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華氷~はなごおり~

氷上に咲く花・・・フィギュアスケート。
ここは、そんなスケーター達にエールを送るブログです。(でも、時々脱線話もアリ)

DOAのつくり方 続き

2009-08-03 00:35:28 | ピート・バーンズ
さて、では後半です。

美容院を辞めて、ケンジントンにあるリンの家に一緒に暮らすようになったピート。

その内彼らは自分達でショッキングピンクの安い合成皮革からセーターを作ってアクメ アットラクションズに卸したり、モヘアのつぎはぎで紐を編んでそれからカーディガンを作りウェストウッドに15ポンドで売ったり、リンがそれでまたセーターを編んだりと、何やらデザイナーのようなことをし始めますが、
結局それだけでは十分な量を確保することが出来なかったため、ピートはリバプールのケーシー通りに部屋を借り、近くにあったユダヤ人のショップに材料を調達しに行きます。

大量の先のとんがった'60年代の靴やクロコの革などを買えるだけ買い、買えなかった残りの分をあろうことか、ピートはそこにだぶだぶのコートを着て盗みに入ってせしめている(←コラコラ笑)
やがて、そのショップにはパンク仲間が沢山集まるようになります。

ちょうどその頃、セックス・ピストルズが街にやって来てワンナイトギグをするのですが、ピートはヴォーカルのジョン・ライドンからリンやポール・ラザフォード、ピート・ワイリーなど、後のピートの仲間達と一緒に彼らの楽屋に招待されます。
そして、そこで自分の着ていた服をジョンに褒められロンドンに来てアクメに売ればいいと言われる。

その後もTVに出ていたビリー・アイドル(おお、懐かしい!)&ジェネレーションXの中のグループの人間がピート達のショップから買った服を着ていたりしてたので、店はだいぶ評判が良かったようです。

金銭的にも、前のヘア・サロンからは賠償金として毎週10ポンドが入って来てたし、売上もいい週は数百ポンドも稼いでいたらしい。

そんな中、ケーシー通りの部屋の賃貸契約が切れてしまった。

ところが、そこへタイミングよくプロブ・レコードのジェフ・デイビスという男がピートのショップにやって来て、店を気に入ったのか、沢山の毛皮のジャンパーとシャツを買ってくれた。
そして、事情を聞くと、
「俺達はショップの裏に空き部屋を持ってるから、そこをアンタに貸してやるよ」と言われる。
でも、レンタル料が払えないからとピートが断ると、彼は、
「いや、俺達はアンタに是非いて欲しいんだ」
と乞われ、ピートは渡りに舟とばかりに、そのリバプールの中心にあるプロブ・レコードの裏の空き部屋を借りることになりました。

そして、その場所と彼のファッションへのこだわりがまさにピートを今まで聴くだけでしかなかった音楽シーンの中へと彼を導いていくきっかけになります。

あと、もう一つ重要なのが、プロブへ引っ越す前から通っていたという『Eric's』というクラブ。


ピートが“パッド入りの洞窟”とも、“ビニールハウス”とも呼んでいたそのプロブ・アパートの一室は、彼らによって天上と壁一面をゴミ袋で、床は赤いプラスチック、窓はピンクのポリエチレンで覆われていてまるで保護室のようだったそうです。
そんな非日常の世界は、「顧客もスタッフも同様に、変わったヤツや才能のある人間達で、そんなヤツらのコミニュティーになっていた。
そこには、ピート・ワイリーや(エコバニの)イアン・マッカロク、ジュリアン・コープらが行きかい、通り過ぎていった」そうです。

けれど、肝心のピートはといえば、
その頃ほとんど表には出ずカウンターの後ろにいて、でも、それだけじゃあ退屈なので、自分が手に入れることの出来なかったレコードをかけていました。
ジェフはそんなピートに、
「アンタはアルファベットを憶えなくてもいいから、店に立っていてくれ。それだけで週50ポンド払うから」
と言います(要はショップの“カオ”ですね)。

だから、厳密に言えば、その時期のピートは音楽を聴いてはいたし、時々会話に参加もしていたけれど、リバプールの音楽シーンの中心にいたわけではありませんでした。
ピートの心はまだ、洋服にあったのです。


では、その当時の本当のミュージックシーンの中心はどこだったかというと、先に述べたエリックの店。

そこはプライベートメンバーズ制のクラブで、
1976年にオープンして以来、ブロンディ、ジェネレーションX、ザ・クラッシュ、ウルトラボックス、ジャム、ポリス、セックス・ピストルズ、そして、全てのリバプールの有名ミュージシャン達――OMDやエコー&ザ・バニーメン、ティアドロップ・エクスプローズ、ワオ!などが名を連ね、プロブや他のたまり場からほとんどの人間達が集まっていたらしく、
エリックの創始者でプロモーターでもあるロジャー・イーグルによると、ピーク時には約5,000人のメンバーが登録していたそう。

そんな規模のクラブだったからでしょうか?
1980年代の初頭に廃業になるまで、エリックは2回の警察の介入を受けています。
(ピートはそのどちらの現場にもいて、一度は逮捕されそうになっている)

それは、イギリスのバンドがその頃、より政治色を強めていたことも彼らが警察と衝突を起こした原因だったようですが、
多くの大衆がそういうイギリス系バンドを支持する中、けれど、プロモーターのロジャーだけは積極的にアメリカ系のバンドを呼び寄せます。

そして、それを一番喜んでいたのがピートだったのでしょう。

「ギグの後のギグで、オレは最前列にいた。
他のファンはイギリスのバンドの方が好みだったし、ギグの多くは半分カラだったからそれは難しいことじゃあなかった。
オレは彼らの舞台裏やソデ、控え室にも行って彼らを待っていた。
バンにも一緒に乗り込み、彼らの生活を垣間見た。
オレは受け入れられているようだった」

そう言ってやまないピートは、その年上で偉大なスター達のことを自分を彼らの世界へ導いてくれ、守ってくれた守護天使―guardian angels―とまで言っています。

なんせ、ピートにとって当時のアメリカのバンドは、常に新しいことを求め、生き生きとして、国境を越えていく力に充ち溢れていた存在だったのですから!

「そしてそれが、オレが彼らの後を追う必要を感じていた理由だった」


ドラァグ・クイーンであるウエイン・カウンティに会って、そのステージを観たことも、彼の刺激になったようです。
(ピートはそれまで、“ドラァグ・クイーン”という存在を知らなかった)

シャイで頭の禿げた年配のおじさんが、とてもじゃないけど女性には見えない化粧をし、ディートリッヒのマネをする。
でも、いざステージが始まって彼のパフォーマンスを観ていく内にそれは確実にディートリッヒになり、その見事なまでの変化にピートは感嘆します。

そんなウエイン・カウンティ&ザ・エレクトリックチェアーズとピートは、ロンドンで一時的ながら不法滞在までして一緒に暮らし、
それから、ピートをして、“アメリカ人の中のアメリカ人”とまで言わしめたジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズの台頭、デヴィッド・ヨハンセン、イギ―・ポップなどを目の当たりにしていく内に、
ピートは間違いなく、自分でプレイはしていなくとも自身でも知らず知らずの間に彼の音楽観とでもいうべき素地が、その内部に出来あがっていってたんじゃないかと思うのです。


そこでついに、ロジャーがピートにこう言います。

「オレ達と一緒にバンドをやらないか」

ピートはア然とし、「オレはバンドなんかやりたくない」と言って断るのですが、ロジャーは、そんなピートにちょっと脅しとも取れるセリフを吐きます。

「バンドを結成するか、二度とエリックに入れなくなるか、どっちかだ」と。


その頃、ピートはパンクというレッテルを貼られていたので、他のクラブの出入りを禁止されていました(サイモンに連れていかれたベア-・ポーのゲイ・クラブさえも!)
なので、エリックまで出入りを止められると、もう、彼には行くところがなかったのです。

「だけど、オレは何にも知らないんだ!」

ピートは今まで、自分がパフォーマンスをすることなぞ考えたこともありませんでした。
彼は自分のショップが欲しかった。
そして、より沢山の服を買い、ロンドンに行ってジョーダンを見るためのお金が欲しかった。
(このジョーダンという女性は多分ピートがその頃通っていたブティックのオーナーか、デザイナーかだったと思うんですが、自叙伝でははっきりと書いてないので、ちょっとそこら辺が曖昧です。スイマセンm(__)m)
そして、彼女が街にやって来た時すぐに会いに行けるように、キングスロードのアパートが欲しかった。

これが、その時ピートが望んでいたことの全てでした。

けれど、ロジャーは半ば強引にピートにバンドのメンバーを用意してしまう。


それが、初代メンバーのジュリアン・コープとピート・ワイリーです。
(余談ですが、様々なDOAのプロフィールには、彼らがピートの学校の同級生だったと書いてあって、私もそれを信じてたんですが、どうも違うようですね)
コープは当時リバプール・ポリーの生徒(多分、高校生か大学生!?)で、ワイリーは生活保護者のようだったらしい。
でも、ピートはワイリーに関してはマジで何も知らなかったようです。

本当に“なりゆき”でバンドをやるハメになってしまったピート。

彼はジュリアンの家で一週間ほどリハーサルをするのですが、
なんと、ピートは最初、マイクの代わりにほうきを持って歌っていた(笑)

で、それを見たロジャーに、
「アンタはマイクスタンドの使い方を覚えた方がいい」
と言われます
(マジで何にも知らなかったんですね、ピートって)

“Mystery Girls”はこの時のバンド名。

そして、最初はどこのバンドでもそうでしょうが、彼らはカバー曲でファースト・ギグをやっている(それはジュリアンのアイディアでしたが、ピートはこの時やった曲がキライだったみたいです)
それが、1977年、11月4日のこと。
もちろん前座で、ピートは相変わらずウェストウッドの服を着ていました。

集まったのはスキンヘッドの客ばかり。

彼は、ここでちょっとした恐怖にかられます。
それはフラッシュバックのようなもの。

ピートの目に止まったテーブルの上に置いてある、沢山の缶にグラスにボトルの数々・・・。
それらが自分に向かって飛んでくる恐怖。


けれど、終わってみれば、スキンヘッドの彼らは誰一人として、ピートを殴らなかった。缶も飛んではこなかった。

それが、ピートをやる気にさせます。

彼はマイクスタンドを使いこなし、歌もちゃんと歌えた。
しかもハコは満杯だった。
ピートは自分に初めて歯が生えてきたような、そんな達成感を感じていました。


このことに気を良くして何とかバンドをやっていく気になったピート。
けれど、しばらくはバンドの方向性を探る試行錯誤の日々が続きます。

ジュリアンのアイディアでバンドメンバーの配置を変えてドラムをステージの前に置き、ピートはその後ろで火のついたブランケットをかぶってみたり(ゲッ、マジで!?)バンド名を変えてみたり、ラジオセッションをやってみたり、クラブに行けない間は、様々なバンドを観にマンチェスターやウィガンまで行ってみたり――。

そんな中、ピートはまたもや自分の音楽の方向性にインスピレーションを与えるミュージシャンに出会います。

それは、『You Make Me Feel(Mighty Real)』のシルヴェスター。




何だか、これまたオトコかオンナかわからん出で立ちと声ですが、彼女はれっきとした女。
(どーもピートはビジュアル的にこーゆー男性的な女性に強く惹かれるよーです)

音楽自体も彼女のやっているものが自分のやりたかったものだと言っているように、彼の欲しかったものは“振動”。

それを作りだすことの出来る機械がありました。

それは、シーケンサー(日本語に直すと、電子自動演奏装置 笑)


ロジャーの提案でバンド名を“Nightmares in Wax”に変えた頃、ピート達は貯金していたお金でようやくこのシーケンサーを購入します。

ところが、200ポンドもしたこの機械を誰も使いこなせず、騒音しか出せないことにガックリする。

そして、もう一つピートをガックリさせたのが、彼自身の声。

ピートは、自分がシルヴェスターのようなファルセット・ヴォイスが出せると思っていました。
ところが、自分の声はテノールかバリトンまでしか出せないと知って大ショックを受けます。
(え~、でも私はボーイ・ソプラノは好きだけど、男性のファルセットって、昔変声期前に去勢して作られたカストラートでもあまり好きじゃないし、ピートはあの魅惑の低音ヴォイスだからこそいいのに、人間ってやっぱないものねだりなんですかね~^_^;)


新しいバンド名が気に入らないのもネックだった。

ピート自身は“Sex and Violence”という名前にしたかったようですが、他のバンドメンバーに反対されます。
(“セックスと暴力”だなんて、これも大概ベタですよね“ナイトメア~”と何が違うんだろう!?わからん 苦笑)

とにかく、その頃インディーズレーベルと契約して、EPを3枚も出していろんなところでギグをやっていたにもかかわらず、「どんなに物事が上手くいっていようと、オレはその名前でやっていくことだけは出来なかった」というくらいそのバンド名を毛嫌いしていたピートは、
次に発売した『Flowers』を“So It Goes”でやることになり 、この時に名前を載せる段になって、あわててバンド名変更会議をメンバーと持ちます。
そこでピートが“Those Who Died Young(若くして死んだ人々)”とか言ったもんだから、ギタリストが「そんな名前のバンドにいることが母親にバレたら、オレは引きずり戻される」と言う。

「じゃあ、オレ達は一体何をやるつもりだ?」

ピートが尋ねると、それに対して彼が言った言葉が、

「Wanted:Dead or Alive!」



「それは、何てドラマチックだったろう」

――このやりとりで“Dead Or Alive”のバンド名が決まったのです。
(今まで伝え聞いていたのとはちょっと違いますよね)


ところで、『Flowers』は暗くてシルヴェスターらしくないと、あまり評判が良くありませんでした。
まだシーケンサーを使いこなせていなかったし、その間にもミュージックシーンには次々と新星が現れていく。


でも、『Misty Circles』辺りから、段々事態が好転して行きます。

ピートはウエイン・ハッシーを迎え、他にも才能はあるが、中々世間に認めてもらえないようなミュージシャン達を積極的に取り込んでいった。
(後のDOAのメインメンバー、マイクやティム、スティーブはこの頃からバンドに参加したのかも知れませんが、この3人のことはその出会いやきっかけなどがほとんど語られていないためわかりません。ナゼなんでしょうね!?(・・?

あと、このウエイン・ハッシーというギタリストは後に、ピート達がシーケンサーを使いこなせるようになっていってからは徐々に出番がなくなり、そのことを逆恨みしたのか、彼らの音楽性をけなしたメモを残しその後脱退していきます。
その文面はけっこー辛辣で、最後のところにはこう書いてありました。

「多分ピートが死んだら、オレがその葬式の司会をしてやるさ」

・・・ああ、その時のピートの悲しみといったら!)

それから、カメラマンだったフランチェスコ・モリーナがマネージャーになり、ラフ・トレードと契約し、ドリーン・アレンをアシスタントに添え、彼らはボールド通りにオフィスを構えレーベルを設立します。

そして、それに合わせてギグも大きくなっていった。

リンと結婚したのはそんなさなかの1980年の8月のことでした。

その頃には住居もキャサリン通りにある週6ポンドの住宅協会アパートに変え、ショーを続けながらプロブのショップでもまだ週に2,3回は働いていました。
大学が近くにあったので本好きのピートはいろんな本も借りていた。

それは、それなりに満ち足りた生活でした。


そんな中、ピート達はいろんなメジャーレーベルの目に留まるようになり、やがて、1982年のエピックとの契約に繋がっていくのです――。




さて。

これ以降のことは、前回エピックとの関係性を書いたところに大体まとめた通りでなので今回は割愛しますが、そんな中でも私が敢て書いてこなかったエピソードが2つあります。

その内の一つが、『You Spin Me Round(Like a Record)』の作り方。
(もう一つの方はまた【自叙伝編】にてお伝えしたいと思いますので、お楽しみに)

エピックと契約してから最初に発表したのが、ゼウス・Bと一緒に作った『Sophisticated Boom Boom』

このアルバムの頃にはだいぶ今までのゴス調のサウンドは影を潜め、ピートのやりたかったディスコ・ミュージックに近づいていってますが、
次の曲を作る段になって、ピートはディヴァインの『Nature Love』を聴き、そのサウンドに強く惹かれます。
「オレは、その音がめちゃくちゃ欲しかった。そして、探しに探して、それがボビー・Oという人物によってプロデュースされたものだとわかった」

ピートは彼に自分達の音楽をプロデュースしてもらうべくエピックにかけ合いますが、アメリカまでの費用を出したくなかったエピックはけんもほろろ。

そこで、ピートは今度はディヴァインの新曲『You Think You're a Man』を聴き、これも『Nature Love』ほどではないものの、気に入ります。
けれど、実はこれはボビー・Oの仕事ではありませんでした。

では、誰がプロデュースしたのか?

「その人物はロンドンにいて、皆からこう呼ばれていた。
マイク・ストック、マット・エイトキン、そして、ピート・ウォーターマン」


これが、ピートとSAWとの出会いのきっかけでした!


では、ここでそのきっかけになったディヴァインの『You Think You're a Man』を聴いていただきましょう。




ディヴァインはもちろん元♂のドラァグ・クィーンなので、まぁ、その容姿は置いとくとして、このベースのサウンド、もろスピン・ミーですよね!

そして、更にピートはこの音を基本に次の二つの曲を重ね合わせます。

一つ目は、ルーサー・ヴァンドロスの『I Wanted Your Love』




もう一つがリトル・ネルの『See You 'Round Like a Record』




でも、これだけ聴いた感じでは、サビのエッセンスは似ていますが、スピン・ミーとは丸っきり別モノの曲なので、ピートの作曲方法というのは彼の言葉を借りるなら、
「オレは何かを聴く。そして、オレはその上に別のメロディーを重ねて歌う。オレは机に座ってルーサー・ヴァンドロスを研究したわけじゃない。
オレは歌を聴いて、それをロックするんだ」

という形になるようです。

だから、ピートの場合は初めに既成の曲ありきで、そこからインスパイアされた彼のイメージを、様々な手法を使って作り上げるというパターンになるのだと思います。

そして、まさにそのDOAサウンドを作るのにあの時期一番、ピートのお眼鏡にかなったのがSAWで、しばらくはお互いが一緒に音楽を作ることに最大限の喜びと闘争心を持っていた彼らなのに、
『Mad, Bad and Dangerous to Know』を作り終えた後からは、SAWはその内他のミュージシャン達とも仕事をするようになるにつれ、段々忙しくなっていった。
そんな中でも、彼らはピートのために曲を作ってくれるのですが、ピートはそれを受け入れませんでした。

いえ、受け入れられなかったと言うべきでしょうか。

「オレは当時、他の誰かが自分のために作った曲をどう解釈したらいいのか、全くわからなかった。
それは、子供が欲しくて赤ん坊を養子にしたのに、その子に乱暴してしまうようなものだ。
オレは、物事をどうしたらいいのか、さっぱりわからなかったんだ!」


前回の記事で、私は、SAWが「彼らは俺達の作った曲で歌わなかった唯一のグループだった」と言っていたことを書きました。


ピートは今でも、ウォーターマンのことを愛していて、彼とまた仕事がしたいと言っています。
だから、決して彼らとは、エピックとのように、最悪な形で関係を終わらせたのではなかったのです。


ただ、その当時のピートがほんの少し不器用だっただけ。

多分、その頃お母様が亡くなって、スピン・ミーに次ぐヒットを出さなきゃならないというプレッシャーや、自分の周囲の環境が激変していたことも関係あったのだと思います。



――ああ~、もう!!


なんて、愛しくていじらしいヤツなんだーー、ピートってば!!


こんな彼を、愛さずにいられましょうか!

こんな、彼がいたDOAを知ることが出来て、本当に良かった。


ピートのパフォーマンスや言動は、時としていつも誤解を巻き起こしてきたけれど、自叙伝を読んでわかったことは、彼はいついかなる時でも真剣に赤裸々に他者に向かっていたということ。


最後に、彼のこの言葉を引用して、今回の記事を閉めたいと思います。

「オレは高級なメンバーズ・クラブだ。それが理解出来るヤツだけが入ってこられる。オレを手に入れられるのはそいつらだけ。
それは、直観的なことだ。

そいつらは、オレに質問したりしない。そして、オレもまたそいつらに答える必要はない。

オレは、多くの人間が通り抜けるのを恐れる出入り口のようなもの。

人がオレを見る時、彼らはオレの中に自分自身の姿を見ているのだと思っている。


どんな服を着ていようとも、オレはとても赤裸々だ。

オレは、ヤツらの鏡なんだ」

DOAのつくり方

2009-07-31 01:44:20 | ピート・バーンズ
え~、子供達が夏休みに入り、すぐさま実家に帰省して、その間に大輔くん関連の話題で盛り上がっていたりしたので、ピート様がすっかりご無沙汰になってしまいました(^_^;)

どーも、スミマセンm(__)m


で、あれから自叙伝翻訳するのはだいぶ早くなって来たんですが、
いかんせん【整形編】のまとめにかかるにはもう少し時間がかかりそうなので、
ここらでちょっと趣向を変えて、ピートが今までに影響を受けてきたアーティスト達をPVでご紹介しつつ、あのDOAがどのよーに形作られていったかを書こうかなと。


というのもですね、

自叙伝読んでいくと、ピートの音楽へのアプローチの仕方がちょっと他のミュージシャン達とは変わってるので、
(と言いつつ私も似たようなところがあってビックリしたんですが)
そのアプローチの仕方だけで一個の記事が書けるんじゃないかと踏んだ次第。



何となく薄々気付いてらっしゃる方もいるとは思いますが、
彼は絶対的な右脳人間のようでして、全ての事象をビジュアルから捉えています。

そんなピートを私は“母子密着の絵描き人”だと勝手に命名してまして、
(その一方で母子密着の弊害にはまらず、冷静かつ、割と客観的な目を持ってるのは、知的でウィットに富んでいたというお父様の方の影響があるからでしょう)
しかも、彼が好むその対象物が激しく偏っていることから、これだけでも充分取り上げるべき材料があるということなのですが、

ま、この辺に関しては【整形編】や【自叙伝編】にもかぶるので、後でまた詳しく考察します。



さて。

ピートが初めて音楽に触れたと思われるのは、多分4、5歳の頃。
皆さんもご承知の通り、ピートには11歳年の離れた兄のトニーがおります。

その頃トニーはちょうどグラマー・スクール(日本の公立中学の一つにあたり、12歳~15歳までの成績優秀者が通う学校です。その他にテクニカル・スクールとセコンダリー・モダーン・スクールというのがあって、それぞれ成績別に自動的に振り分けられていたそう。
それに対して私学のお坊ちゃま達が通うのがパブリック・スクールですねー。『アナカン』や『if...もしも』などの世界です
でも、今はグラマー・スクール他3つの学校はほとんどなく、コンプリペンシブ・スクールという総合中学が一般的になっているんですが、まぁ、イギリスの学校のことについて話し出すとまた長くなるのでこの辺で^_^;)に通っていて、毎日午後4時頃学校から帰宅すると、すぐ友達と遊びに行ってたらしいので、ピートは彼のことについてはあまりよくわからないそうです。

トニーはピカピカ光ったピンクのレコード・プレーヤーと、お気に入りの'60年代のレコードコレクションを沢山持っていました。
そして、ピートはいつも、侵入禁止だった彼の部屋から聴こえてくる音楽を、ドア越しに聴いていたそう。

そんな中でも印象に残っているのが、
トニーがお気に入りのギターでよくバンドの真似事をしていたということ。

トニーはポップスターになりたかったようです。

それは、時、まさにビートルズが一世を風靡していた頃、彼は大きな鏡の前でレコードに合わせて歌真似をすることに時間を費やしていた。
彼は、フォークサークルにも入っていたようで、まだフォークが一般的でなく彼らが路上でプレイしていた当時、今となっては考えられないことですが、『Sound of Silence』がヒットする前のポール・サイモンがなんと、ピートの家をホテル変わりにしていたそう!

他にも『Blowin' in the Wind』(私、この曲大好き!)のピーター、ピート&マリーのマリー・トラバースも。

けれど、その頃わずか4才ぐらいの幼児だったピートにとっては、彼らは別に何者でもなかった。
ただ、そんな中でもマリー・トラバースのいでたち――プラチナブロンドのエジプト風ボブ、ピートのお父様曰くボクサーのような折れた鼻と四角い顎、そしてそのちょっと大柄な身体つき・・・、そんなものにピートは強く惹かれ、「オレは今までそんなキレイなものを見たことがなかった」なんて言っている。

それだけインパクトがあったってことなんでしょうが、まぁ、このスタート時点からして既にピートはビジュアル指向の人間だったというのがよくわかります。

トニーの持っていたレコードも、プレーヤーに近づくことが出来なかったピートは、音を含めた中身には興味を持たず、惹かれたのは専らその外観・・・レコードジャケットの方でした。
彼はその中の何枚かのジャケットに強い執着を持つようになった。
(その中にはもちろん、メラニー・サフカのアルバムも含まれていました)
ピートは、その頃、何時間でも飽きるまでそのジャケットを眺めていたそう。

「オレは聴くより前に、ビジュアルで惹き付けられなくちゃならない。それは音楽だけに限ったことじゃないがね」


この言葉を読んで、私も全く同じ傾向があることに気付きました。
私も、音楽はそれほどではありませんが、漫画や映画、人物など、まずビジュアルから入る人間なのです。
まず、「綺麗じゃなくちゃダメ」
これが、私の出発点です。

それと、ピートほどではないけれど、自分の外観とその“美”の基準にこだわるところも似てるかも。

ただ、凡人と才人の違いは、私のよーな凡人はそんなこだわりがある一方、周りの目を気にして“普通”とのバランスを取ってしまうんですが、これがピートや数多の才人だとそのこだわりを生涯通してしまって、ややもすると、そのバランスを崩してしまうところ。
そして、それすらも彼らの魅力になってしまうところでしょうか――。


ピートは小さい頃は絵を描くのが大好きだったらしいので(ハハ、これも私と一緒)彼がバンドではなく、デザイナーなんかを選んでいたとしたら(ヴィヴィアン・ウェストウッドが好きで、自ら服のショップを開いていたくらいですから)そしたら、もう少し違った人生になっただろうとも思いますけど、
(カンケーないですが、私もウェストウッドは20代の頃好きで一時期着てたことがあります。私はパンクじゃなかったけどネ

ああー、でもやっぱり、
ピートの場合、自分自身が展示物みたいなものだったから、裏方関係は向いてなかったかもなぁ


・・・なんて、
イロイロ想像したりしてますが。



さて、そんなピートが次に衝撃的な出会いをしたのが、トニーと一緒に観ていたTVのポップショーの中で歌っていた、アメリカ人男女のデュオ、ソニー&シェール。

母方がネイティブ・インディアンの血を引くというシェールの容貌は、最初ピートをして男性だと思わしめます。

その、漆黒の髪に少し粗い肌、強い顔立ちにハスキー・ヴォイス・・・。


ここで、まず、ピートが自叙伝の冒頭で、彼が小さい頃お母様のブーツをはいて鏡の前でよくマネをしていたというナンシー・シナトラの動画を観ていただきましょう。

これは、私も子供の頃TVのCMで流れていたのを聴いた覚えがあるので、皆さんもご存じの方が多い筈。
『Suger Town』です。




そして、こちらは、そのナンシーの容貌がよくわかる『Bang Bang』




これ見ると、そういえばあの当時日本もこーゆーファッションスタイルが流行ってたよなぁと、おぼろげながらも思い出しますよね(特に自分達の母親世代)

リカちゃんやバービーもみんなこんなだったっけ。

特にあのミニスカとロングブーツ(今ならニーハイブーツでしょうが)がインパクト大で、そーいやピートはこのブーツに対してもやたらフェティッシュなこだわりを見せていましてですね、
自叙伝の中に出てくるブーツの名前だけでも、“ナンシー・シナトラGo Goブーツ”やら“ボクシングブーツ”やら“スティレット・ブーツ”やら“SEXブーツ”やら、

え?それの違いは何!?!?(@▽@;)

って、ふつーのスタイリストやピ―コですらそれほど知らないんぢゃないかってェーくらい、いろんな名前が出てくる


ま、このブーツはピートにとって、彼が惹かれるビジュアルの必須アイテムの一つだったみたいですから、それもトーゼンなんでしょうが、

その彼が強烈に惹かれたビジュアルが、このシェールに代表されるものです。




上の映像は、多分ピートがトニーとTVで観てた頃のシェールの容貌。

確かに、インディアン系のエキゾチックな顔立ちとドスの利いた声に一度見たら忘れられない個性を感じますよね。


でも、次の映像にはちょっと興味深いものがあります。
歌はナンシー・シナトラのカバー曲『Bang Bang』
(も、これだけでも、何かしらの因縁を感じますけど)




この映像の中のシェールの姿、誰かに似てませんか?

そう!『Rip it Up』のTバック姿のピートです!!


「オレには、自分が何をステキだと思うかわかっていた。
彼女らは、大抵漆黒のアイライナーを塗り、逆立てた真っ黒な髪に、青白く塗った唇、そしてスティレット・ブーツを履いていた。
そしてそれは、男性のものとイギリス由来のものには何一つオレの若い頃の興味をそそらなかったことを意味していた」

という彼の言葉からもわかるように、
'80年代の頃のピートは明らかにシェールを意識した格好をしていて、
あろうことか、'87年のシェールの主演映画『月の輝く夜に』のプレミアの日にピートはそこを訪れ、皆からシェールと間違われています。
(ま、でもピートは彼女のことを相当リスペクトし、憧れてもいるので、これは明らかに好意からくる行動だと思いますけどね)

でも、そんなピートに対して、シェールはその後『Believe』の頃に偶然再会するのですが、近寄ってきたピートをテキトーにあしらい逃げてしまうんですよ~~

ピートはただ、彼女を褒めたたえ、感謝の気持ちを言いたかっただけなのに。

でも、実際彼は慌ててしまっていた。

ピートは、彼女のスタイリストであるマイケル・シュミットとその『Rip it Up』で一緒に仕事をしているし、当時自分の『Come Home(With Me Baby)』もアメリカでNo.1を取っていたので、彼女が自分のことを知らない筈はないと主張しているのですが、だとしたら余計切ないよなぁと思います。
同じ芸能人でも、追いかける立場の方になると、誰でも自分の方が弱気になっちゃうのは古今東西一緒なんですかね。
(そーいえば、大輔くんも竹内結子に話しかけた時、ファンの気持ちがよくわかったとか言ってたし)



ともあれ。


かように脱兎の如く逃げられても「彼女こそ現代の本物のディーバだ!」と言ってシェールのことを愛してやまないピートですが、そんな彼が彼女と同じくらい当時熱を上げてたのが、アメリカのフォークシンガーだったメラニー・サフカ。




この歌は『Lay Down』ですけど、
その頃ピートが全部持っていたというポスター付きのアルバムなどのイメージがこの映像だとよくわかるかも知れません。
(ピートはそのポスターを壁に貼りまくっていたらしい^_^;)


そして、メラニーの歌っている姿を見られるのがこれ、『Brand New Key』




ですが、ここで誤解のないよう言っておくと、ピートがこれらの女性達を好きだったのはあくまで彼の美意識にかなった存在だったからで、そこには性的な憧れや衝動は一切なかったようです。
(まぁ、ふつーは反対なんですがね

だって、彼はあの当時のセックスシンボルだったブリジット・バルドーを見てさえ、
「Gender didn't enter into it.It was just beauty to me.(性はそこには入ってこなかった。それは、まさにオレにとっての“美”だったのだ」
と言ってるくらいですから。


だから、お次の、(あのピートのバックバージンを奪った)サイモンが乗っていた車にかかっていたスージー・クアトロにしても、ナンシーにしても、シェールにしても、彼女達はみーーーーんな、ピートの自分がなりたかった姿なのです。




うん、こうして見ると、スージーもけっこーインパクトありますよね~。

そして、やっぱり、皆どことなーく共通点がある。



でも、こんな風に早くから自分の追い求めるイメージがはっきりしてる子も珍しいですよね。

音楽にしても、彼はその頃トニーの友人が乗っていた車から聴こえてきたビーチ・ボーイズやムーディ・ブルース、リンダ・ロンシュタットなどの曲を、キレイではあるけれど、「やってみたい」とは思わなかったと言ってるし、その後徐々に売れ始めて来たD・ボウイに至ってはさりげなく敵対心まで持ってる。
(その割にはカバーやってますがね^_^;)


とにかく、幼少期のピートにとっては全てこれアメリカ製で、10代後半のクラブに通うようになってもそれは変わらず、ピートは自叙伝の中で、

「オレは、自分がアメリカの魂を持っていると信じている」

と言っているくらい、彼のアメリカへの憧憬と繋がりには深いものがあるようです。


そんなピートが、では、いかにして自らバンドをやるようになったのか。


前にもチラッと書きましたが、ピートは13歳の時に知り合ったサイモンというゲイの男と関係を持ったことがバレて、家はおろか、村にもにいられなくなります。

それで、リバプールまで出るのですが、その時ピート14歳。

最初はヴァージン・レコードでヒッピー達に混じってアルバムの値札を交換する仕事をしていた彼ですが、
当時イギリスの流行の最先端だったブティック『Biba』に通うためその頃ロンドンで暮らしていた兄の家に泊まりながら市内を歩いている内、リンの働いていたヘアー・サロン『A Cut Above the Rest』を偶然見つけます。

そして、その内装などをウインドウごしに眺めている内、ピートは「オレは美容師になりたい」と思う。
中に入り、試しに仕事はないか訪ねてみると、土曜だけ雇ってもらうことが出来た。

日本だと14歳で何の身元の保証もないのに、そんなすんなり雇ってもらえるなんてあり得ないことですが、その頃のイギリスは先述した中学を出て高校、大学にまで進学するエリートはほんの一握りで、大半は16歳で労働職に就くのが当たり前だったため、
本人曰く、「オレは14歳よりいくらか歳取って見えたから雇ってもらえたんだろう」とのこと。

でも、そんな美容師の仕事もピートはしょっぱなからパーマ用のロットの違いがわからず従業員にどなられケンカ、
リンになだめすかされ仕事に戻り、しばらくは何とか続けますが、
その内この二人の前衛的でパンクなファッションが店の中でも浮くようになり、やがて街の人達が物見遊山で店の窓から覗くのを警備員さえコントロール出来なくなり、彼らはクビになってしまいます。

ここで疑問なのが、そんな一般人のファッションがなぜそこまで問題になったのかということ。


いろいろ調べてわかったことは、
その当時、ヴィヴィアン・ウェストウッドの創始者であったマルコム・マクラーレンが創り上げたバンド、セックス・ピストルズを筆頭としたパンク・ファッション及びそれに身を包んだ若者達を、イギリスのTV番組の司会者、ビル・グランディーが自身のショーの中でパンクは攻撃的で反社会的だというレッテルを貼ったため、それをきっかけに一般の保守層が彼らを一斉に叩き出したからです。

そして、ピートはまさにそのムーブメントの渦中である、マクラーレンが経営していたブティック『SEX』(ウェストウッドの前身)や、同じく当時パンク発祥の地と言われていた『Acme Attractions』に出入りしていて、ピート自身も「I was a punk(オレはパンクだった)」「それは今ではファッションだが、1977年にはそれは政治声明だった」と言っているくらい、
「リンとオレは幽霊のように顔を白くし、オレは真っ黒なドレッドヘアーに肌色のゴム製のストッキングを履き、ピンクのハイヒールにバイクタイプのTシャツ、そして小さなグローブをつけていた。
リンは'60年代専門のヘアサロンでセットした髪に濃いめのアイライナーを塗っていて」

またある時は、
「でかいドレッドヘアーに半分黄色い額、サイドを剃ったりペイントした頭、それに完璧に白い顔に白い睫毛、黒いコンタクトレンズをつけた」ピートや、これまた「'60年代のタートルネックセーターに体操用のニッカ-(ブルマのようなもの)を履き、ストッキングにめちゃめちゃでかいサスペンダーをし、丸いつま先のハイヒールに黒のグローブ、目には相変わらず濃いめのアイライナーを塗っていた」リン。

そんな格好を普段からしていた彼らは当然、その降って湧いたバッシングの嵐に晒されることになり、
その頃サロンのオーナーと付き合っていた受付嬢からもファッションが脅威的だとあらぬ言いがかりをつけられ、クビにさせられた挙句、
仕事を辞めお父様の計らいで家までの帰途の安全が確保されるよう国有鉄道にかけ合い手配してもらった列車のファーストクラスに乗り込もうとしたまさにその時、
「汚らしいパンク野郎め!」
と何人かの一般人にどつかれ窓にビンを投げつけられます。

そのファーストクラスには、ピート達のためだけにガードマンがつけられていました。

「奇妙な出来事だったが、オレ達はVIPのような扱いを受けた。それは、オレが騒ぎを引き起こし、リンも一緒だったことからオレ達にポップスターダムの階段を昇るための準備をさせてくれた」

とは、ピートらしい後日談ですが、

彼がその一連の出来事をお父様に相談したため、お父様はピートに病院へ行って神経症状の診断書を貰ってこさせ、それを不当解雇だとして産業裁判所に訴えたことによって、ピートは一時的に数千ポンドの賠償金を手にすることになります。

そして、一旦はリンと共にポート・サンライトの実家に戻ってくるものの、その頃になるとアル中だったお母様が本格的な発作を起こしていたので、それを見たリンがピートに「あなたはここにいてはいけないわ」と言って彼を自分の家に連れて行くのです。


それから彼らは、今度はそこを拠点にして先の賠償金を元手に部屋を借り、自分達で作った服やアイテムを売り出すのですが、
ピートはこの自分のショップにかなり強い執着を持っていくんですよねー。


では、果たしてそんな彼がこの後どうして、音楽の方へ進んでいくのか。

それについてはもう字数も足りないため、次の回に譲るといたしましょう。


そこでは『You Spin Me Round(Like a Record)』のつくり方もご披露出来ると思いますので、どーぞお楽しみに。
(あ、もう自叙伝読んで知ってらっしゃる方はご内密にネ(^_-)-☆)



でも、今回は一回で終わると思ってたのになぁ・・・ザンネン

ピート・バーンズ考 1991~現在 【音楽編】 まとめ

2009-07-08 12:30:02 | ピート・バーンズ
'90年代のDOAの活動をこうして改めて振り返って見てみると、
大手のバックを失い、バンドメンバーには去られ、思うようなレコーディング活動が出来なかったところだけに焦点を当てれば、なるほどあまりいい年代ではなかったのかも知れません。
(それに、年ははっきりしませんが、この時期にピートは重大な心身の疾患を負ってしまうので)

けれど、その代りピートとしてはこの時期、様々な人達に出会い、色んな価値観やヒエラルキーに触れられたのは良かったんではないでしょうか。


ストリートで暮らすホームレスのダンサー達、ピーター・オクセンドール、ジーナ、プリンス、エディ・マーフィー。


ま、そんな中でも、異色なのが、私も一時期4シーズンくらいまではハマっていた、あの『X-FILE』のデヴィッド・ドゥカブニー。

デヴィッドは、ピートがロンドンのバーにいる時に(よくオトコが気のある女性にやるよーに)シャンパンをピートに送り続け、その後接触してきて、
彼をレストランに連れてってくれたり、有名なサッカー選手に合わせてくれたり(でも、ピートはこのサッカー選手はおろか、最初はデヴィッドのことも知らなかったらしい
おまけにあろうことか、ハリウッドにある小さいながらも豪華な家を提供してもらったりしてて(ピートはその家の鍵を貰い、随分長いことそこに滞在してたそーです)
ここまで書くと、なんか、まるで一昔前のオクテな金持ちオトコがアバズレ女に恋をして(ぎゃー、ピートごめん!)いろいろ気を引こうとやってはみるものの、肝心の自分の気持ちをどう伝えたらいいかわからずそこから先に進めないで困り果てているみたいな、
すごーーーーくじれったい関係のよう。
(だって、ピートに言わせると二人の間には性的なことは一切なかったらしいですから)

そーすると、私達はトーゼン、

ええ~、じゃあ、
デヴィッド・ドゥカブニーほどの有名人が、一体ピート相手に何をしたかったの!?!?

とか、思うわけで



まー、相手がピートだったからこそ、何も出来なかったのかも知れませんけど、
でも、ピート的にはけっこーオイシイ思いをしてたってことですよね


そんな出会いがあったかと思えば、思わぬ避難所になったエディ・マーフィーの邸宅の、お部屋やお風呂の壁一面がガラス張りの水槽になっているのを見て、

「そういう人種(セレブ達)の家は、ファンタジーを超えている」

と自分との違いを改めて実感してたりもしてますが、

でもそれを言うならピートの方も(年はわからないし、一体どーゆー経緯でそうなったかが全く説明されてないのでここでは事実のみを紹介するしかないんですが)
ある時期をニューヨークの有名な超高級ホテル、エセックスハウスのスィートで過ごしたりしてて、24時間の自動車サービスと、2人のボディガードに、ニューヨーク中の全てのデパートとバーグドルフ・グッドマンで使用出来る専用口座を開設してもらったりしてるんです。

そんなことを思うと、丸っきりの貧乏ツアーでもなかったんだなぁと。


音楽的にも、'90年代後半はChrysisとしてジーナと一緒に積極的に各地を廻り、YOU TUBEを見るとオーストリアやロンドン、パリなどで、小さいライヴハウスながらもある時はエジプトの衣装のようなサリーを着て、
(余談ですが、ピートはエジプト文化と'60年代カルチャーとの類似性についてもけっこーなうんちくを披露してます)
またある時は昔のセパレート水着のよーな、中途半端な露出度でつまんなーい!と観ているこちらを欲求不満にさせる衣装を着ながら(笑)かつてのヒット曲を歌ったりしているし、

クレオパトラ版ピートはこちら

(これ、共有リンクが出来ないようになっていたため、URLを貼る形にさせていただきました。ご了承下さいませm(__)m)



そうそう!
96年にはスピン・ミーの別バージョンのPVが出ているのを発見!




この辺りになると、もう、すっかりピートは女性としてファッションをチョイスしてますよね。
でも、私、このPVのテイストははっきり言って好きです。
ピートがスピン・ミーを作曲する時にインスパイアされたというリトル・ネルあたりの、ちょっと'60年代を彷彿とさせるよーな頽廃感と過剰なエロティシズムに溢れてて、
これがピートの理想とする女性像の完成形の一種なのではないかなーと思うくらい。
(だって、このPVのピートって、胸がないのが全く気にならないくらい、完全に“オンナ”してるんですもん!)

いや~、ここまで来ると、ホントあっぱれ。


ところで、ピートが自叙伝の“the naughty nineties”(イケてない'90年代)の見出し文で、

“『One Kids』というTV番組が、ビデオの中のオレがあまりにも変わっているというのでオレのレコードを演奏するのを取りやめた。
結局そいつらはマリリン・マンソンのビデオを流した。それが、どれくらいバカげているかわかるか?”

と書いているんですが、
奇しくも、そのマリリン・マンソンがDOAのスピン・ミーをカバーしてるPVを見つけたので観てみて下さい!




私は今回ピートの自叙伝で初めて、マリリン・マンソンなる人物の音楽性が反キリスト教を掲げた過激な歌詞とライヴパフォーマンスで有名なのを知ったんですけど、このPVを見ると、なるほど、これでピートの方が変っていうのは一体どーゆー色メガネ!?って思っちゃいます(怒)

(てか、ピートの場合、いっそのこと性転換しちゃってればもっとラクだったのかも知れませんね。そうすれば、少なくとも見た目上は明らかな“女”なので。
でも、彼は多分、当初から言ってるように、自分をそのどちらにも分類したくはなかったんだと思います)

大体、Wiki見るとですね、
マンソンが世間から危険人物視されてるのなんて、ピートの比じゃないですし(ピートのはユーモアと可愛げと哀切がある)
ま、彼の生い立ちを読むとアンチキリストになるのもむべなるかなって感じで同情せざるを得ないところもあるのですが、
それにしても自叙伝でのピートのマンソンに対するけなしっぷりがまた半端ないので

「Silly cunt.(直訳“愚かなお〇んこ”) Satanism? Oh, come on... What a pile of crap!」

――簡単に意訳すると、「悪魔崇拝?くだらねぇ戯言だ!」ですかね。

その他にも「ヤツのメイクはかたゆで卵のようだ」とか、「ヤツのやってることなんて、マーク・アーモンドやアリス・クーパーがとっくにやってるし、彼らの方がはるかに良かった」なんてのたまってる

確かにマークやアリス・クーパーはそっち系の大御所なんで、ピートの言うこともわかるんですが、いちおー自分の曲をカバーしてくれてるんだから、もちっと遠慮したらどーよと


ただ、ピートが不当に思う感情だけは理解できます。

理解どころか、ここまで来ると感情移入さえしてしまってますが(苦笑)



*ここでお詫びと訂正*

7/8にコメントを戴いたりんこさんの情報によりますと、上の動画、マンソンのものではなく、Dopeというバンドのものなんだそうです。
(改めて確認したところ、これ、正しくは曲だけDopeで、映像はマンソンのものなのかな!?)
とにかく、マンソン、並びにDopeファンの方々には大変失礼致しました。ここに、お詫びして訂正いたしますm(__)m

ただ、ピートの感想は自叙伝に実際書いてあったものですし、この私の間違いをきっかけに、ここを覗いた他の方々にも誤解が解けるならその方がいいと思うので、この文と動画はそのまま残しておきたいと思いますので、ご了承下さいませm(__)m

(――それにしても、ピートファンの方々って、本当にご親切ですね!助かります。
これからも、至らない私のブログを助けて下さ~い!)



――では、ここから本文に戻ります。


続く『Hit And Run Lover』も、誰にかはわかりませんが「唇は映さない方がいいだろう」とか言われちゃったそうですしね。




「オレは“男性”アーチストとしては音楽ビジネスにおける“負担”となってしまった」


とは、『EVOLUTION』のライナー・ノーツでのピートの言葉。


それでも、彼は、彼に対する様々な誤解や偏見を「そんなのはオレの知ったことじゃない!」とはねのけ2003年には『You Spin Me Round 2003』を再録。




で、このPVの中のピートの、車(本体)を“買い替える”というよりは、明らかに“カスタマイズ”とか“フルモデルチェンジ”していると言った方がふさわしいくらいの変貌ぶりを見るにつけ(もっとも当時、唇に関しては本人も予想に反して大きくなり過ぎてるとは思っていたようですが)

まあ、確かに周りの忠告を聞いてたらこんな風には出来ないよなぁと(~_~;)


そこら辺が“我が道を行く”ピート様のピート様たる所以ですねー。

(でも、正直、私は最初、今までの顔の変遷を時代を追って見て来ずに、過去のピートのあの均正の取れたお顔のイメージを抱えたままこのPVを見て、そこにいるマッチョなオバQにガクゼンとしてしまいましたけど^_^;)


慣れというものは恐ろしい・・・

次の2003年の日本のTVライヴでの『Lover Come Back To Me』なんか観ても、
も、「あら、唇以外は全然オッケーじゃん!」って感じで、




この二つ見ると、上の『Hit And Run Lover』の痩せこけてるのに唇だけやたら太いゾンビのよーなピートよりも、マッチョなオバQのピートの方がまだマシだと思ってる自分がいますねー



そして、ピートとしては、ここ最近で一番新しい曲のリリースになったのが、2004年のペットショップボーイズプロデュースによる『Jack & Jill Party』




ピートは確か、'80年代当時からザ・スミスのモリッシーと親交があったと思うんですが、ペットショップボーイズも同世代のアーティストで同じゲイ仲間なので、そこら辺のつながりがあったんでしょうかね?
声はピートですけど、サウンドがしっかりペットショップボーイズテイストですね。
(あ、でも、このPVにはザンネンながらピートは一切出てきません。あしからず)


以後は、皆さんもご存じの通り、
2006年の『Celebrity Big Brother』への出演と、日本での『世界仰天ニュース』のあのミニドキュメンタリーがきっかけで、ひょっとしたら整形関連からピートを知った人も多いんじゃないかと思うくらい、こっちの話題の方が多くて、
音楽的には2009年の現在にいたるまで目立った活動はしていなかった、ピート。

それは、コメントにもちらっと書きましたし、pinokoさんもご指摘してたように、彼がその時期マイケルとゆー恋人とラブラブで、自叙伝でも
「なぜ今こんな沢山のTV出演や本の話を受けているのかといえば、マイケルと同じ場所にいることが出来るからだ」
と言っているくらい、彼との生活を一番優先していたのと、
やはり、音楽をやっていた時は得られなかった発言権を今、得られていることが大きいと書いているので、
(その割には当時から言いたい放題言っていたよーな!?^_^;)
多分、ごく最近までは“自分を表現する手段”が音楽でなくても良かったんじゃないかと思います。
(そもそものミュージシャンになったきっかけすら、「なりたくてなったわけじゃない。まぁ、なりゆきでなったようなものさ」とか言ってたくらいなので)


でも、ピートウォッチャーの皆さんなら既にご存じの通り、ピートはそのチョー愛して結婚までしたマイケルと最近になって別れてしまったので、
(原因はマイケルの浮気らしいですが)
リンとも離婚してしまっている今、また何か自分の情熱をぶつけられるものが欲しくなったんでしょうかね。
前回の記事にも書きましたように、ここに来てニューアルバムの制作をしてるとの情報が彼自身のサイトにUPされました。


確かに、様々な最近のピートの出演してるTV番組を要約して下さってる方のブログなどから現在のピートの姿を見るにつけ、あれはもう、日本で言うところの古くは野村サッチーから、細木数子、三輪さんにいたる系譜の“おばキャラ”にあたる存在になってしまってたので、
案外ピートも今、あのまんまのキャラで日本のバラエティなんかに出たらウケるかも!?とか思うんですけど、
(実際仕草とか言動がすっかりオバサン化してるし


う~~~ん、でも、やっぱりね。

あの類いまれな彼の声と、他の誰とも似てないアーティスト性に惚れてる私としては、このままもう一切歌わずに終わっていくのはあまりにも勿体なさすぎる!!
と思ってたから、
今のこの状況はかなーーーり嬉しい\(^o^)/


だって、ピートのよーな人物は絶対世の中に向けて常に何かを発信してないとダメなキャラだと思うので。
(常に泳いでないと死んじゃうマグロみたいなもんか!?)


それは、彼自身が自己分析してるように、ピート・バーンズという人間の根源的なところから湧いてくる生命エネルギーの強さにも付随してるもので、
私はついこの間亡くなったマイケル・ジャクソンとピートが(キャリアと世間への影響力はもちろん全然違いますが)同じように整形やらプラベネタで常にマスコミにさらされ誤解や非難を受けながらも、マイケルはどんどん内に籠ってしまい、一方のピートは全部あけすけに自分を見せてきた、
そこら辺が二人の後年の生き方を変えてしまったんじゃないかなぁと思ってます。

そして、ピート自身もマイケルのことについて、「彼にはセックスも性もない、マイケルは無性の人だ」と書いているように、
やっぱりイノセントな人間というのはいつの時代も生き難いもので、
それに比べたら、ピートもこれまでの人生は相当生き難かったでしょうが、それでも、今ああやって元気でいてくれるのは、彼が他のクィアー達と同じように、何より“女性特有のふてぶてしさ”を身につけているからだと思うのです。


あのあっけらかんさ、あけすけさ、動じなさは女性の強みですもの(笑)

それに、カラダはさんざ傷つけていますが、自己を傷つけないところもスバラシイ~
(大概の人間は自己否定して、ストレスを溜め込んでしまいますからね)
私は、ピートのあの、「自分を信じる」ことにブレがないところだけは、誰よりも素直で健全な人間なんじゃないかと思ってます。



だから、ピートは大丈夫。


きっと、お空からステキなインスピレーションを得て、私達にまたあの美声を聴かせてくれる筈
(カラダはついていかないかも知れないけどネ



それまで、待とうではありませんか、皆さん。


私の方も、これからまだまだ、整形話やら自叙伝のその他のエピソードやらでピートの話題をひっぱれそうなので。



ホント、ピートって、ラブリーで飽きない人ですよね




ピート・バーンズ考 1991~現在 【音楽編】 さらに続き

2009-07-06 17:03:38 | ピート・バーンズ
メラニー・サフカ、ナンシー・シナトラ、スージー・クアトロ、ディヴァイン、バーブラ・ストライザンド、ブロンディ、シェール etc・・・。

これらはピートが影響を受けた'60年代を代表するアメリカのシンガーです。
(バーブラやブロンディのデボラ・ハリー、シェールなどはけっこー直近まで活躍してるので、知ってる人も多いはず)
他にも自叙伝にはビーチ・ボーイズとかプレスリーとか男性シンガーのこともちらっとは書いてありますが、彼がページを割いて熱っぽく語ってるのはみーーーーんな、女性シンガーばっかりです(笑)
(あ、ディヴァインだけは元男性か)

そこからディートリッヒやガルボ、モンロー、ジュディー、バルドーなどの彼が文中でよく取り上げてる女優陣にシフトしていくと、おのずとピートが目指した女性像の大体の外観が見えてくるはず。


彼は、まるで数年おきに車を買い替えるように(と、本人が自叙伝の中で言っていますが)
その時々で影響を受けて来た女性達のファッションやメイクや音楽をカバーしています。

そして、その過程で生まれたのがInternational Chrysis。


1990年、『FAN THE FRAME(PART1)』を携え駆け足でジャパン・ツアーを無事終えたものの、その頃にはバンドメンバーは飲んだくれていて、そんな雰囲気の中で仕事をすることを嫌い一人ジムに通っていたピートは、おそらく(ティムとマイクが脱退した理由は書いていませんが)もう、バンドとしてはやっていけなかったんでしょう。

続く『NUKLEOPATRA』を作ったあと、'94年にイタリアのテクノ・ハウス系ユニットGLAMからお呼びがかかり『Sex Drive』のヴォーカルをやり、
(ここら辺、アルバムのリリース年ではなく、実際のピートの活動を順を追って書いています)
翌'95年に件のInternational Chrysisとして、デヴィッド・ボウイの『Rebel Rebel』をカバー。

International Chrysis――彼女は性転換者で、「Hot Peaches」というトランス・グループのリーダー。女装ショーとファッションに大きな影響を与えた彼女の姿はハリウッド大作映画の中にも見られます。
そして、プリシラ・プレスリーは彼女をモデルにしています。

彼女はボビー・ジェントリーのかつらをかぶり、バサバサのつけ睫毛をつけ、タートルネックのレオタードを着、ハンド・カットのベルト、厚手のブラックタイツを履いていました。

そんな彼女の写真は今では入手困難な『The Qween』という雑誌の中で見つけられます。


Who is Chrysis?


『FAN THE FRAME(PART1)』から『Sex Drive』までのピートはこんな感じ↓


まず、これは遠目なのでイマイチわかりにくいんですが、ヘアスタイルといい顔の造作といいおそらく日本での'89ドームツアーのプレステージとか、その後のアフターギグみたいなものではないかと←どなたか詳細わかる方希望

(う~~ん、でも、ピートのバアイ、顔で歴史を追えるとこがコワいです^_^;)



(追記/nakaさん情報によりこれが1990年の『Fan The Frame Tour―Japan』のアンコールのワンシーンであることが判明いたしました。ありがとうございます!
あ、とすると、下の動画は同じツアーの海外編なのかも!?
更なる追加情報を求む~~~!)


珍しく『Turn Around Count 2 Ten』を弾き語りでバラード風に歌っているのが新鮮ですよね~。
私の好きな『Blue Christmas』も声量たっぷり、ムーディに歌いあげていて、説得力があります。
(他に『Your Sweetness~』を歌ってる動画もあり)
この頃のピートは割とスーツスタイルが多いような気がするんですが、後ろを振り返るとあら、可愛らしい!
大きな黒いリボンを髪につけていますね(なんだかオトメ~~


で、次のはちょっと時代が下って1992年のもので歌は『Unhappy Birthday』

場所はちょっと不明ですけど、海外のライヴハウスみたいな感じで、他にも関連動画が三つあり、『Far Too Hard』や『Total Stranger』では椅子プレイ、 『Your Sweetness~』からこの『Unhappy Birthday』ではなんと、ピートの生着替えが見れちゃいます!!
(ま、途中で脱げなくなって人に手伝ってもらってるあたり、あんまスマートじゃないんですが^_^;)




モソモソとセーラーカラーの上着を脱ぎ、バックを紐で結んだだけのお尻丸見えタイトスカートを取って現れたのは、赤いコルセット風のトップスに(ピート、コルセット好きだなぁ)黒のレザーパンツ(と言っても、ズボンではなくマジでおぱんつ)、そして、ニーソックスと手袋にはそれぞれ何やらフサフサしたものがついている、
これまた、まぁ、なんとゆーか、
場末のストリッパーのよーなビッチ感たっぷりのお衣装です
(でも、似合ってるけど
途中、いっしょけんめいおぱんつの不具合を直してたり、後ろがありし日のTバックじゃないのは、多少お肉のたるみを気にしてのことでしょうか(笑)

MCがめっちゃ長くて、ピートの魅惑のヴォイスがいっぱい聴けるのがありがたいし、それ以上に、そのMCの中に「Japanese fan loved me」とか言ってたり、ボーイ・ジョージのことを何やらちゃかしてたりしてて面白そーで、
(ああ~、つくづくヒアリングが出来たらなぁ
その歌い方もタバコふかしながら歌ったり、観客に「S・E・X」とシュプレヒコールさせたりと、けっこーフリーダムなライヴで、ピートのその作り込み過ぎてない、半分物憂げでけだるい色気が満載なパフォーマンスになってます。


でも、この動画や他のもイロイロ見比べてみて思ったんですけど、
面白いのが観客の反応が日本と海外では全然違うんですよね。


海外の客は大体男女半々みたいで、その歓声も野太いヤローの声が多く混じってたりするんですけど(てか、このライヴに限ってはほとんど男!)日本のそれは明らかに女が大半をしめているであろう、黄色い歓声ばっかりです。

そのせいなのか何なのか、ピートのパフォーマンスも海外のは割と“はすっぱ”とゆーか、クールでけだるい感じなのに、日本の時は妙にはしゃいでてオトメっぽくて、

あー、そうそう!
KABAちゃんとかIKKOのよーに「ワタシたち、オンナのコだもんね~、一緒よね~、きゃぴ}みたいな。

そんな連帯感とノリを感じてとっても可愛いんですけど、
こんな風に思うのは私だけ!?
(ピートはメイクのことに関しても自叙伝で一家言ぶちまけているので、IKKOあたりとは気が合うんじゃないかなぁ)

ただ、実際はピートもあまりに海外とは違うあの日本の女子の反応ぶりに、ちょっと戸惑ってたんじゃないかとは思います。
自叙伝を読み込んでいくと、日本人のワーカホリックぶりや慇懃無礼さ、わけのわからんお世辞攻勢に思いっ切り「なぜ???どーして???」の世界だった彼の日本の印象はやはり「不思議の国、ニッポン」だったでしょうから(^_^;)
(それでも、そんな経験も短い間なら大いにけっこうと言っているピートがまた、スバラシイ)



さて、そこからまた時代は下って、今度はイタリアでの『Sex Drive』のライヴ映像です。




ここから、ピート、長年やってきたドレッドヘアをやめてストレートヘアが主なスタイルになっていきます。

このライヴの開催年がわからないので何とも言えませんが、ピートは'92年に初めて唇への人工皮膚を挿入してるのと、元々細面のお顔に痩せて頬がこけてきてたところへストレートヘアにしたもんだから、顔立ちとゆーか面差しがまた変わって、
ちょっとこの辺りから陰影の付き方によってはホラーちっくになってきちゃうんですよね~
(だから、私はピートのこれ以降のストレートヘアが好きじゃありません。
彼には、顔の横の貧相なラインをカバーしてくれる、今までのようなワンレンでボリューミーなヘアスタイルの方がダンゼン似合うと思う。それか、ショートの方がまだマシ!←って言ってもピートはそんなの聞くよーなタマじゃないけど)

踊りもあの厚底ヒールのせいでしょうかねぇ。

また、劣化してるよーな(~_~;)


一連のライヴ映像観てると、あの『Rip It Up』や『Come Home(With Me Baby)』でのピートはよっぽど頑張ってたんだなぁと思わざるを得ません(笑)

まぢ、やっ気ナシです。
(てか、元々こんなんでしたよね)



で、1995年、Chrysisになってからはまた新装開店。
D・ボウイのカバー曲『Rebel Rebel』です。




PVはピートも『EVOLUTION』のライナー・ノーツの中でも絶賛してたよーに、彼のファッションショーみたいでカラフルかつ、サイケな感じがとっても楽しいんですが、私的にはあの『NUKLEOPATRA』のカバーにも使われていた、ミッキー頭がすごーーーーく気になる(~_~;)

あれの意味するところは!?!?
(前回のモーさん柄といい、ピートのセンスはホンット、わけわかめ)

オシャレとか、洗練とか、そーゆー既成の概念を超えた独自の世界が、彼にはあるよーな気がします(遠い目)



で、そんなピートの世界観を'90年代全体を通して強力にサポートしてくれたのが、ジーナという、ある一人の女性コリオグラファー。

ジーナはピートと出会った当時は、テュエリー・ミュグレーのモデルをやっていて、マドンナの『エロチカ』の振り付けや“SEX”とゆー、あの頃日本でもマドンナの無修正ヘアが見れるというので、めっちゃ話題になった写真集の制作に携わっていたこともある女性でした。
ピートは彼女のことを絶頂期のバルドーのようにグラマー美人だと大絶賛してまして、彼のアメリカでのショーの振り付けを彼女に依頼し、わざわざイギリスまで来てもらっているのです。

そして、彼女と組んだツアーの間の2,3年を一緒に暮らしていたそうなので、よっぽどウマが合ったんでしょう。

前回の記事にもちらっと書いたように、この頃ピートはスティーヴ以外の他のミュージシャンと仕事をするのが厳しかったため、以前からやってみたかったというダンスグループとのショーをジーナと一緒にやり出します。

でも、そのアメリカツアーがけっこーピート的にはカオスだったみたいですね。


彼にとってアメリカは憧れの土地でした。

沢山のハリウッド映画、きらびやかなショービズの世界。
色彩のかたまり、信頼と終わりのない光・・・。

なのに、彼のアメリカツアーは『That's The Way』の時も、『Mad,Bad and ~』の時も、いつも悲惨だったよーな気がします。


今回の旅も、テキサス、ニューヨーク、ロサンジェルスなどに行っていますが、

「テキサスでのステージはひどいもんだった。オレは洗濯も出来なかった。
でも、ジーナはこんな風に教えてくれたよ。
『客はあなたの匂いを嗅ぐことが出来ないわ。誰も写真の匂いを嗅ぐことは出来ないの。だから、そんなことぐらいで嘆かないで』」

ピートは案外(失礼!)キレイ好きみたいですね。

スピン・ミーが大ヒットして、ある権威あるショーに招待された時も、ドイツからとんぼ返りしたばっかりで自分の髪が不潔だったため、ステットソン帽(カウボーイ・ハットのようなもの)をかぶって行ったところ、プロデューサーにそれを取れと言われたそう。
でも、ピートがガンと拒否したためケンカになってしまった(笑)

で、取りあえず歌だけは歌ったものの、インタビューを受ける段になって、
「オレは人形に話すことなんかないね」
と言って帰ってしまったとゆー、なんともまぁ、彼らしいエピソードもありますし
また、ピートは(この自叙伝発表当時では)ものすごいプレッシャーの中、世界中を毎晩同じことを繰り返しながらハイキングするようなワールド・ツアーなんか、もうやりたくないと言っています。

「自分専用のお風呂とトイレがマジで用意されてれば、そのショーも長くはなるだろうが」
と言っている辺りも、彼の潔癖ぶりを表してて面白いですよね。


あと、ここまで、ピートを分析してきて改めて思うのが、
彼は自分のビジュアルにしても、音楽にしても、おんなじことをするのが死ぬほどイヤなんだなぁということ。

整形やファッションなんかは一目瞭然なのでいわずもがなでしょうが、
あるステージでピートは興行主にこう尋ねています。

「俺達は今夜、ショー以外のものを何か出来るか?」
それに対して興行主の返事は、
「前の晩と同じように、正確にやってくれ」
というつれないもの。


「すべてが繰り返し。自発性なんか、音楽にはない」


ああ~、彼の落胆ぶりが目に浮かぶようです(~_~;)

(いい悪いは別として)曲のリミックスをやたらやりたがるのも、そーゆー理由だと思えば納得出来ますよね。
そして、こう言い放ってやまないピートが、自分を縛っていたレコード会社から解放されたらどうなるか。



そりゃあ、もう、やりたいホ-ダイさ!!(笑)


なので、ChrysisはDOAとは別物の、ピートが作り込んだ想像上の人物なのです。

Chrysisとジーナが一緒にいた時期がどれくらいかぶっていたかは、自叙伝でもちょっとよくわかりません。
なんせ、ピートの話は時代がよく前後するので(@_@;)
(でも、ジーナが振り付けたというマドンナの『エロチカ』がリリースされたのが1992年で、その後出会って後述のライムライトに一緒に行って、'90年代の後半を一緒にツアーで回っているので、ほぼ'90年代まるまる!?)

で、このアメリカ・ツアーの映像を観たくてYOU TUBEを探してみたものの、私にはザンネンながら発見出来なかったため、その様子は文面だけで想像してもらうしかないのですが、


“彼女”はアメリカ・ツアーで鉤十字がデザインされたサリーを着てステージに立ったものの、ファシストと誤解されそれでそのギグは中止になります。
(ピートは鉤十字をインディアン達のシンボルとして使用したつもりのよう。彼のインディアンに対する思い入れは幼少時の原風景に端を発していて、これが彼のその後の嗜好性の全てを決定しています)
そこで、いたちの最後っ屁のようにお終いのステージでアメリカ国旗に火をつけたもんだから建物は大混乱!

その時以来、“彼女”には最高30人のケーサツがつけられます。
(もっともピートはそれすらもショーの演出の一部にしてしまいますが)

テキサスのホテルではポールによじ登り、旗を全部取ってそれでサリーを作ったり(汗)
ニューヨークではライムライトのショーにお呼びがかかったものの(でも、店のオーナーは最初、“彼女”がピートだとは気付かなかったそう)ステージ上にDOAの立体像のようなものが掲げてあったので、ピートは、
「オレはそれで歌う気はない。下ろしてくれ」
と言います。
すると、オーナーに、
「アンタは自分を何だと思ってるんだ、オンナか?」
と、言われたので、ピートは結局そのままホテルに帰ってしまい、挙句の果てに$40,000の出演料も売れたチケットも全てオシャカにしてしまう。
(Oh,Nooooo~~
その後、我慢出来ずに押しかけて来たファンから逃れるため、何故かピートはジーナのつてでエディ・マーフィの家に避難したりしてます。

この時の自分の格好をピートはこう描写している。

「オレはデボラ・ハリーに影響されつつもそれをもっと進めたような格好――バブルガムピンクのラバー製のジャンプスーツを着て、ヴィヴィアン・ウェストウッドのヴィンテージもののSEXブーツを履き、髪をタイガーヘアのようなドメストでブリーチした不潔なダークブラウンブロンドに染めていた。
そして、爪には白のエクステをつけ、顔はわざと白く塗り、ライザ・ミネリの“キャバレー・ブルー”仕様のアイシャドウをつけ、とんでもない量のグロテスクな化粧をしていた」

「それは、めちゃくちゃ極端だった。
それでも、皆は俺が誰だかよくわかっているようだった」


そんな風に、行き当たりばったりのやりたい放題やっていたピートですが、
途中のニューヨークでは街中でぶっ倒れたり、テキサスでは作りかけだった『FAN THE FRAME(PART2)』のマスターテープを何者かに盗まれ、それがネット上で売られるというとんでもない目にも合っています。

このエピソードに対するピートの罵倒ぶりが凄まじい。
「それは、調子っぱずれのスクラップソングだ。ゴミだ。クソだよ。
オレは、そのハゲタカ、クソ、バカどもと、そいつらが盗んだものに数百ドルも出してそれを買い続けるファンにも憤りを覚える」

うわ~

こんなこと、ピートに目の前で言われた日にゃあ、マジでおシッコちびっちゃいそうです(~_~;)


彼が何でここまで怒ったか。

ピートは'90年代の最後の年にロスのCleopatra Recordからトリビュート・アルバムを作るため3つの曲のカバーの依頼をうけます。
それは、私も大好きで、ピートも大好きだというU2と、プリンスとマドンナの3曲で、でも、ピートはマドンナのことがあまり好きではないらしく、
$35,000というクソったれなお金が欲しかったばかりに(これ、ピートが実際言っているコトバです^_^;)好きでもないマドンナをカバーしたのだとか。

彼は絶頂期以外はいつもお金に苦心してる感じなんですが、
お母様を1987年に肺ガンで亡くしてからは、その後身近な人間にAIDS患者が出てたこともあり、機会があるごとに自分の出演料などを寄付してるんですね。
で、過去にプロダクションにお金を吸い取られたり、AIDSに罹った友人に自前の民間療法を施そうとしたら断られたという体験があるので(ま、これは医療法上仕方ないと思いますが)それだったら、自前の販売ルートでレコードを売り、その売り上げを現金でホームレスやAIDS患者の人達にあげたかった、そう言っています。

だから、不正なルートで金もうけをしたヤツと、それに加担したも同然のファン達に怒ったのです。


そんなこんながいろいろ重なって、権威から自由になってもやはり、彼的には思うように事が運ばなかったのがこの'90年代だったと思います。



まぁ、そうは言っても、悪いことばかりでもなかったんですけどね。



――と、

ここまで来てそろそろまとめに入ろうと思ったら、字数制限に引っかかってしまいました(^_^;)

残りのエピソードとその後のPVは次の回に回します。


ああ~、それにしても、

音楽編だけでこんなにかかってたら、最後を書き終わるのに一体どれくらいかかっちゃうんだろ??



考えるだにオソロシイ・・・
(その内ニューアルバムが発売されちゃったりしてね 笑)

ピート・バーンズ考 1991~現在 【音楽編】 続き

2009-07-02 21:18:10 | ピート・バーンズ
「Oh,God,the Nineties. I think I lost Nineties. I'm not really good on the years - life's just one long year -」

という、ピートの嘆きの言葉から始まる'90年代。


『FAN THE FRAME(PART1)』はそんな年の冒頭にリリースされた最初の一枚でした。


                  

(画像、あんまいいのがなくてスイマセン


これ、本来なら前回のエントリーに入れるべきだったんでしょうが、音楽的に一つの転換期に入ってるのと、ピートの整形が頬へインプラントを入れ、ボトックス注射を打ち始めるという新たな段階に入ってきたのが見た目にもわかり出す時期だったので、敢てこちらに持って来ることにしました。


このアルバムからシングルカットされた曲があったかどうかは、私の調査不足のせいもあるんでしょうが、ちょっと不明。

でも、PVとして残っているのがYOU TUBEで二つ見つかりました。
(あ、そうか。PVが作られてるってことは、シングルカットされたってことかな!?どーも、音楽オンチで申し訳ないm(__)m)

一つ目は『Your Sweetness(Is Your Weakness)』




そして、二つ目が『Total Stranger』
(こちらは映像と音がちょっとずれてます。途中音が途切れるところもアリ)




ビジュアル的にはこれ、すっかり典型的なモンロータイプの女性像ですよね。

どこか焦点の合ってない半開きの目、物欲しげでぽってりとした厚い唇、それを更に強調するかのように存在するつけぼくろ、そして、それに付随するしなしなとした媚態・・・。
これらはある種完成された“女”のカタチであり、一般的な男が欲する普遍的で半永久的な女性像であります。

一体、ドラァグ・クィーンと呼ばれる人達にしてもそうですが、何で彼らが追い求める女性像って、古今東西、皆判で押したようにこーゆーおんなじビジュアルなんでしょ?
(しかも、彼らはそれを更に過剰に演出したがる)

このことに関しては、次の【整形編】にてまた詳しく考察しますが、
ま、ここで一つ言えることは、所詮KY(男)はYY(女)から派生した生き物であるということ。
そして、男にとって女は未来永劫、神秘と豊穣と畏怖の女神であるということでしょうか。

お母様に対するピートの傾倒ぶりは、まさにそれを象徴していると言っていいでしょう。


でも、『Your Sweetness~』の方、あのなりきりおカオでモーさん柄の全身タイツ着てるのにはビックリ!!(笑)

PVのイメージは様々なジェンダーが入り乱れたスワップパーティみたいな感じなので、ああいうわざとはずしたようなファッションって、クィアー達の間ではむしろありがち!?

とはいえ、ピートのセンスには毎回驚かされます



音楽的には、アルバムを聴いていただければ、その違いは一目瞭然、
amazonのレビューでも評価が分かれていて、私もおおむね彼らの意見に賛成なのですが、
今までの攻撃的で力強く、ダンサブルなDOAサウンドが一転して、ナチュラルで明るく、よりメロディアスなサウンドになっており、その一旦は『NUDE』の中にも既に垣間見られますけど、やっぱり女性ヴォーカルをイメージしてしまうくらい、柔らかで軽い印象を受けます。

これは、ピートはどうやら意図的にやったみたいで、
自叙伝の中で、皆になぜダンス・ミュージックをやめたのかと聞かれ、
「“ダンス”ミュージックというものはない。それはただの音楽で、そこにダンサブルなビートを乗せるだけだ。
オレは、何か違うことをしたいと思ったんだ」
と言っています。

果たして、それが成功したかどうかは、このアルバム自体日本でしか発売されてないので、評価のしようがないですが、
私的にはやっぱり、イマイチ。

前回の『NUDE』でも思ったことですけど、一曲一曲の冗長感が更に倍増してるし、ムーディでメロディアスな曲はアルバムの中のスパイスのように一曲ぐらいあればいい。
そうじゃなければ、全曲あの長さであの似たよーナシンセの打ち込み音とメリハリのない曲調は退屈感をもたらすだけで、だんだん聴いてるうちにBGM化してくる


でも、そんな中でも、上の『Your Sweetness~』や『Unhappy Birthday』、そして、ラストの『Blue Christmas』なんかは声に艶っぽさが出てきて割と好きではありますけど。

特に、ちょっと'40~'50年代のシャンソンを彷彿とさせるような、物哀しくも哀愁を帯びた『Blue Christmas』はピートのヴォーカルの新たな魅力が発見出来て、これはめっけモン!みたいな。
『FRAGILE』にもフルサウンドのバージョンが入ってますが、こっちの方がダンゼンいいですよね!!
弾き語りなんかで歌ってくれたらマジで聴き惚れそう~~


あ、それで思い出しましたが、

弾き語りと言えば、上に紹介した『Total Stranger』と『Gone Too Long』を2曲、まさにその弾き語りで歌ってくれてる、これ。




別の動画に多分この時のピートがインタを受けてるものもあるので、本来は一つの番組内で撮られたものなんでしょうが、
化粧控え目つけ爪もなしでスーツ姿の割とストイックなピート様が、あの変わらない声量でムーディかつ朗々と歌い上げてる様はまさに圧巻!


こんな正統派な歌い方も出来るんだぁ、ピート様

って感じで何だかドキドキしちゃいます。

(前回のエントリーで好きじゃないと言っていた『NUDE』も、今じゃけっこーハマってきてて、
特に『I Cannot Carry On』なんか、ピートのあのパワフルな声質を最大限生かした真骨頂の曲じゃあないでしょうか?
で、あのアルバムは“喪失感”をテーマにしたアルバムなんだそうですが、まさに、ポップでありつつもちょっと切なげな歌詞とピートの歌い方が胸に迫ってきて、「Fabulous!!」←これ、ピートがよく使ってる言葉、意味は「スバラシイ!!」)


とまぁ、そんな感じで、
私もけっこーいい加減なので、最初はイマイチでもだんだん聴いてる内に良くなってくるってぇパターンがけっこー多いんです。


ああ~、だけど、

その後にリリースされた『NUKLEOPATRA』と『FRAGILE』の音作りとピートの声だけはどー転んでも好きにはなれないかなぁ


『NUKLEOPATRA』のリリースは前回の『FAN THE FRAME(PART1)』から下ること5年後の1995年。

               


これ、皆さんお気付きかと思いますが、本来の“クレオパトラ(KULEOPATRA)”とは綴りが違いますよね。
実はこの字はピートの造語で、“nuclear”(bomb)―核(爆弾)―と、“patra”―ピーターの俗語である「パトラ」―を組み合わせた言葉なのだそうです。

ピートは、「Nukleopatra - that's me(クレオパトラ――、それはオレだ)」
と言っている。
(なんか、“Dead Or Alive(生か死か)”といい、この“Nukleopatra(核爆弾ピート)といい、彼ってすげー仰々しいネーミング好きですよねぇ^_^;)

でも、このアルバムは前回の日本のエピックからではなく、オーストラリアのソニーからの発売。

え、また変わってるの!?

と思うのも無理はありません。
ピートはその理由を書いてはいませんが、ライナーノーツによると、日本のエピックのスタッフら彼の理解者たちが担当を外れてしまったためだとか。
そのため満足のいくレコーディングが出来ず、結果こんなに期間が空いてしまったんですねー。

で、ご本人はこのアルバム、「I loved it, really loved it, particularly the track 'Nukleopatra'」と言ってるくらい、ひじょーに気に入ってらしてるんですけど、

私的には、サウンドは既にメロディーではなくなっていて、ただノリのいい音をつぎはぎしただけに思えるし、ピートの声すらその機械的な音の一部のようで、とてもじゃないけど一緒に歌えるシロモノじゃあない。
ピートはまさに、そのピーター・オクセンドールの音作りを「ジグソーのような手法」と言ってべた褒めしてますが、私はこーゆーあまりに無機質で人肌の感じられない音は嫌いです。

それに比べると、'80年代の曲はホントに、どれもそのサウンドすら口ずさめるくらい、ユーロ・ビートとは言ってもやっぱりまだメロディアスで、なおかつダンサブルで、しかもピートのソウルフルな声が相まって、それらが渾然一体となり輝いている。

絵画で言えば、筆で描いたもの、筆、コンピューター・グラフィック合わせたものには面白味を感じるけれど、グラフィック・アートそのものは嫌い、って感じでしょうか。
(グラフィック・アートを否定しているわけではありません。
そこから受ける印象が私はダメなのです)


それはピートやマイケル・ジャクソンの顔も同じですよね。

元の自然な造形を否定して、多少手を加えるのはいいとしても、あまりに人工的になり過ぎると、人はそこに不安を感じる。

肉体や感覚がそれを否定するのです。


・・・ま、この話をし出すとまた長くなりそうなので、続きは【整形編】でやるとして(^_^;)


かろうじて好きな曲を上げるとすれば、タイトルの『Nukleopatra』と、『Unhappy Birthday』、『Getting It On』くらいかなー。


そして、だからこそ、『FRAGILE』の中で一番幻滅したのが、セルフ・カバー。

                  


これは、2000年のリリースですが、日本のエイベックスから依頼を受けたもので、最初は彼らの過去の曲全部を再レコーディングして欲しいと頼まれたそう。
でも、それをピートが断ったので、エイベックスが妥協して、新曲6曲と、旧曲6曲の構成になったそうです。
当然日本のみでの発売。


このアルバム、久方ぶりの発売でamazonのレビューを書いている人達の中には確かに前回とは打って変わってピートのヴォーカルとサウンドに力強さが戻ってきているので、絶賛してる方もいますが、

私はあえてここで苦言を呈してやるゾ~~~!!(←ちょっといぢわる)


だって、あのセルフ・カバー!
あの時期のオリジナルサウンドを愛してる私にとっては、あのアレンジは拷問に近いもんがあるんですよ。
『Turn Around and Count 2 Ten』も、『Something In My House』も(私はこれ、『Mad,Bad,and~』の中のバージョンが一番好きだー!!)、『 You Spin Me Round(Like a Record)』も、『MY Heart Goes Bang』も、あの時期のサウンドがいっちゃんハートに響きます!!
なのに、なんで、あんな名曲の数々をわざわざ今風の音楽に作り変える必要があるの!?


私はガッカリしてしまいましたよ・・・


あと、これはリメイクものに限らず、ピートのあの、曲によって女性的になってきた声がもう、何よりダメで、
つくづく私は'80年代の頃のピートの端正なお顔に似つかわしくない、骨太な声とのギャップが好きだったのだなぁと思うのです。

とは言え、このアルバムにはオクセンドールは参加してないし、セルフ・カバーはいただけないけど『Lover Come Back To Me』だけはめっちゃカッコいい!!
それから、『Hit And Run Lover』や『I Paralize』、『Isn't It A Pity』のような新曲に関しては、他の方達も言っているようにかつての明快で力強いサウンドが戻って来てて、サビのインパクトもあってすごく聴き応えあり!!(声も昔のピートに近いし)

これこれ、こーゆー爆発力が欲しかったのよ~~~!!!

みたいな。

しかも、この新曲の一つの『Isn't It A Pity』、
曲のテンポと方向性にまた新たなピートの魅力を感じてもっとこーゆーの聴きたい!!と思ってしまったんですが、
この歌詞がまた、まさに自叙伝のダイジェスト版とゆーか、ピート自身のセルフイメージを実に達観したコトバで書いていてすごーーく切ない!!
これ読んだだけでも、ピートがどんな人生を歩んできて、どんな自分哲学を持ってるかがとてもよく理解出来ます!
(ピート自身、この曲をアルバムの中で最も誇りに思う仕事だと書いている)

ホント、あんな単純な歌詞なのに、こんな奥深い世界を見せてくれるピートってやっぱり類い稀なるアーティストだ~~(>▽<)!!!!
(――って、さっきから褒めたりけなしたり、一体アナタはピートをどうしたいの!?笑)



ま、もちろん、

これはあくまで私個人の感想ですから、人によっては私のこの極端なより好みをただの懐古趣味と笑うかも知れませんね。

だって、その後に出した『EVOLUTION』で健在ぶりをアピールし、サンダーパス&バーンズという名義で出した『ヘッド』という曲が全米のクラブ・チャートでN0.1になるなどしてることからも、これらのアルバムが日本のみではなく、もっとワールド・ワイドに展開されていたら、また世間の評価も違ったかも知れないので。
(本国に至っては、なんと10年以上も新曲のリリースがなかったんですから!)

その、DOAのベスト・アルバム『EVOLUTION』が発売されたのが、2003年。
                  


(スイマセン、画像はDVDのです

これがイギリスでの久方ぶりのリリースで、再レコーディングされた『You Spin Me Round(Like a Record)』が今更ながら全英で23位を記録。
1990年以降に発表された楽曲群は新曲として収録されました。

そして、2004年にはペットショップ・ボーイズがプロデュースした『Jack&Jill Party』をピートのソロシングルとして発表。

この後、彼は世にも名高い顔面崩壊を起こし、何と1年半もの年月と億というお金をつぎ込んで治療生活を送ることになるわけですが、


皮肉にも2006年1月、その顛末を語った『Celebrity Big Brother』の出演をきっかけにピートはイギリスで再浮上。
SONY BMGから再リリースした『You Spin Me Round(Like a Recrd)』が全英シングル・チャート初登場で5位というまさにタナぼたを得て、彼は現在TV界のお騒がせセレブとしての地位を確立しつつあるのです――。


・・・と、

『EVOLUTION』からここまでは駆け足でピートの足跡を追ってきましたが、
なんと、pinokoさんから情報を得、DOAの公式サイトを覗いて見たところ、ピートがここに来て新しいアルバムを制作しているとゆーではありませんか!!!


う~~~~ん、

ピート、マイケルとの愛に敗れて魔法が解けたか!?
それとも、今度はTV業界に愛想をつかしたのか(笑)

クソまみれの音楽業界に戻るは自虐行為か、はたまた昔の夢よもう一度か。
(スイマセン、私もだいぶピートに感化されてきてるなぁ^_^;)

最近、洋、邦を問わずなかなか音楽をフルで聴く機会がないので、流行りすたりがさっぱりわからないんですが、今のあのピートがまた歌を歌うとしたら一体どんな風になるんでしょう!?

いや~、楽しみなよーな、コワいよーな、

フクザツですねー



しかし、あのピートのこと、そんなすんなりアルバムがリリースされるとも思えないし、これは要観察しなくちゃですね!!



――さて、話はこれでおしまいと行きたいところですけど、
よく考えたらここまではほとんど私の感想ばっかりで、まだ『NUKLEOPATRA』以降のPVをいくつかご紹介し損ねてるし、
それに、この'90年代のピートの知られざる活動内容についてもう少し深く掘り下げた方がいいんじゃないかとも思うので、次回はそこに焦点を絞って書いていきたいと思います。

実はピートは'90年代半ばをDOAとしてはほとんどライヴ活動していません。


そこにいたのは、アメリカの小さな場末のステージツアーで、洗濯さえ出来ないことを嘆いていた一人の女性シンガー――名前はInternational Chrysis。
「Hot Peachs」というトランス・グループのリーダーで、性転換者でありました。



もちろん、

それが、もう一人のピート・バーンズ、その人なのですが。

ピート・バーンズ考 1991~現在 【音楽編】

2009-06-29 00:33:27 | ピート・バーンズ
前回のUPから日にちが空いてしまってゴメンナサイm(__)m

コメントにも書きましたが、
思ったよりずっと、ピート様の記事が長くかかってしまったので、一応今回のエントリーを持って『ピート・バーンズ考』を終わりにすべくまとめ的なものにしようとしたところ、思い込んだらトコトンのB型人間、
せっかく手に入れた自叙伝元にせずしてどーするって気になってきてしまい、あれから日夜翻訳サイトと格闘しまして。

しかーーーし、この自叙伝、

昔、学校でガリ版印刷の時によく使われてたわら半紙(うわっ、知ってます?皆さん^_^;)にカバーをかぶせただけのよーな、その作りのチープさもさることながら、
ピートの写真なんて16ページしか載っていない(が、しかし、ピートの子供の頃のや、唇が腫れた写真も載っていて、かなり興味深い)それ以外は全編文字だけがぎっしり並ぶ、300Pにも及ぶシロモノで、
キーを打つために両手使わなけりゃいけないから、本を思いっ切り開いて作業してたところ、も、はや、綴じ部分が割れて来た


で、おまけに、ピートの文ってちょっとクセがある感じで(いや、他の英文訳したことないからわかんないんですけど)
本の冒頭に出版社からのコメントが載っていて、それは割とすらすら訳せるのに、何故かピートの文を放り込むと訳がむちゃくちゃになるよーな??(笑)


それを、こっちで単語をまた一つ一つ訳しながら文を繋げてってゆー作業を繰り返してるので、ヒッジョーーーーに疲れるんです(@_@;)


ホント、つくづくもーちょっと英語勉強しときゃあ良かった。


でも、その間にも、思いの外皆さんからコメントをいただいたりして読んでると、そのピートのビジュアルの、当時との余りの変貌ぶりにガクゼンとし、じゃあ、一体ナゼ彼はあんな風になったの!?っていう、疑問がわいて、それからもっとピートのことが知りたくなる、その心理的プロセスが私とおんなじなんだぁって、
嬉しくなっちゃって。


なので、本来ならあの自叙伝は然るべき訳者が翻訳して、世間に広まった方がよりピートが誤解されなくていいように思うんですけど、
いかんせん、ここまで読み進めてくると、


う~~~~~ん、


これは・・・、ちょっと・・・、どーよ!?


この単語や文って・・・、一般に訳してええモンなの!?!?



とゆー、


翻訳するに当たって一番モンダイになる、“検閲”を、クリア出来そうにない文がいっぱいある本だということがわかってきた。
(いや、もしかしたら、他の人にとってはそうでもないかも知れませんけれど)

でも、多分、この自叙伝はそこを削っちゃうと、私達が一番欲しているピートのパーソナリティや赤裸々な真実そのものが損なわれる可能性が多々あるような気がして、
それなら拙いながらも私が訳したものを、おおまかながらもここでご紹介して、それをとっかかりに皆さんにも興味を持ってもらえたら、それが各自で訳してみるきっかけにもなるかも知れないし、また、私の訳の間違いを指摘してくださる方も出て来られると思うので、
そうして最終的には、彼の人となりやDOAとしての歴史の全貌が明らかになれば、それはそれでいいことなのではないかなぁ~と。



――なんて、

エラソーなこと言ってスイマセンm(__)m



てかね、

要は、ピートの文は面白くてハジケてるってことを言いたいだけなんですよ(>▽<)!


も、ホント、あの当時伝え聞いていた性格まんまの語り口で、私、訳してる内に翻訳で期待通りの訳が出ないと、
え~~、こんなお上品な言い方ピートしないでしょ~~!?
って、笑っちゃうほど彼の考え方と喋り方に毒されていってる自分がいるんです。


だから、ここでは、なるべくそのニュアンスを伝えられたらいいな、と思って。

皆さん、よろしいでしょうか?




とはいえ、

(と、勝手に進める

1991~現在なんてほぼ20年近くのヒストリーをいっぺんに書くのはさすがに無理があるとゆーか、どっからとっかかりをつけていいか悩むので^_^;

取りあえず、今まで通りこの時期にリリースしたCDについての感想と、整形の顛末、自叙伝に関しての感想を3回にわけて書こうかと思います。


あ、その前に一つ訂正を。

コメントを下さったpinokoさんのご指摘により、『Come home(with me baby)』のライヴ動画が初回UP時は“ロンドンライヴ”と書いてたんですが、東京ドームのものらしいことが判明。

てゆーか、私も最初はそうだと思ったんですが、ナレーションの男の人が「ロンドンから」って言ってるので、てっきりロンドンライヴだと勘違いしてしまったんですね(~_~;)
あれ、「ロンドンから来た、DOA」とゆー意味だったんでしょう。

皆様には混乱を招いてしまい、まことに申し訳ありません。

ここに、お詫びして訂正させていただきますm(__)m
(ちなみに記事の方はもう、変更してあります)




――では、続きをば。

前回『NUDE』でSAWと決別し、次の『FAN THE FRAME(PART1)』でとうとう所属レコードエピックとも関係が気まずくなったしまったDOAは、その後の活動域を大幅に下方修正せざるを得なくなっていきます。

その原因については、ピートは自叙伝の中でもはっきりと語ってはいません。
SAWのことに関しては理由らしきものも書いてありましたが(これ、私はピートのあまりの不器用さに笑ってしまった)エピックとのことについては、どーかなぁ~。

今後真相が語られる機会はないように思います。
(なぜなら、ピート自身が現在の自分を取り巻く状況に満足していて、「今が良ければ過去は問わない」と言っているから)


けれど、DOAとエピックは、そもそもその契約初期からあまりいい関係を築けていなかったようです。

ここでちょっと過去をさかのぼってみましょう。


1982年当時、既にDOAとしてリバプールのクラブで知る人ぞ知る存在だった彼ら。
(ピートに言わせると、「俺はヘンなところで有名だった」そうでありマス 笑)

その頃に、彼らに近づいてきたレコードレーベルが3つありました。

アイランド・レコード、ヴァージン・レコード、そしてエピック。

でも、最初のアイランド・レコードはデモ・テープを作らない彼らにデモ・テープを要求してきた。
ヴァージンは既にこの時、Culture Clubとサインしていたにも関わらず、ピートを品定めにやって来て、「痩せたら契約してやる」とか何とか言ったとか。
(えっ!?ピートってあの頃そんな太ってたっけ????
どっちかとゆーとボーイ・ジョージの方がまるまるしてたぢゃん!
↑とゆーわけで、ここら辺もしかしたら訳が違ってるかも知れません
誰か検証してクダサイ

ただ、もう、この頃から既にピートとボーイの因縁が始まっていたと思うとなかなか興味深いですよね。

トーゼン、ピートはヴァージンをハナから無視。


で、ここで、彼はあることをします。
「オレは自分を見せ物にするのをやめた。オレにとってそれは、ヤツらに好きなだけヤらせて、次にそいつらが戻って来た時金を払うかどうか決められる売春婦のようなものだったからだ」
と。
そして、自分に会いに来るには、例えレコード会社でもちゃんと金を払ってギグを観に来なければならないようにするんですけど、
ここら辺、もー、いかにもピート!!って感じで笑っちゃいますよね~(>▽<)


そこで釣れたのが、エピックだったのです。

当時のささやかながらも割と便利だった生活環境に充分満足していたピートに、彼らは契約条件として、10枚のアルバムと前金で35,000ポンドを用意しました。
(ところで、1ポンドって、日本円に直すとどれくらいなんでしょ?^_^;
もちろん、この頃のピートにとっては、それは間違いなく大金で、彼は「まるでミリオネアになったような気分だった」と言っています)


それは願ったり叶ったりの条件だったのでしょう。
彼は、わずかなシングルとアルバムだけを発売するような短期契約よりも、自分達が進化し成長する時間をくれる長期にわたったチームが欲しかったと言っているので。

こうして、彼らは1982年の夏にエピックと契約を交わします。

でも、これはレコード会社に限ったことではないですが、
大手の会社と契約を交わすということは、即ち、それだけ多くの制約を受け、自由を奪われるということを意味します。


エピックは本当はCulture Clubが欲しかった。

ところが、彼らは先にヴァージンと契約してしまっていた。
エピックにとってはDOAは彼らに対する対抗馬のようなものだったのでしょう。
何とかピート・バーンズという暴れ馬を調教しようとして、あらゆる駆け引きに出てきます。

DOAだけで作った曲にダメ出しをし、エピックご推薦の手持ちのコマをさも得意そうに与える。
ビデオにケチをつける。服装にもクレームを入れる。

そして、ドサ回りに近いアメリカツアー。

こっちの言うことを聞かず、勝手に動いた行動にかかった費用は一銭も出さない。自分達が決めたものにだけ大々的なキャンペーンを張るetc,etc...。


ここまででも、けっこー噴飯モノですが、あの我の強いピート様が権威主義にやられっぱなしなんて、そんなことアリ!?と思っていたら、ちょっと痛快なエピソードがありました。

ピートは、エピック側が用意した音楽関係者のゼウス・Bという男性と“ドイツ”という共通項を介してすごく仲良くなり、『SOPHISTICATED BOOM BOOM』を彼と一緒に作るわけなんですが、そのアルバムを作っている間は決してエピックの人間をスタジオに入れなかったんだとか。

まるで、子供のよーな“仲間ハンゴ”をやってたわけですね(笑)

自分の思い通りの奏者やバックコーラスも手に入れ、毎日が笑いと喜びに溢れてた当時、ピートは後で振り返って、「この頃がオレの人生で一番幸せだった」と言っています。
(けれど、彼はこの後、「愛してた」とまで言っているバンドメンバーの一人、ウェイン・ハッシーから思いもよらない裏切りを受けるのです)


・・・何だかちょっと切ないですね


話を元に戻しましょう。

後にDOAと共に名声を馳せることになるSAWにしても、
ピートがいろいろ苦労してやっと探し出して来たにも関わらず、エピック側は彼らをSAWとは認めず、あげくの果てに資金も出してもらえない。
結局銀行から2,500ポンドをローンまで組んで借りてやっと作ったあの、『You Spin Me Round(Like a Record)』をクソミソにけなされます。
(ホント、先見の明のない

そして、エピック側は、
「もし、そのレコードがヒットしたら、アルバムを作ってやろう。
アルバムがヒットすれば我々は成功を手に入れられるが、ヒットしなければ、それは時間のムダになるだけだ」
と言い、さらに、

「ところで、我々はそのカバーの写真を決めることが出来るのか?」

と、カバーにピートを使いたがらなかったというエピック側のこれらの発言を読んだ日にゃあ、あたしゃー我ながらバカみたいに腹立ったんですが、

なんと、エピックの悪行はこれだけに留まらず、
(も、アタシの中ではすっかり悪役になってる^_^;)

『You Spin Me~』のPVすら作ってくれなかった!!!




ああ~、なんて憐れなピート様!!

どうしてもレコードをリリースしてほしくて、耐えて忍んで自腹を切ってここまでやってきたのに。

けれど、結果はご覧の通り『You Spin Me Round(Like a Record)』はシングルとして最も長くNo.1に君臨していたとして、当時のギネスブックに載るほどの大ヒットを飛ばすことになります。


しかし、それでもその後のエピックの締め付けは相変わらずで、
ピートがブルーのコンタクトをつけるのにも反対するわ(でもこれ、本の中ではブラックと書いてあるんですけど、あれはどう見てもブルーですよねェ?)
『NUDE』のカバー写真にも文句をつけるわで、
こうして見てみると、ピートがエピックにいて彼の自由になったことなんて何一つなかったんじゃないでしょうか。


――思うにエピックはピートの足元を見てたんでしょう。
そして、もっと思い通りになると踏んでた。

ところが、案外ピートの方の我が強くて手に負えないじゃじゃ馬だということに気付き、それでもう、放置した、みたいな。

そこには大手特有の軽い侮蔑と傲慢さがあります。


でも、ピートの方もけっこー辛辣で、
「音楽業界の中でやっていくには、基本的にバカじゃなきゃならない。明らかに、そこでやっていくには忍耐強さが必要だし、会社がてめえの前に置くハードルを乗り越え、くそいまいましい雑誌にたわ言を繰り返さなければならないのだ」

なんて言ってる(笑)

もちろん、これはエピックのことだけに限ったことではなく、自叙伝を読むと、ピートはもう、音楽業界自体に嫌気が差している感じで、「ポップ・ミュージックはa pile of shit(大量のクソ)だ」とか、「創造的なアーティストなんか、どこにもいやしない」とまで言ってるくらい、
彼が今までのDOAとしてのキャリアにおいて、いかに過酷で不自由な思いをしてきたかは、それこそ私達素人には計り知れないものがあったんでしょうが、

ただ、これはあくまでもピートだけの見解であり、
中にはそうでない例だっていっぱいあるわけです。

'90年代にピートがロンドンのクラブで遭遇したというプリンスだって(彼も大概カゲキなパフォーマンスと世界観で有名ですが)大手のワーナーと6枚のアルバム契約した途端、表現に規制がかかって思うような音楽が作れなかったそう。
だけど、彼はその契約を消化すべくとっととアルバムを作って、それから去っていった。


一方、ピートの方はというと、10枚のアルバム契約を持ちながらも結局エピックから出したのは4枚だけ。
『FAN THE FRAME(PART1)』は日本のエピックから、続く『NUKLEOPATRA』はオーストラリアのソニーから、そして『FRAGILE』はこれまた日本のエイベックスからとそれぞれ別のレーベルから出している。

そして本人が、ティムとマイクがバンドを脱退してからの'90年代は他のミュージシャンと一緒に仕事をするのが難しかったと言っているくらい、
私としては、多分、ピート自身にも多いに関係を悪化させる原因があったのだろうと思っています。

まぁ~、

自叙伝読んでも、至るところでそのかんしゃく玉のよーな性格を発揮してらっしゃるピート様なので?
あの、自分の信念を曲げず、すぐ感情的になって場をブチ壊してしまうKYな性格はお母様譲りなのかしらん
そのくせすごーく洞察力があって、物事の根っこを掴んでいるその考え方やそれを包み隠さず露わにしてしまうその姿勢は、やっぱり彼をどうしても周囲から浮かせてしまうだろうし、きっと周りさぞもやりにくかったんだろうと思います。
(本人はそれを周りのせいにすればいいだけなので、案外ラクだったかも。
とにかく、ピートの辞書には“反省”とか“自業自得”とかゆー言葉は一切ないのだけはよ~くわかりました^_^;)


でもね、

自叙伝を読み進めていくと、決してそれだけではない、ピートの魅力がわかります。
それに関しては、また後日、【自叙伝編】にてお伝えする機会もあろうかと思いますので、ここではやめておきますね。
(お楽しみは最後まで取っておきましょう~


――結局、エピックはピートとはそりが合わなかったのだと思います。

本国で彼をサポートしようというレーベルが現れなかったことも痛かった。


そして、DOAとしての通算5枚目のアルバム、『FAN THE FRAME(PART1)』は、ティムとマイクが脱退した後、音楽研究家のピーター・オクセンドールを迎えてのリリースとなるのです――。

ピート・バーンズ考 1988~1990 続き

2009-06-11 09:58:13 | ピート・バーンズ
SAWが抜けて初めてのセルフ・プロデュースとなった『Nude』。

自叙伝によると、ピートはこの時かなり喜々としてアルバムの制作に当たっています。
そりゃあそうでしょう。
自分達の思い通り、好きなように編集作業が出来るのですから。

案の定、ピートは自画自賛。
『You spin round』よりもいいものが出来たと胸を張っていますが、
私個人としては、残念ながらDOAの中でのBESTにはなり得ないかも。


元々、DOAサウンドでなければ、ユーロ・ビートはそれほど好きではない私。
ヴォーカル自体、U2のボノとかボン・ジョビのジョンとか、骨太でソウルフルな声の方が好みだし、オシャレなダンス・ミュージックよりはゴスペルの力強さの方が断然ハートに響く性質(たち)なので、
今回の『Nude』のような音作りとピートの歌い方はどーもいただけない。

『Mad,bad,and dangerous to know』以前のDOAの音を知らないでこれを聞いたなら、なるほどスマートで軽快なサウンドとしてもっと素直に聴けたのかも知れません。
でも、私がピートに求めるのはこんな耳障りのいいソフトで口当たりのいいデザートのような音楽ではなく、もっと毒もアクもぶつけたとてもじゃないけどBGMとして聴き流せそうもない、一度聞いたら魂をわし掴みにされてただただその声とサウンドの妙味に酔いしれる、そんな音楽が聴きたいので、

だから、申し訳ないけど、
これだったら、『Turn around & count 2 ten』と『Come home (with me baby)』以外は別に他のヴォーカル――いっそのこと女性ヴォーカルにでも歌わせた方がよっぽどいいと思ってしまった。
おまけにやっぱり編集に難ありとゆーか、一つ一つの曲にメリハリがなくて冗長すぎるから聴いてて飽きるし(別にSAWがいた方が良かったとゆー意味ではないですが)
あと、インストもいらない。ピートの声が入ってないなんて詐欺だ!バカ!!


(なんつー、けなし方。ごめんねぇ~、ピート様


ただ、もちろん、これはあくまで私個人としての感想だし、
プロデューサーが抜けたり変わったりして、アルバムごとに曲想やコンセプトが変化していくのはどこのバンドでもあることなので、DOAにとってもその過渡期に入る行程だったのだと思えば、単純にこの“作り”は気に入らないってだけのお話なんですがね。


けれど!

これが、PVのハナシになると、ガゼン私の気合いの入れ方も変わってくるんですよ~~(>▽<)!!!


というのも、以下に紹介するPVはそのピートの神がかり的な美しさもさることながら、ビジュアル的にもショッキングで、ある意味日本のディスコ・シーンにとってのエポック・メーキング的な要素がてんこ盛りだからなのですが(ちと、大げさか!?

私的には、もう、オイシイとこばかりで一日一回は必ず観てしまうシロモノでありますので、ゼヒ皆様にもご堪能していただきたく。



まずは、問題の『Turn around & count 2 ten』
(よーやっと共有リンクの貼り方マスターしました


PETE BURNS & DEAD OR ALIVE "TURN AROUND & COUNT 2 TEN" (12")



ライナー・ノーツによると、
この『Nude』の制作に当たってだいぶ神経を使ったらしいピートは、当時かなりやつれていたよう。

PVでも頬がこけているので、整形抜きにしてもまたご面相が変わっていますよね。
髪はちりじりのドレッドヘアーをさらにウェットにしたよーな感じで、いつの間にかモンローやマドンナと同じ唇の右上につけぼくろまでつけている。
(ここら辺、わかりやすいなぁ、ピート様)

で、アルバムの中だけだとあの攻撃的で機関銃のような咆哮や力強さがすっかり影を潜めているから、なーんか物足らなーい(ー0ー)と思っちゃうんですけど、
PVを観ると何てことはない、
そこにはいつもの、火のようなエネルギーをぶつけ、悪魔的で確信犯的な微笑みを見せる魅惑のピート様がおわします

いや~、安心しちゃった


これでこそ、ピート様(*^_^*)


そしてそして、PV中に見せるあのお姿は!

彼にしては珍しくカラフルでかなり大胆なカットの入ったお衣装をいろいろ着ているピート様ですが(でもグリーンの衣装はイマイチ似合ってない)

そっちよりも!!

胸から下だけの黒のコルセットを身にまとい(つまり乳首丸見え)肩からは同じく黒のボレロをはおり、ボトムはおそらく黒のパンツにニーハイブーツだろうけれど、パッと見ボディコン風のワンピに見えるあのスタイルで、髪はワンレン、黒のおっきな扇子まで持ってるあのスタイル!!

皆さんもどこかで見たことあるのでは!?


そう、あの時期一世を風靡したジュリアナ東京でのお立ち台ギャルです!!!



ええ!?

だって、ピート・バーンズって男でしょ!?


オトコがオンナのファッションスタイルのモデルになるなんて、アリ!?!?


・・・アリだと思います。


あのピート様を見たら。


私は確信いたしました。

これがプロトタイプだったに違いないと。


だって、先にも書いたように、この曲は日本の洋楽オリコンチャートで17週にも渡って1位だったんですよ?

てことは、ほぼ4か月です。

そのほぼ4か月の間、TVにはこのPVが多分ガンガン流されてた筈なんですよ!

としたら、どこぞの目立ちたがりギャルがあのピートのカッコをマネしたとしてもちっとも不思議ではないでしょう???

それくらい女装してるピートってインパクトあるし、色っぽいんだもん。


その他、このPVには『Nude』のジャケットと同様、Tバック一丁になった文字通りハダカに近いピート様が出てきてお花いっぱい浮かべたバスタブに浸かったりもいたしておりますが、

その映像よりも何よりも、扇子持って微笑むピートの方がダンゼン印象的で、

後の見せるパンツ、略して“見せパン”の登場も次の夜ヒットでのピート様が発端だったんだろーなぁと容易にソーゾーがつくくらい。




これ、私、当時リアルタイムで観てたかな?

画質がちょっと悪いのでアレですが、


かなりアブナイですよね~~(~_~;)


てか、混乱しますよね!!(苦笑)

だって、顔はオンナで着てる服もボディコンワンピにチェーンベルトを腰に巻き、黒のロングブーツはいてどっからどー見ても女なのに、よくよく見ると胸はぺったんこで声も太い。

おまけに歌ってる内にどんどんワンピの裾がずり上がってきて、もっこりおぱんつが丸見えとあっちゃあ、

よくぞあの当時放送禁止にならなかったなーーと思うくらい、
(ま、生放送だから禁止にしようがなかったんですけど^_^;)

エロさと気恥ずかしさといたたまれなさで脂汗だーだーみたいな



いや~、あれで、当時の女性の倫理観がほぼ崩壊したでしょうね。


とゆーか、対抗心?

オトコごときにあそこまでやられて、モノホンのオンナが黙って指くわえて見てられるかい!

みたいな。
(ちょっとうがちすぎかなぁ?)


ま、でも、

そんくらい扇情的でインパクト大な映像でありました。
(私はこーゆー常識・タブー一切無視!!みたいの大好きですが)




そして、お次は『Come home(with me baby)』




先の『Turn around & count 2 ten』と同じような作りで、
男性風(?)なピートと女性風(?)なピートの2パターンが交互に出て来て、ダンサーと一緒に踊りまくるんですが、そのカットが目まぐるしいもんだから片時も目が離せない!!

そして、ここでもピート様はこの時期お気に入りのアイテムだったのか、前述のムネ出しコルセットをつけておられます。


・・・あれ、でも、ちょっとヤバいですよね


ハードロック風のギタリストが上半身裸で出ててもどうってことないのに、
あの胸から下のコルセットつけてるってだけで、どーーしても目がそこに釘付けになっちゃう(苦笑)


あれは、きっと、わざとなんだろーなぁ(~_~;)


だって、あの頃普段着でもそーゆーの着てるし、次の東京ドームライヴPVでの衣装も乳見せ別バージョン衣装なんだもん。
(でも、ピンクと紫が素晴らしく似合ってる~~~


思うにピートって、自分のことを(性的には女性化してたんだろーけど)ビジュアル的にはどっちにも確定したくなかったんじゃないかしらん??

これ以降、顔はどんどんオンナの象徴みたくなっていくのに、体だけやたらマッチョ化してみたり、未だに性転換もしてないとこ見ると、トランスセクシャルとまではいかないけれど、単純にトランスベスタイトとか、トランスジェンダーの枠にははめられない身体的表現の自由を追求したがってるとゆーか――。

ま、ただ単にカテゴライズされるのを嫌がっただけなのかも知れませんけどネ。


それより、このPV観て皆さん驚きませんでしたか!?

私は大いに驚きました!!


だって、このPVの中のピート様、めっちゃダンスが上手くなってるんですもん!!!
(でも、本人比ですけど



キリストをモチーフに描かれたGジャンにシースルーのタンクトップ、デニムのハーフパンツにシルバーアクセをジャラジャラ身につけたちょっとハードなオトコ版ピート様に、前述のコルセットにフリンジのついたロング手袋と同じくフリンジいっぱいのパンツスタイルでまるでディーバのような妖しさと華やかさでダンサーの上に君臨するオンナ版ピート様が、

も、めいっぱい練習しました!!!(笑)

ってぐらいのキレと技で私達の前にダンスを披露してくれてて、めっちゃカッコイイ!!!!
(でも、あくまで本人比。マドンナあたりのヴォーグに比べたらシェイプ度と洗練度が全然違う


いや~、でもね、

『My heart goes bang』のTVライヴで思いっきりぎこちない踊りを披露してた頃に比べれば、このピート様はまさに奇跡みたいなものですよ

サウンドもアルバムのそれよりはアレンジとギターが利いてて、すごーく聴きごたえあるし、ピートの声もフルパワー全開で鳥肌モン!!


DVDのライナー・ノーツで本人も語っているよーに、このPVを作る頃には既に自分を取り巻くあまりの手かせ足かせ状態にヘキエキしていて、
「そんな状況の中で自分らしくいることが認められないのなら続けていく理由なんてないだろう?」
とまで言っていたピートが、『Come home~』ではとても自由に現実と決別している。

とにかく、『Something in my house』の硬質な美とはまた違った、妖艶かつエロティックな美をこれでもかと放っていて、も~~、おめめクラクラしちゃいます


下の東京ドームライヴPVでは、そこに女王様然としたゴージャス感も加わって、まばゆいのなんの!!





ちなみに、DOAは1989年の10月初旬に2回目の来日を果たしております。

前座にシニ-タとカイリー・ミノーグを従え、上の東京ドームも含めて、名古屋はレインボーホール(今のガイシホールですね)での1回を皮切りに、東京ドームで1回、大阪城ホールで2回のライヴでした。
(この時の映像がこれだけなんて寂しいですよねぇピート、どっかにビデオでも残してないのかしらん!?)


ビジュアル的にバランスが取れてたのは、この辺りまででしょうねー。


男性性と女性性が渾然一体となった奇跡のような“美”を放つピート様。
(ただ、正直ここまで洗練されてくると、あの『Rip it up』の時のよーな猥雑さがちょっとなつかしくもなってしまう。あれこそピートの真骨頂だと思うので)


でも、顔の造作的には本人にとってはまだまだ不満だったらしいです。

この後のピートは自らの追い求める完璧で理想的な“女性像”に向かって、整形界でもその当時まだ未知の方法だった、ポリアクリルアミドなる、悪魔の注射を唇に打ち始め、
そして、DOAとしても所属のエピック・レコードと決別し、一時的な開放と自由を手に入れたかのように見えますが、本当の“自由”とはそもそも厳格なルールの中でこそ謳歌出来るもの。


自叙伝でも自ら[The naughty nineties(イケてない'90年代)]と書いているように、1990年以降、DOAは石コロが坂を転がり落ちるように暗黒の時代に突入するのです――。


ピート・バーンズ考 1988~1990

2009-06-09 14:19:10 | ピート・バーンズ
よせばいいのに、

一つのことにハマりだしたらとことんまで追及しないと気が済まない私は、結局あれからピート様の自叙伝を買っちまいました(^_^;)
(英検4級しか持ってない、英語難民のクセに。
なので、今必死に機械翻訳と格闘中


てか、ここではたと気付いたんですけど、
昨今は情報収集しようと思ったらアッとゆー間に出来てしまうのが、ある意味コワいですねー。

昔はそれこそ何かを集めようと思ったら時間もお金もかかったし、それでもレアなものは入手出来ないことも多々あったから、もっと長いスパンで集めるかいい加減諦めるってことも出来たけど、
今や1週間もあれば大概のものは手に入るし、動画や部外コンテンツなどもPCで簡単に検索出来ちゃう。
しかもお金は必要最低限で済むとあっちゃあ、私のよーなハマりやすいB型人間には返って諸刃の剣かも。

大輔くんの時もそうだったけど、収集のメドが一息つくまでののめり込み方がハンパないんですもん!
自分でもいい加減この辺でやめとけばいいのにって思うんだけど、

ダメですね~。
(おかげで私の健康状態、今メチャクチャ

で、ピート様は今、こんな状態です←お花畑



そのピート様、

ここまではある意味サクセスストーリーでしたよね。


『You spin me round(like a record)』が世界的ヒットになったおかげで、バンドとしては比較的早くメジャーになり、そのピートのある種過激なビジュアルとダンス・ミュージック界においてのカリスマ的人気で一躍スターダムにのし上がって。


では、ここでその絶頂期だった頃のピート様の燦然と輝くお姿をちょっとおさらいしましょー
(これは今回の記事の時代とも少しかぶってます)

Pete Burns Pictures 1986-1989


はう~、溜息もんですね~~

この辺りからのピート様はより露出度を高め、より妖艶かつ、女性的になっていくのですが、

例えばこーゆーの。

    


・・・ああ、いかん、いかん!

また見入ってしまう(×O×)


も、ここまで来ると、カオだけなら女にしか見えないですよね~
(余談ですが、ピートって、写真やPV見ると、ほとんどが右向きの顔―つまり向かって左から撮った顔しかないんですよ。どこぞの女優みたく多分そっちから撮った方が綺麗に見えるとゆー理由なんでしょうが、あんなにシンメトリーな顔、どこから撮ったって美しく見えるのにねー。
ピート様らしいこだわりでした

多分、外科手術的にはアゴとか頬骨あたりを少しづついじってるとは思うんですけど、メイクもそれまでのアイラインを強調したそれとは打って変わって、より細眉でナチュラルなメイクに変わってるので繊細でヨーロッパ的な頽廃感漂う、ミュシャあたりのアール・ヌーヴォー絵画の中に出て来る女性像のよう。

私的に受け付けるのはここまででかなぁ。
(でも本人的に目指したのはモンローやジュディ・ガーランド風な肉感的な美女みたいです。
これが行き過ぎて後の顔面崩壊を起こすんですが^_^;)

右上のも含めて『Nude』のジャケットは文字通りのヌード姿。

じゃーーーん!!

    


ピート様ってば、薔薇が似合うわぁ~~


ところが、このジャケットも自伝読むとひと騒動あったみたいでしてね、

本国ではこのカバーのピート様がハダカだからダメ!!ってことでプロダクションからそーとーお怒りを受けたらしく(ここら辺、ピートは「オレはハダカじゃない、ちゃんとぱんつ←ここ、意訳、をはいてるぢゃないか!!とかなりこだわっている 笑)
で、最終的に写真を変えるか、アルバム自体を撤退させるかどちらか選べと言われたそう。

でも、「I was adamant(オレは頑固だった)」ピート様は結局カバーを変えず、アルバム自体を撤退させてしまった。


う~~~ん、

らしいわぁ、ピート様。


ところがところが、
皮肉にも、これがまた日本ではバカ売れしてしまうんですよね~。


最初にシングルカットされた『Turn around & count 2 ten』がなんと!日本のオリコン洋楽チャートで17週連続(ゲッ、ありえない!)でNo.1を獲得!!




この数字だけ見ると、DOAの威力未だ衰えず!って感じなんですが、

ただ、このアルバムが今までのアルバムと一線を画しているところが一つあります。


それは、『YOUTHQUAKE』からアルバム作りに参加していた、名プロデューサー・チーム、ストック/エイトキン/ウォーターマン(略してSAW)がこの『Nude』から抜けていること。


DOAが成功した大きな要因の一つが当時、同じく無名であったにせよ彼らを経てその後超有名になったこのプロデューサー・チームであったことは、DOAファンなら周知の事実。
そして、そのSAWが後にプロデュースして同じく成功したアーティストには、カイリー・ミノーグ、リック・アストリー、バナナラマ(!懐かしい~~)などがいて、彼らは音楽業界におけるポップスの躍進に一大貢献している存在として、今でも各所で絶賛されているのですが、私的にはそこまで音楽通でもないのでよくわかりません。


わかっているのは、そのSAWがDOAとして実質通算3枚目のアルバムとなった今回取り上げる『Nude』には参加しておらず、これが彼ら自身初のセルフ・プロデュースによるリリースになったということ。

その理由に関しては、『デッド・オア・アライブ バイオグラフィー』によれば、時流に即した商業ポップスを作りたかったSAWと、あくまでハイ・エナジー路線にこだわったDOAが、お互いの方向性をすり合わせることが出来なかったためらしいですが、

ただ、ここで興味深いのは、
『Nude』のライナー・ノーツによると、DOAは彼らと手を組んだ当初から既に楽曲をほぼ完成させていたらしく、SAWは“良きアドバイザー”としての参加だったようで、ウォーターマン曰く「彼らは僕たちの演奏で歌わない唯一のアーティストだった」そう。
ということは、SAWがいなくても、DOAとしての力量はあらかじめ備わっていたということ、そして、更に私に言わせれば、いくらあの当時のあの音作りがユーロ・ビートのさきがけだったとしても、それをヒットさせるだけの力と魅力を与えたのはピートのあのヴォーカルがあったればこそだったと思うのです。

であれば、ピートが次からは自分達だけの力でプロデュースしてみせる!と思ったとしても無理のないことだったと考えられます。


そして、本国ではクソミソに言われながらも、日本におけるDOAの一大旋風を巻き起こした事実は、ピートにとってどれほど誇らしく重大なことだったかは、自叙伝でピートが日本ことについて、わざわざ“huge in japan”というお題でワンコンテンツ割いてくれてることを見てもよ~~~くわかるのです(泣)
(でも、ちょっと皮肉っぽい文もありますけどネ^_^;)


ところで、ここで長らく疑問だったことが。

先にもちらっとは触れましたが、では一体なぜ、本国イギリスではロクな扱いをされなかったDOAが、日本でこれほどウケたのか???

というより、あのPete・Burnsという超キョーレツな個性がここまで熱狂的に日本に受け入れられたのは、一体どうしてなのか。


音楽的にはあの当時、バブル真っただ中の日本において、DOAの力強くノリノリイケイケのビート感があの時代にピッタリマッチしたのであろうことは容易に想像がつきますよね。

でも、それとは別に、
明らかにあのピートのゲイとしてのパーソナリティを、イギリスは忌み嫌い、日本ではむしろ歓迎していた(?)風なのはおそらく、ピートも自叙伝の中で歌舞伎や日本人の両性具有への寛容さ、抑圧された同性愛の底流があったことなど、かなり含蓄あるお言葉を述べていてびっくりしたんですが(かと思やぁ、大人のオモチャやラブホについても面白がって語っておりましたけど^_^;)
日本の芸能及び風俗文化と、精神文化の中にそういうものを受け入れる器が既にあったからで、
そういう意味ではピートにとって日本はとても興味深い国に見えたことでしょう。

(てか、自叙伝の中でピートのヤツ、あんだけ歓待されながら、我がホスト国日本の事を「They're kinky,the Japanese(日本人はヘンタイだ)」なんて言っている!!
それ、お前がゆーかあああ!!!笑)


まーね、

神話の時代から神サマが女装したり、
女人禁制の建て前、お稚児さんと称するオノコを愛でる宗教が当たり前のよーに存在してたり、『男色大鑑』なる、女ならぬ男相手の遍歴を堂々とつづった文献があったり、ガイジンが泣いて喜ぶ浮世絵にも春画にしっかりそのジャンルがあったり、その他さっきの歌舞伎だって、若衆歌舞伎っつーまだ前髪を落としてない美少年ばかりを集めた、
ま、今でゆーならジャニーズみたいな踊り中心の集団か?
があったりして(もちろん、女ばかり集めた遊女歌舞伎っつーもんもあったんだけど、その内売春目的にした陰間茶屋トカ遊女小屋なんかが出来ちゃったもんだから、最初は奨励してたくせに、後から風紀上の問題で禁止になったっつー)なんともはやスバラシイ性風俗の文化をお持ちの日本ですから?

もちろん、ピートがカンドーしたのはそこではなく(そんなコトまで知っとったらどえりゃあこっちゃ!)歌舞伎についてはそれ自体が男ばかりの集団芸能で、役割としてしっかり化粧し女装した“女形”なる型を既にシステムとして備え、なおかつそれが伝統芸能として現代までも連綿と受け継がれ支持されているところにあったと思うのですが、

あとは、神社の巫女さんだって本来は“巫子”が正しくて、女性が男性に、男性が女性になって性の境界をまたぐ=神により近い者としての依りましだったり、

大体、仏教より古い神道の宗教からして根幹がそんな風ですもん。

いわんや芸能をや。


更に芸術と精神面からもアプローチすれば、
日本という国は陶器にしても絵画にしても、美や造形に関してあまりシンメトリーとか統一性を好まない民族ですよね。

先の浮世絵、日本画、備前・信楽などの焼き物、日本庭園などをちょっと一瞥してもわかるように、日本人は直線の文化でありながらどこかあえて形のいびつなものを持ち込んだり、わざと対象を歪ませたり、アシンメトリーな配置をしたりして、そのイレギュラーさやアンバランスさの中に宿る美を愛でます。

19世紀末におけるヨーロッパでのアール・ヌーヴォーの隆盛は日本のこれらの文化が大きく影響していることは美術を勉強した人間なら誰でも知ってることですが、


かように、おおらかでファジーで懐の深いのが日本文化なのですよ!

それに、今さら歌舞伎を持ち出すまでもなく、日本には元々、カルーセル麻紀やピーターや三輪さんのよーなその道の大先輩がすでにおったわけで(最近だったらはるな愛か!?笑)
そんな文化を潜在意識の中に連綿と刷り込まれて来た日本人が、ピートなる存在の一人や二人、受け入れるなんてどーってことない、しごくトーゼン!へのカッパ!!
いびつだろーが、妖しかろーが、美しいものは美しい!!



だったのであります。




てかね、

太古から芸能・芸術方面に性の曖昧な人達が関わってきたのは――いや、むしろその中心だったというのは動かしがたい事実でこれは全世界共通のことなのに、
それを肯定して来た日本がエライっちゅーより、否定して来たイギリスがアホなだけでしょ!?


E・M・フォースターでしたっけ?

イギリスのゲイ作家でちょうどDOAが活躍してた頃、日本でも彼の書いた小説を元にした映画『アナザー・カントリー』や『モーリス』が公開されて、それこそ私なんかカルチャー・ショックを受けてた一人なんですが、その映画の中でだったか、

「イギリスは人間の本性を否定する国だ」

とかいうセリフを誰かが言ってたような気がします。



今でこそ、同性婚なる法律も出来て(その第1号がエルトン・ジョン)当時よりゲイにも優しくなったかのようなイギリス。


けれど、あそこの精神文化というのはそれこそ質素倹約・質実剛健、整合性と統一性、合理性と頑迷性、秩序と伝統を重んじるまさに抑圧文化なわけです。
(そこに更にキリスト教という宗教がからむ)

でも、人間は抑圧されるとどうなるか。

反発し抵抗し、抑圧された対象と丸っきり正反対なものを激しく求めるようになります。


それが、イギリスにおけるあの当時ならパンク・ファッションであったり、ロックであったり、様々な思想活動であったりしたわけなんでしょうが、


ただねー、

皮肉なことに、そう考えるとそんな国だったからこそ、あのピートのような人間が生まれたとも言えるわけでなんですよ。


そこら辺はピートもわかってるようで、

日本という国がどんなに自分を歓待し受け入れようとも、

「I wasn't Japanese(オレは日本人じゃなかった)」

と言い、

そして、自らのことを「彼らのためのpeep show(覗き見ショー!?)で、自分がマンガのように見えた」と言わしめた、そんな彼の冷静さとシニカルさがとても痛々しくて、
私は自叙伝の中のその言葉を読んだ時、思わず泣いてしまいました。


後でまた、どうして彼があそこまで整形にこだわったかについても考察しますが、
ピートにとってmake-upすること=装うことは、それが彼の唯一の表現方法であり、社会から身を守る鎧でもあったのだと今更ながら思い知ったしだいです。


きっと、彼は死ぬまで装うことを止めないんじゃないかなぁ。

freaksと言われようと。faggotと呼ばれようと。


それが、彼の“性(さが)”だから。


彼がどうして、あそこまでイギリスに忌み嫌われたか、

それは、かの国のいわゆる“倫理観”や“道徳観”なるものが、それこそ老獪な大人の顔して、うやうやしく大仰に眉をひそめながら、

「それはいかがなものかね?」

と進言して来たその面の皮に、ピートが見事にツバを吐きかけたから。

その鮮やかなこと、潔いこと!!


私はそんな、ピートの、痛みを抱えつつも率直で開き直った戦闘の歴史をこれからも注視していこうと思います。



でも、取りあえず今は、まだかろうじて一般的な概念の中に納まる美しさを残している――いや、最後のあだ花とでも言うべきか?

『Nude』の中の2つのPVについて語りたいと思います。

ピート・バーンズ考 1986~1987 さらに続き

2009-06-05 11:05:29 | ピート・バーンズ
注)ネタバレになるので、これからご購入を考えておられる方は読まないことをおススメいたします。


『Rip it up』JAPAN TOUR/by Dead Or Alive 1987,10 TOKYO,OSAKA
                ~DVD『EVOLUTION』より~

少々長くなりますが、最後までお付き合いを。


まずは、オープニング。

出だしの映像はモノクロで、故意に画質を落としてあります。

エレベーターホールからDOAの今回のツアーメンバーの面々が出て来るんですが、
ピートは何故かこの時期から従え出した男性ダンサーの一人、ジェイムズと仲良くおでこ付き合わせてご登場。
(どーして、スティーブぢゃないの?)
ものすごご機嫌でロールス・ロイスに乗り込みます。


画面、切り替わって楽屋の中。

なんと、いつもむっつりしているそのスティーブがダンサーのジェイムズやアダムとはしゃいでいる!!!

私、彼が笑ったり喋ったりしてるとこ、初めて見た~~~!
(これ、第一の衝撃かも

ピート様はファンデを出してお化粧直し中
(これも案外貴重な映像かも!?)
手つきがやっぱりおネェです。


そして、いよいよ通路を通って会場へ。


ステージは割にオーソドックスなセッティング。
ただし、バックには『SEX』と彫ってある例のプレートを口元に当てたピート様のスクリーンお姿がどーんと客席を見つめておられ、天上からはでっかいミラーボールが。
さながら巨大ディスコ(今なら“クラブ”でしょうが、当時は“ディスコ”が全盛だった)のようでもありクラクラします(×O×)

舞台は4段くらいに分かれていて、バンドメンバーは3段、4段あたりにいる感じ??
(ってゆーか、彼らにはあんましスポットが当たらないので存在感まるでナシ)


まー、全てはピート様を引き立たせるための戦略なんでしょう←ホントか!?
(あ、ちなみにデビュー当時から彼らのキャラが立ってない割にはメンバー全員いつもファッションが揃っていたのは、確かピートがその頃からずっと皆のスタイリストをしていたからだったよーな。
だから、余計着せられてる感が強かったんですけどね^_^;)



そしていよいよ、大歓声の中始まったのは『Hooked on love』!

出だしの曲としてはつかみはO.K.?
少しメロディアスなサウンドが、体をあたためるのにちょうどいいです。

最初にダンサーのアダムとジェイムズが登場。

そして、舞台最上段にスポットライトが当たると、そこに我らがピート様が、
おなじみのアイパッチにちょい丈短めのライダージャケット、ロングスパッツ、インナーにはラバー素材のピタタンクにコルセット(!)を装着したオールブラックの出で立ちで登場。


「Hallo TOKYO!!」

と叫んだので最初の映像は東京と判明。

まだ、様子見なのか、ダンサーの二人を含めファッションが大人しいです(笑)


ジャケットを肩からずり下げ左右に揺らす動き、ピートよくやるんですけど、独特だなぁ。


お次の曲は『My heart goes bang』

ここで、一気にテンション上がります!


前奏のギター、長め。
アダムとジェイムズの二人が弾いてるようだけど、ホントに演奏してんのか!?って感じ(笑)

ピートは一旦そで口に引っ込んでお着替えに。

再び舞台上から現れた、その時のピートの笑顔が、も、サイコ-


艶やかで誇らしげで、まさに大輪の薔薇のよう


でも、次の瞬間ガクーッときた。

「オドロウゼ~!」



ああ~~~!

頼むから日本語で喋るのはやめて~~~~(>□<)!!!



ここから映像はハーフスパッツにアイパッチなしのピート様含む、東京、大阪入り乱れていろんなカットが入ります。

私はサビの部分のYou,you,you take my heart shake upからMy heart goes bang bang bang bangまでの一連の振り付けが大好物で、
特にbang bang bang bangのところ、胸を手で叩く仕草がめっちゃ好き

3回目のサビではマジで拳銃音がして、打たれたみたいに頭を振るんですけど、
色っぽかったなぁ~

私までやられちゃいましたよ(>▽<)


あと、東京ver.のピートが途中でアイパッチ取るんですけど、も、それだけで会場絶叫。

一瞬私はフィギュアにおける韓国の反応を思い出してしまいました



そんな中、最初の盛り上がりが来たのが次の曲、
おなじみ『You spin me round(like a record)』

一時期本国ではこの曲でしか取り上げられなくてピートも随分ジレンマを抱えていたようですが、それでも“腐っても鯛”とはこのことで、
やっぱりいいものは世代を超えていい!!

ダンサー2人と3人仲良く腕組んで、ステージを縦横に走りながら歌ってる姿がかわええ~~
You spin me right round,baby Right round like a record,baby Right round round roundのサビで指差しブンブン腕を回すところもビミョーにダンサー2人と合ってないのが笑える
(てか、ダンサーズも案外テキトーなんだけど)

頭をシェイクしてる時のおカオや、
間奏の時に両手をバッと横に広げ、お口を真一文字に結ぶんですが、そのおカオがめっちゃせくしーでたまりません


そして、4曲目の『Lover comeback to me』ではピートのノリはより激しく!

Baby,you got lots of energy,yeah Gonna give that energy to me,yeah~
から既に頭ブンブン振り回しめっちゃハイテンション!!

(ここであまりにノリすぎて口パク疑惑が出てきちゃうんですが^_^;
ま、そうだとしても、わたしゃー反対に口パクなのにあそこまで汗かいて歌ってるピート様にカンドーしてしまふ)

この辺りになると、多分みんな脳内音の洪水でシビれてきますよね。

Baby,we could have a real good time,yeah Tell you I could make you mine all mine,yeah~
からの部分で今度はステージ床に寝っ転がり、両足を上げ屈伸パンパンやり出したのも、まだこの頃はご愛嬌と思って余裕で見てられたんです。


ところがところがここで第2の衝撃が。


5曲目の『Brand new lover』は出だしのサウンドが私、ものすごお気に入り

ピート様は2回目(?)のお色直しで、赤いボレロ風の刺繍が入ったクラシカルなジャケットを着用。
華奢なカラダによくお似合いです。

お洒落に朗々と歌い上げるピート様。

途中Oh~、oh~、oh~、ohohoh、oh、ohoh~とちょっと眉をひそめて歌っている姿が悩ましい。

アダムの横で観客に向かって舌出し、おちゃめさんと思っていたら、
間奏のところでなんと!

またもや床に寝っ転がり、足をおっぴろげたままでんぐり返りのポーズを取ったかと思いきや、そこへアダムとジェイムズの2人がやって来てピートの股間に向かってギターをかき鳴らすではありませんか~~~~!!!



ピート、おゲレツ・・・


段々、本性出してきやがった(笑)


そう!そして問題の『I'll save you all my kisses』!!

ここからが本番ですよ~とばかりにピート様、

「Do wanna kiss me?」「ha?」と言っては客席に投げキッスしまくり


そして突如この曲からTバックパンツ姿のピート様が!!!!!!


しかも黒のストッキングなんぞ履いてるから腰から下だけ見たらモロ女のそれみたい!!



――つかさ、

アレ、オトコの足じゃないわよッ!
あんなものすごい美脚に美尻、あれはしっかり『見られる』ことを意識してお手入れしてる足に違いないわ!!
見てごらんなさいよ、ムダ毛まできちんと処理してあるぢゃない!!

モノホンの女より綺麗だなんて、許せないワ、プンプン!!!


って、私がおネェ言葉になってどーすんだって



いや~~、でも、

そんくらい、一瞬目がテンになりました(@_@;)

会場もきっとドギモ抜かれただろーなぁ
(これが、第3の衝撃ですネ)

そして、ピートに負けじとアダムとジェイムズの2人もTバックパンツ一丁になり、例のベルトダンスをおっぱじめるわけなんですが、
扇情的なパフォーマンスに気を取られがちで忘れてはならないのが、この曲の振り付け。

私、今回改めて観て思ったんですけど、この『I'll save you all my kisses』の冒頭の振り付け、手をクロールするみたいに回したりするの、当時ディスコですごーーく流行ってましたよね?
あれって、この曲の振り付けが始まりなんじゃ?

夜ヒットにも出てたし、可能性としては高いですよねぇ??


誰か、リアルタイムで憶えている人はおるまいか。


まー、そんくらいインパクトあった曲でした(笑)


そんな半ばボーゼン自失としている間に、
次の『In too deep』でカゲキな演出もちょっと一休み

I could take a plane and I could can fly away
I could steal a car and I could drive away
のところでおててヒラヒラ、ハンドルくるくるやる振り付けが可愛い~


となごんでいたら、

突然雷鳴轟き青と赤の怪しいスポットライトの中に不気味なお城の映像が!!
(これ、『Hooked on love』のPVでも使われていたモンスターの映像ですよね)

『Something in my house』

ここから、ライダージャケットにTバック姿のピート様がメインに~~~

赤ジャケTバックも変わるがわる出てくるんですが、こっちはジャケットが短いから余計腰から下のラインに目が釘付け。
観客に向かってお尻ペンしたり、それで腰振りかよ~~ッ、
目のやり場に困るううう~~~!!

てな感じで見てるこっちが赤くなったり青くなったり

間奏でフラメンコギターに合わせて踊るピート様がお口「う」の字にしてクネクネやるのが悩ましすぎる!!!

最後は3人して後ろ向きになり、足広げてお尻フリフリ、しんちゃんポーズ!
ヤバイ、ヤバすぎ!
そりゃ絶対モザイクでしょーーーーーーッ


も、興奮度MAX状態。


いや~~、やってくれました、ピート様(苦笑)

でも、この後更に阿鼻叫喚の世界がやってくるとは、一体誰が想像しただろーか・・・


その興奮を冷ますかのように、甘いメロディーで雰囲気を変えたのが、『Come inside』

この曲、私は初め、ちょっとイレギュラーな音運びに違和感があって好きじゃなかったんですが、聴いてる内に、そのイレギュラーなピートの歌い方が返ってクセになってきちゃって。
歌詞も甘くて素直で、特にサビの部分の、

Come inside さぁ、おいで
My love is open wide to you この愛はお前のもの
Come inside さぁ、心の中へ
I have a place that I've been saving specially for you お前のための席だから

のところの「inside」や「open wide」ってゆー単語も含めて、まるでピートの懐の深さと愛に対する一貫した姿勢を垣間見せられてるみたいで、じ~~~んと来ちゃいます
(でも、博愛主義者とゆーわけではないので、そこら辺勘違いしちゃうとイタイ目見ますよ
ライヴでもすごく感情のこもった歌い方してて、ジェイムズ達と肩組んだり、3人で横並びでダンスしたりとめっちゃ楽しそうなのが印象的でした。

その後、赤ジャケTバック姿のピートが、
「happy birthday James!」「Happy birthday!」
と、ツアー中に誕生日を迎えたジェイムズを祝福。
(自伝によると、アメリカツアーの時、ピートは彼の自宅を訪ねている模様。
ライヴ中もやたらめったらジェイムズにばかり流し目してからんでたし、どーもこの二人デキてたんではないだろーか)

そんな風に邪推しながら、ピートのLOVEで満たされいっぱいになっているところへ、
今度は一転、パンチの利いた彼の声が。

『Son of a gun』

私、この曲大好き~~~(>▽<)!!

DOAにしては珍しくラブソングじゃないんですけど、
A son of a gun~Uh-Ha!から繰り返されるドラムの打音が頭を空っぽにしてくれるとゆーか、軽~く自分の攻撃性も発散出来てストレス解消には持ってこいみたいな。

ここで3度目(?)のお色直しをしたピート様も壊れそうなくらいガンガンに頭振ってて、脳震盪起こしそうなくらい!

も、あれは完全にイッっちゃってるよーって感じで色っぽいのなんの

途中、ステージに寝そべって歌うところもめっちゃセクシーだし、あれはエンドレスでやってると絶対その内何かが憑依しますね!!(笑)


歌い終わった後の、ピートの脱力加減がまた良かった~(*>▽<*)



そして、「アリガトー、オーサカ!」と言って一旦ステージは終了。

すぐにアンコールの場面に切り替わって、何か観客に言ったあと(ここ、上手く聞き取れなかったんですよね)もう一回『I'll save you all my kisses』の曲が。


ピート、最初から投げキッスしまくり。

ダンサーズはいつ間にか、腰にバスタオルを巻いているゥゥ!


この時、ピートがステージを横切りながらバンドメンバーの誰かに向かってすっげーコワい顔するんですけど、次の瞬間すぐ笑顔を向けているので、多分ジョーダンだったんだと思いたい。
じゃなけりゃあ、あんな美しいカオであんなヘビのよーな目して睨まれた日にゃあ、もう、メデューサよろしく石化します(~_~;)

まさにアメと鞭


で、オーラス、

いよいよ最後の衝撃波がやってまいりました!!

ラストのサビ部分で、ステージの一番前に3人で降りたピート様、
バスタオルでベルトダンスやってるアダムとジェイムズにひとしきりからんで歌い終わったあと、突如くるんと後ろを向いてまたもや観客にケツ見せポーズ!!!!

このドアップの美尻に観客ソーゼン!!

それ見て客の何人かがもう、辛抱たまらん!!(>O<)って感じで前になだれ込みそうになったもんだから、一番前にいた警備員のオッサン達の指導入りまくり

しかも、ピートってば、すぐやめりゃあいいのに、なんと数えてみたら9秒近くもその状態でいるもんだから、画面の向こうで観てるこっちも突っ込みまくり

「ちょっと、もーいーかげんやめなさいッ、ピート!
それ、ヤバすぎでしょッ、目のやり場に困るぢゃないッ!!
なんつーことをやってるの、あなたわあ!!!」


――みたいな


まー、ホント、ひと騒がせなお人です^_^;


「サヨナラ~」

とホッと一息ついてバックステージに消えたピート様。



文字通りのカンドーとコーフンをありがとう

今夜のあなたのキョーレツなパフォーマンスとこの世ならぬ美しさは、あの時リアルタイムで観ていた人達の脳内にも永遠に刻み込まれたことでしょう。


再び画質の悪いモノクロエンディングの中でも、あなたのお姿はおネェっぽく歩くシルエットで一目瞭然でした
そして、またもやジェイムズと一緒に車にお乗りになったのね・・・(反対側にもう一人いましたけど)



・・・・スティーブは???




「僕はピートのハウスメイドさ」


ハッ、どこからか幻聴が――(@_@;)



いかん、いかん、どーも寝不足のようです。

1986~1987編は一旦ここらでおしまいにして、
次からピートが不遇な'90年代を呼び寄せることになる『Nude』について、語ることにしましょう。





ピート・バーンズ考 1986~1987 続き

2009-06-03 23:14:06 | ピート・バーンズ
フィギュアではGPSのアサインも発表され、今月末にはDOIもあるというのに、

なんか、思ったよりピート様の話が長くなってしまって申し訳ないm(__)m


スケートの話題で訪ねてこられた方は、きっとあまりの私のピート様に対する熱の入れっぷりに思わず引いてしまってる方もいるかも知れませんね~。
(え?読んでない?それなら結構


でも、いんです。

ピート様に関するブログ巡りをしても、多分彼の音楽をも含めた人物像に関してここまで書いてる人は今んとこ(本国でも)なかなかいないと思うので、
ま、彼が御贔屓にしてくれたここ日本で、私一人ぐらいそーゆー物好きがいてもいいんじゃないかなと(^_^)

なので、興味のない方におかれましては相変わらずスルーで、多少なりとも興味を持たれた方には一度PVを覗いてみられることをおススメいたします。



あ、ところで、そのPVに関してなんですが、前回貼ったYOUTUBEの動画の中で『My heart goes bang』と『I'll save you all my kisses』の動画が何故か向こうの都合で観られなくなっているようです。

試しに他の動画のURLも貼ってはみたんですが、やっぱり同じなので(でも自分のPCのお気に入り登録したヤツは問題なく観れるんですよね~!?)
上記の動画を観たい方は他のところから入って関連動画から探されて下さいませ。

お手数おかけして申し訳ないですm(__)m



――さて。

本国イギリスでのヒットから遅れること数年、真裏にあたる極東の島国、日本で自分達がウケていることを知った彼らDOAは、この辺りから日本でのセールスに力を入れだします。

自伝によるとピートは子供の頃、京都の幻影(デジャヴ?)を視たそうで、ひょっとしたらそんなところで日本との繋がりを何かしら感じ取っていたのかも。
エキセントリックだったお母さんの影響か、彼もちょっとスピリチュアルな人間みたいですね~。直近の写真にも(今はもう別れてしまったけど)マイケルとの結婚披露の時に打ち掛け風(!?)な着物着てたり、いちおー“和”をモチーフにした衣装や背景で写ってくれてて何だか嬉しいです
(美的感覚に関しては、ハゲシイつっこみ入れたくなるほどどこかもう均衡を失ってますが


初来日は1987年の10月。

『Rip it up』ジャパンツアーと銘打ったそのライヴは東京・名古屋・大阪の3都市で開催されました。
(そーいえば、確か当時はマドンナの初来日公演も6月にあったため、海外の大物アーチストが続けざまに来る!!と話題沸騰だった記憶があります。
ただ、ハコはマドンナの方が球場クラスで大きかったですけど^_^;)


DVDに収録されているのは東京武道館と、大阪城ホールでの映像で、この来日に際して作られた記念版CDがこちらですねー。

                                

このCDの中身については先にちらっと触れているので詳細は省きますが、
DOAの絶頂期の、ダンサブルで力強い音をコンパクトに楽しみたい方にはヒジョーにオイシイ一枚。
これだけでも、その場がたちまちダンスフロアになること請け合いですけど、より視覚的な刺激とピート様の光り輝くオーラを堪能したい方にはやはりDVDのライヴ映像を観ることをおススメ。

YOUTUBEでコマギレ映像を観てた時でも既に鼻血ブーの悩殺状態だった私は、DVDで初めから通しでこのライヴ映像を観た時、
一瞬で理性が吹っ飛び、自分の中の性が崩壊してしまいました(汗)(汗)(汗)


何故なら、
それまでのピート様はTVライヴにしてもPVにしてもインタビューにしても、ほとんど笑うことが少なく仏頂面で、アイパッチやサングラスをかけているため表情もわかりにくいことが多くて、
きっと彼はライヴでもこんなんなんだろーなぁとタカをくくってたとゆーか、割と“怒り”で自分を表現するタイプなのかなーと勝手に思ってたとこがあるんですが、
(実際インタではいつも何かしらに怒っていたし、初期の歌い方が正にそんな感じでしたからねー。
でもよく考えたらDOAの歌詞って、ピートがやたら攻撃的な歌い方をするから勘違いしやすいんですけど、ほとんど全編“LOVE”なんですよ~
だから、それを“怒り”で表現してどーするって、単純に考えればわかることなんですが


で、それを想定して観たら、さにあらず。


大歓声に迎えられ舞台最上段から降り立ったピート様の、その笑顔のあまりに美しいこと、神々しいこと!!!

少年期の両性具有の美しさがその男でも女でもない部分にパッと立ち現れる一瞬の“美”だとしたら、ピートのそれは、正に男と女の狭間において成り立つゆらぎの“美”で、
硬質さと華やかさ、冷淡さとコケティッシュさ、高慢さと茶目っ気が見事に同居した、実に蠱惑的な笑顔!!

あんな笑顔を振りまかれた日にゃあ、きっと男も女もイチコロでしょう!!


それぐらい魅力的で、あの笑顔を自分のものにするためなら、私だったらどんな悪どいことでもしてしまいそうだし、一生かしずいても惜しくないと思う。
(時々ゾッとするほど冷淡で怖い表情をするんですが、それがまたそそられるし。
私は基本S性向なんだけど、ピートを前にすると多分Mになると思う)


――うん、

性別を超えて惚れるって、多分こんな感覚なんじゃないかなぁ。


実際映像を観ていると、アリーナ最前列で踊ってる観客達は、体を揺らしながらも目はひたすらピートの姿を追っているんですよねー。
そして、ピートが目くばせするだけで、手を振り上げるだけで、場内から絶叫にも近い歓声があがる。

えー、それって、アイドルのコンサートと変わらないじゃんって思うかも知れないけど、
ただ一点、アイドルを見る目とは違うところがあって、それはピートを見る目には畏怖の感情が混じっているということ。

半分人工的な手を加えられた美ではあるけれど、
今にして思えばあの時の彼の美貌は、ほとんどあの時期だけの“奇跡”に近い美で、しかも聴いた者をひれ伏さずにはおかないあの圧倒的な声量で、あんな非日常的なトランス状態を作り出す人間は、太古においてはシャーマンか呪術師みたいなものですが、
(“踊り”はそれ自体が元々神に捧げられ、神と一体化するための手段だったわけですしね。そして、更にそれを決定づけるのがあのピートの邪眼にもなり得るほどの眼力です)


そう!

だから、そーゆー畏れ多くも近寄りがたい存在を見るまなざしとでも言いましょうか。
(そーいえば、amazonで彼の自叙伝のプレビューを書いていた方が同じようなことを書いてましたっけ)

ただ、皮肉なことに、
そういう存在は得てして常人とは感覚の違う、ちょっと異色な性質を持った者であるため、そのままでは普通社会からつまはじきにされがちな人間であるということも付け加えておかねばなりますまい。

だから、彼は、多分、
そうなるべくしてなった、ダンス・ミュージック界における最強のフラジャリティだったと思うのです。
(過去形なのがちとカナシイ
今は美容整形界の開祖だぁ~~~!←も、半分ヤケ


でもね、

私が救いだと思ったのは、ピートがヒットを飛ばした曲が愛や欲望や駆け引きをテーマにしたあくまでもダンス・ミュージック(ここら辺、上の記述と矛盾があるかもですが、言いたいことはわかるでしょうか)であって、決して思想的で啓示的なバリバリのロックではなかったところ。

そして、多少反社会的ではあっても、ユーモアと猥雑さがあったところ。

この2点のおかげで彼はモノホンの教祖に祀り上げられずにすんだとゆーか。
(まー、日本ではそれに近いものはあったでしょうが、なんせ本国での扱いが“イロモノ”でしたからネ。もしかして、ピート的にはけっこーアンビバレンツな感情で悩んだかも知れません。
「俺は今、崇拝と大量殺人の間にいるよ」とのたまってたくらいですから)



そんな彼らのライヴは、だから、終始一貫攻撃的で扇情的で挑発的!!

片時も休む間のないノンストップ弾丸ライナーで、
汗びっしょりになりながらもあの華奢なカラダを激しく揺らし、恍惚としたカオで頭を振り続けるピート様に、もし、私があの時リアルタイムでその場にいたら、きっと、踊るか見続けるかどっちにするかで激しく悩みそう(笑)

その他にも、
ええ~~っ、ピートってば、こんなに表情豊かでサービス精神旺盛だったの!?!?って思うくらい、

笑う顔、すごむ顔、ヘン顔、ウインクする顔、流し目する顔、投げキッスする顔、それら全部が魅力的で、特に私のお気に入りは口を「う」の字にして歌ってる顔と、真一文字に結んでる顔。

ああ~~~、

今こうして書いてるだけでもその時のピートの顔と曲が浮かんできて辛抱たまらんくなります(>▽<)!!
(も、どんだけ観てんのって


あ、ちなみに、ピートはやっぱり筋金入りのオネェです。

顔の造作はまだこの頃は中性性を保ってますが、
その表情もさることながら、歩き方や仕草、あの腰の振り方はどー見つくろっても“女”にしか見えない(~_~;)

自分ではゲイにもストレートにも分類しないって言ってますし、実際当時はリン(♀)とスティーブ(♂)3人で仲良く暮らしてたみたいですけど、別にリンとスティーブとの間には何もなかったから、3Pだったわけじゃなくあくまでピートを介しての関係ですよね。
そのリンとの関係を後で振り返って「最高の“夫”だった」とか「ソウルメイト」だとか言ってるので、あの戦闘的な性格は男っぽいにしても、性的な役割としてはどうもやっぱ女役だったみたいです。


で、そーすると、ここでふとした疑問が湧いてくるんですが、

じゃあ、一体私はどっちの性で彼に欲情してんのかと(笑)


オンナとして欲情してんのか、それともオトコとして欲情してんのか!?



・・・う~~~ん、カオスだ


思うに、ピートのよーな存在がイギリスみたいな国で排他的に扱われてたのは、多分これも原因の一つなんでしょうねー。



「オトコだオンナだバイだのなんて、そんなこたぁどーでもいい」

己の欲するままに生きていけたなら。



それは、なんて鮮やかな社会的カテゴリーからの逸脱。




・・・いいなぁ~、自由で。



でも、本当は彼も、必死で自由であろうとしただけなのかも知れない。



そこら辺については、また後で詳しく考察します。



では、いーかげんゴタクばっか並べてないで、そろそろライヴ実況を始めましょう!