平家が歴史の表舞台から姿を消し、頼朝の覇権が明らかになった頃、平家物語を彩った二人の人物が能登に住居を移し、そこで生涯を終えた。二人の年齢も立場も著しく違う。
一人は長谷部信連であり、もう一人は平時忠である。
長谷部信連は、平家物語 第4巻に章題が「信連」とある章があり、その活躍が語られる。
平時忠は、物語の随所で、驕る平家を象徴する者として、或いは宗盛と並ぶ平家の総帥として、また一族の滅びの中で自分だけは助かろうと画策する様、流人として流される様が描かれる。
平家物語の長谷部信連は格好がいいったらない、挙兵計画が漏れたという源三位頼政からの急報に以仁王を逃がし、女房達も立ち退かせ、高倉御所を片付け、以仁王の忘れた笛を届けたりもする。そして押し寄せた平家の追っ手300余騎を相手に大奮戦。しかし多勢に無勢で生け捕られる。宗盛は斬り捨てよというのだが、信連は平然と反駁する。これが清盛をして信連を惜しませ、先年の盗賊退治の功も現れ、死罪から伯耆遠流となる。平家滅んだ後、頼朝は信連を召しだし、御家人に加える。
この格好の良さが浮世絵などでの人気の画材となった由縁だろう。明治の浮世絵絵師芳年の絵は、江戸時代から続く信連の一般的イメージを写しているのだろう。
女装した以仁王と御付きが被っているのは虫垂れ衣という。これを被った以仁王は大溝を飛び越え大股で歩いた、とある。さてこれを見送る信連はあまり若くはないように見える髭面である。しかし精悍そうである。健保6年(1218)72歳で死んだというので逆算すれば以仁王の乱、治承4年(1180)には33歳だったということになり、経験からくる知恵・分別、肉体的強靭さなどがバランスした30代であったことはうなづける。治承寿永の騒乱期、活躍したのは義仲とその乳母子たち含め30歳前後が多かった気がする。信連の生年は久安3年(1147)ということになり、頼朝・宗盛とも同年生まれ、ということになる。
頼朝に召し出されたのは文治二年(1186年)というから6年以上を流刑地の播磨で過ごしたことになる。どのようにしていたのかは不明だが鳥取県日野町の長楽寺という寺は信連の再建ということになっているようだ。
頼朝は信連を最初は検非違使に、ついで能登国大屋荘の地頭とした。
大屋荘と云うのは随分大きな荘園のようだ。10村をまとめたものだ。穴水周辺だけかと思っていたら輪島にまで及ぶ。信連の墓は輪島にあるということなので実際に広く所領としたのだろう。それどころかその勢力は加賀の山中までも及んだらしい。山中にも長谷部神社がある。
この図は「趣味人倶楽部」というサイト(https://smcb.jp/diaries/8135257)から拾ったが、元は「輪島の歴史(市制50周年記念誌)」らしい。
荘園なのだから、領主がいたと思うのだが、誰だったのだろう?
穴水町に長谷部神社がある。長谷部神社は穴水湾に面して立つ。
穴水の湾は深く複雑な形をしている。七尾湾は能登島を咥えこんだようになっている湾口だが、その北側に入り込むのが穴水湾だ。ボラが入り込んでくる地形らしく、穴水湾の中の湾の一つの中居湾という所にボラ待ち櫓があった。
七尾湾をはさんで、南に七尾、北に穴水である。
能登の国府は七尾である。羽咋から七尾にかけては地溝帯で、古くは邑知潟が大きく広がり、多くは湿地だった。弥生・古墳時代の遺跡はこの湿地の縁辺にある。
七尾に比べれば穴水は新興だろう。遠江生まれだという信連が能登の冬をなんと思ったのかはわからないが、所領を得て腕を振るっただろう。30数年能登にあり根を下ろした。子孫は長氏と称し勢力を保つ。
ずっとのちの江戸時代の事、徳川幕府は加賀能登を領する外様前田家への楔の一つとして、天領を設け、土方氏を派遣する。土方領は長氏の旧領を受け継いでいるようだ。(網野善彦「海から見た日本史像―奥能登地域と時国家を中心として―」)
神社の狛犬があるべきところにお狐さんがいたのでお稲荷かと思ったら、信連が石見を流浪していた時、狐に助けられたという伝承があるようだ。利仁将軍と同じように、不思議な力を持った強い武者とみなされていたのだろうか。
長谷部神社に隣接し穴水町立資料館がある。
裏手には長氏の穴水城址がある。