりプーチンを失脚させるか、西側諸国といってもやりそうなのはアメリカしかありませんが、ドローンで〇〇しかないでしょうね。 本当にプーチンはアホネ!。





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