平家物語第4巻「宮御最期」 頼政は平等院で自害した。以仁王は南都へと急ぐ。しかし、伊東(平)忠清弟景家は老練で平等院の戦に加わらず、ただ以仁王を追う。光明山の鳥居で宮に追いつく。散々に矢を射かけ、宮は落馬し、首を取られた。お供の鬼佐渡・荒土佐・荒太夫・理智城房の伊賀公・刑部俊秀・金光院の六天狗、がともに討ち死にしたとあるのだが、ここの意味は取りにくい。鬼佐渡以下が六天狗とすると5にしかならず、鬼佐渡以下5人プラス六天狗なのだろうか?千葉常胤の息子日胤もここで死んだはずなのだが、彼は六天狗に含まれるのだろうか。
光明山寺は相当大きな寺院だったという。本地垂迹の神仏一帯で神社もあったのだろう。その鳥居辺りが今の高倉神社付近ということらしい。般若寺の「鳥居」は二本の笠塔婆であった。光明山寺の鳥居も文字通りの鳥居なのだろうか? 高倉神社の東の方の山の中に光明山寺跡があるそうだ。
更に橋合戦で活躍する筒井浄妙の塚は以仁王の墓から南へ100mの地点にある。彼も六天狗なのだろうか?
園城寺を脱した以仁王は宇治に来るまでに6度も落馬したという。気の毒としか言いようがない。南都からの援軍7千余騎は遅かった。王が殺された時、興福寺の先陣はは木津川まで来ていたが、後陣はまだ興福寺門前にある。木津川を渡る泉大橋北詰から高倉神社まで約5kmである。あと少し、ともいえる距離だがまだ遠い。
この時まで以仁王に付き従っていた乳母子の六条太夫宗信は近くの池に飛び込んで隠れ、敵がいなくなったところで京へ逃げ帰る。「にくまぬ者こそなかりけれ」と云うのだが、これは少々酷なようだ。彼は武者ではない。重衡を見捨てた乳母子後藤兵衛盛長とはわけが違う。
筒井浄妙の塚は線路沿いの田圃の中の茂みなので遠望できるのだが、
道が分かりづらく、えらく回り道してしまった。宮内庁の陵墓と共に管理されているようである。古墳の陪塚と同じ扱いのようである。
筒井浄妙明秀は「大衆揃」で堂衆として紹介されている。堂衆は注記によれば「寺院の諸堂に属し雑役に当たる下級の僧」とある。一来法師は法師原とあり、こちらは「寺院の雑役に当たる僧形の下人、原は複数を示す接尾語」とある。どちらかというと一来法師の方が身分的の下だろうか、ただどちらも雑役夫であり、寺院内の下層階級だろう。筒井というからには本能寺の際洞が峠で日和見を決め込んだ大和郡山の筒井順慶が思い浮かび、大和郡山の出身ということではないだろうかと思ったのだが、「大衆揃」に浄妙の所ではなく、筒井法師として2名挙がり、注記に「筒井は三井寺総門の南、南院三谷の一つ筒井谷」とある。こっちかもしれない。
彼らの活躍は「橋合戦」に詳しい。浄妙は立派な鎧兜を着て大音声に名乗りをあげ、橋桁を外した宇治橋のゆきげたを渡って大暴れする。これは下級僧侶というよりは武者の出自だろう。その後ろから一来法師、「悪しゅう候、浄妙房」と一声かけて飛び越していく。一来法師は宇治川で討ち死に、浄妙房は奈良を目指して落ちる。この活躍ぶりは京都祇園祭の浄妙山になっている。
祇園祭のHPから浄妙山
このアクロバット的な戦いを佐藤太美氏は宇治猿楽の世界ではないかと云っている。イケズキ・スルスミ、佐々木高綱・梶原景季の先陣争いの宇治川の合戦は競べ馬だ。宇治川で行われた二つの合戦は、軍記物としての平家物語の華やかな部分だ。