さて、では後半です。
美容院を辞めて、ケンジントンにあるリンの家に一緒に暮らすようになったピート。
その内彼らは自分達でショッキングピンクの安い合成皮革からセーターを作ってアクメ アットラクションズに卸したり、モヘアのつぎはぎで紐を編んでそれからカーディガンを作りウェストウッドに15ポンドで売ったり、リンがそれでまたセーターを編んだりと、何やらデザイナーのようなことをし始めますが、
結局それだけでは十分な量を確保することが出来なかったため、ピートはリバプールのケーシー通りに部屋を借り、近くにあったユダヤ人のショップに材料を調達しに行きます。
大量の先のとんがった'60年代の靴やクロコの革などを買えるだけ買い、買えなかった残りの分をあろうことか、ピートはそこにだぶだぶのコートを着て盗みに入ってせしめている(←コラコラ
笑)
やがて、そのショップにはパンク仲間が沢山集まるようになります。
ちょうどその頃、セックス・ピストルズが街にやって来てワンナイトギグをするのですが、ピートはヴォーカルのジョン・ライドンからリンやポール・ラザフォード、ピート・ワイリーなど、後のピートの仲間達と一緒に彼らの楽屋に招待されます。
そして、そこで自分の着ていた服をジョンに褒められロンドンに来てアクメに売ればいいと言われる。
その後もTVに出ていたビリー・アイドル(おお、懐かしい!)&ジェネレーションXの中のグループの人間がピート達のショップから買った服を着ていたりしてたので、店はだいぶ評判が良かったようです。
金銭的にも、前のヘア・サロンからは賠償金として毎週10ポンドが入って来てたし、売上もいい週は数百ポンドも稼いでいたらしい。
そんな中、ケーシー通りの部屋の賃貸契約が切れてしまった。
ところが、そこへタイミングよくプロブ・レコードのジェフ・デイビスという男がピートのショップにやって来て、店を気に入ったのか、沢山の毛皮のジャンパーとシャツを買ってくれた。
そして、事情を聞くと、
「俺達はショップの裏に空き部屋を持ってるから、そこをアンタに貸してやるよ」と言われる。
でも、レンタル料が払えないからとピートが断ると、彼は、
「いや、俺達はアンタに是非いて欲しいんだ」
と乞われ、ピートは渡りに舟とばかりに、そのリバプールの中心にあるプロブ・レコードの裏の空き部屋を借りることになりました。
そして、その場所と彼のファッションへのこだわりがまさにピートを今まで聴くだけでしかなかった音楽シーンの中へと彼を導いていくきっかけになります。
あと、もう一つ重要なのが、プロブへ引っ越す前から通っていたという『Eric's』というクラブ。
ピートが“パッド入りの洞窟”とも、“ビニールハウス”とも呼んでいたそのプロブ・アパートの一室は、彼らによって天上と壁一面をゴミ袋で、床は赤いプラスチック、窓はピンクのポリエチレンで覆われていてまるで保護室のようだったそうです。
そんな非日常の世界は、「顧客もスタッフも同様に、変わったヤツや才能のある人間達で、そんなヤツらのコミニュティーになっていた。
そこには、ピート・ワイリーや(エコバニの)イアン・マッカロク、ジュリアン・コープらが行きかい、通り過ぎていった」そうです。
けれど、肝心のピートはといえば、
その頃ほとんど表には出ずカウンターの後ろにいて、でも、それだけじゃあ退屈なので、自分が手に入れることの出来なかったレコードをかけていました。
ジェフはそんなピートに、
「アンタはアルファベットを憶えなくてもいいから、店に立っていてくれ。それだけで週50ポンド払うから」
と言います(要はショップの“カオ”ですね)。
だから、厳密に言えば、その時期のピートは音楽を聴いてはいたし、時々会話に参加もしていたけれど、リバプールの音楽シーンの中心にいたわけではありませんでした。
ピートの心はまだ、洋服にあったのです。
では、その当時の本当のミュージックシーンの中心はどこだったかというと、先に述べたエリックの店。
そこはプライベートメンバーズ制のクラブで、
1976年にオープンして以来、ブロンディ、ジェネレーションX、ザ・クラッシュ、ウルトラボックス、ジャム、ポリス、セックス・ピストルズ、そして、全てのリバプールの有名ミュージシャン達――OMDやエコー&ザ・バニーメン、ティアドロップ・エクスプローズ、ワオ!などが名を連ね、プロブや他のたまり場からほとんどの人間達が集まっていたらしく、
エリックの創始者でプロモーターでもあるロジャー・イーグルによると、ピーク時には約5,000人のメンバーが登録していたそう。
そんな規模のクラブだったからでしょうか?
1980年代の初頭に廃業になるまで、エリックは2回の警察の介入を受けています。
(ピートはそのどちらの現場にもいて、一度は逮捕されそうになっている)
それは、イギリスのバンドがその頃、より政治色を強めていたことも彼らが警察と衝突を起こした原因だったようですが、
多くの大衆がそういうイギリス系バンドを支持する中、けれど、プロモーターのロジャーだけは積極的にアメリカ系のバンドを呼び寄せます。
そして、それを一番喜んでいたのがピートだったのでしょう。
「ギグの後のギグで、オレは最前列にいた。
他のファンはイギリスのバンドの方が好みだったし、ギグの多くは半分カラだったからそれは難しいことじゃあなかった。
オレは彼らの舞台裏やソデ、控え室にも行って彼らを待っていた。
バンにも一緒に乗り込み、彼らの生活を垣間見た。
オレは受け入れられているようだった」
そう言ってやまないピートは、その年上で偉大なスター達のことを自分を彼らの世界へ導いてくれ、守ってくれた守護天使―guardian angels―とまで言っています。
なんせ、ピートにとって当時のアメリカのバンドは、常に新しいことを求め、生き生きとして、国境を越えていく力に充ち溢れていた存在だったのですから!
「そしてそれが、オレが彼らの後を追う必要を感じていた理由だった」
ドラァグ・クイーンであるウエイン・カウンティに会って、そのステージを観たことも、彼の刺激になったようです。
(ピートはそれまで、“ドラァグ・クイーン”という存在を知らなかった)
シャイで頭の禿げた年配のおじさんが、とてもじゃないけど女性には見えない化粧をし、ディートリッヒのマネをする。
でも、いざステージが始まって彼のパフォーマンスを観ていく内にそれは確実にディートリッヒになり、その見事なまでの変化にピートは感嘆します。
そんなウエイン・カウンティ&ザ・エレクトリックチェアーズとピートは、ロンドンで一時的ながら不法滞在までして一緒に暮らし、
それから、ピートをして、“アメリカ人の中のアメリカ人”とまで言わしめたジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズの台頭、デヴィッド・ヨハンセン、イギ―・ポップなどを目の当たりにしていく内に、
ピートは間違いなく、自分でプレイはしていなくとも自身でも知らず知らずの間に彼の音楽観とでもいうべき素地が、その内部に出来あがっていってたんじゃないかと思うのです。
そこでついに、ロジャーがピートにこう言います。
「オレ達と一緒にバンドをやらないか」
ピートはア然とし、「オレはバンドなんかやりたくない」と言って断るのですが、ロジャーは、そんなピートにちょっと脅しとも取れるセリフを吐きます。
「バンドを結成するか、二度とエリックに入れなくなるか、どっちかだ」と。
その頃、ピートはパンクというレッテルを貼られていたので、他のクラブの出入りを禁止されていました(サイモンに連れていかれたベア-・ポーのゲイ・クラブさえも!)
なので、エリックまで出入りを止められると、もう、彼には行くところがなかったのです。
「だけど、オレは何にも知らないんだ!」
ピートは今まで、自分がパフォーマンスをすることなぞ考えたこともありませんでした。
彼は自分のショップが欲しかった。
そして、より沢山の服を買い、ロンドンに行ってジョーダンを見るためのお金が欲しかった。
(このジョーダンという女性は多分ピートがその頃通っていたブティックのオーナーか、デザイナーかだったと思うんですが、自叙伝でははっきりと書いてないので、ちょっとそこら辺が曖昧です。スイマセンm(__)m)
そして、彼女が街にやって来た時すぐに会いに行けるように、キングスロードのアパートが欲しかった。
これが、その時ピートが望んでいたことの全てでした。
けれど、ロジャーは半ば強引にピートにバンドのメンバーを用意してしまう。
それが、初代メンバーのジュリアン・コープとピート・ワイリーです。
(余談ですが、様々なDOAのプロフィールには、彼らがピートの学校の同級生だったと書いてあって、私もそれを信じてたんですが、どうも違うようですね)
コープは当時リバプール・ポリーの生徒(多分、高校生か大学生!?)で、ワイリーは生活保護者のようだったらしい。
でも、ピートはワイリーに関してはマジで何も知らなかったようです。
本当に“なりゆき”でバンドをやるハメになってしまったピート。
彼はジュリアンの家で一週間ほどリハーサルをするのですが、
なんと、ピートは最初、マイクの代わりにほうきを持って歌っていた(笑)
で、それを見たロジャーに、
「アンタはマイクスタンドの使い方を覚えた方がいい」
と言われます
(マジで何にも知らなかったんですね、ピートって)
“Mystery Girls”はこの時のバンド名。
そして、最初はどこのバンドでもそうでしょうが、彼らはカバー曲でファースト・ギグをやっている(それはジュリアンのアイディアでしたが、ピートはこの時やった曲がキライだったみたいです)
それが、1977年、11月4日のこと。
もちろん前座で、ピートは相変わらずウェストウッドの服を着ていました。
集まったのはスキンヘッドの客ばかり。
彼は、ここでちょっとした恐怖にかられます。
それはフラッシュバックのようなもの。
ピートの目に止まったテーブルの上に置いてある、沢山の缶にグラスにボトルの数々・・・。
それらが自分に向かって飛んでくる恐怖。
けれど、終わってみれば、スキンヘッドの彼らは誰一人として、ピートを殴らなかった。缶も飛んではこなかった。
それが、ピートをやる気にさせます。
彼はマイクスタンドを使いこなし、歌もちゃんと歌えた。
しかもハコは満杯だった。
ピートは自分に初めて歯が生えてきたような、そんな達成感を感じていました。
このことに気を良くして何とかバンドをやっていく気になったピート。
けれど、しばらくはバンドの方向性を探る試行錯誤の日々が続きます。
ジュリアンのアイディアでバンドメンバーの配置を変えてドラムをステージの前に置き、ピートはその後ろで火のついたブランケットをかぶってみたり(ゲッ、マジで!?
)バンド名を変えてみたり、ラジオセッションをやってみたり、クラブに行けない間は、様々なバンドを観にマンチェスターやウィガンまで行ってみたり――。
そんな中、ピートはまたもや自分の音楽の方向性にインスピレーションを与えるミュージシャンに出会います。
それは、『You Make Me Feel(Mighty Real)』のシルヴェスター。
何だか、これまたオトコかオンナかわからん出で立ちと声ですが、彼女はれっきとした女。
(どーもピートはビジュアル的にこーゆー男性的な女性に強く惹かれるよーです)
音楽自体も彼女のやっているものが自分のやりたかったものだと言っているように、彼の欲しかったものは“振動”。
それを作りだすことの出来る機械がありました。
それは、シーケンサー(日本語に直すと、電子自動演奏装置 笑)
ロジャーの提案でバンド名を“Nightmares in Wax”に変えた頃、ピート達は貯金していたお金でようやくこのシーケンサーを購入します。
ところが、200ポンドもしたこの機械を誰も使いこなせず、騒音しか出せないことにガックリする。
そして、もう一つピートをガックリさせたのが、彼自身の声。
ピートは、自分がシルヴェスターのようなファルセット・ヴォイスが出せると思っていました。
ところが、自分の声はテノールかバリトンまでしか出せないと知って大ショックを受けます。
(え~、でも私はボーイ・ソプラノは好きだけど、男性のファルセットって、昔変声期前に去勢して作られたカストラートでもあまり好きじゃないし、ピートはあの魅惑の低音ヴォイスだからこそいいのに、人間ってやっぱないものねだりなんですかね~^_^;)
新しいバンド名が気に入らないのもネックだった。
ピート自身は“Sex and Violence”という名前にしたかったようですが、他のバンドメンバーに反対されます。
(“セックスと暴力”だなんて、これも大概ベタですよね
“ナイトメア~”と何が違うんだろう!?わからん 苦笑)
とにかく、その頃インディーズレーベルと契約して、EPを3枚も出していろんなところでギグをやっていたにもかかわらず、「どんなに物事が上手くいっていようと、オレはその名前でやっていくことだけは出来なかった」というくらいそのバンド名を毛嫌いしていたピートは、
次に発売した『Flowers』を“So It Goes”でやることになり 、この時に名前を載せる段になって、あわててバンド名変更会議をメンバーと持ちます。
そこでピートが“Those Who Died Young(若くして死んだ人々)”とか言ったもんだから、ギタリストが「そんな名前のバンドにいることが母親にバレたら、オレは引きずり戻される」と言う。
「じゃあ、オレ達は一体何をやるつもりだ?」
ピートが尋ねると、それに対して彼が言った言葉が、
「Wanted:Dead or Alive!」
「それは、何てドラマチックだったろう」
――このやりとりで“Dead Or Alive”のバンド名が決まったのです。
(今まで伝え聞いていたのとはちょっと違いますよね)
ところで、『Flowers』は暗くてシルヴェスターらしくないと、あまり評判が良くありませんでした。
まだシーケンサーを使いこなせていなかったし、その間にもミュージックシーンには次々と新星が現れていく。
でも、『Misty Circles』辺りから、段々事態が好転して行きます。
ピートはウエイン・ハッシーを迎え、他にも才能はあるが、中々世間に認めてもらえないようなミュージシャン達を積極的に取り込んでいった。
(後のDOAのメインメンバー、マイクやティム、スティーブはこの頃からバンドに参加したのかも知れませんが、この3人のことはその出会いやきっかけなどがほとんど語られていないためわかりません。ナゼなんでしょうね!?(・・?
あと、このウエイン・ハッシーというギタリストは後に、ピート達がシーケンサーを使いこなせるようになっていってからは徐々に出番がなくなり、そのことを逆恨みしたのか、彼らの音楽性をけなしたメモを残しその後脱退していきます。
その文面はけっこー辛辣で、最後のところにはこう書いてありました。
「多分ピートが死んだら、オレがその葬式の司会をしてやるさ」
・・・ああ、その時のピートの悲しみといったら!)
それから、カメラマンだったフランチェスコ・モリーナがマネージャーになり、ラフ・トレードと契約し、ドリーン・アレンをアシスタントに添え、彼らはボールド通りにオフィスを構えレーベルを設立します。
そして、それに合わせてギグも大きくなっていった。
リンと結婚したのはそんなさなかの1980年の8月のことでした。
その頃には住居もキャサリン通りにある週6ポンドの住宅協会アパートに変え、ショーを続けながらプロブのショップでもまだ週に2,3回は働いていました。
大学が近くにあったので本好きのピートはいろんな本も借りていた。
それは、それなりに満ち足りた生活でした。
そんな中、ピート達はいろんなメジャーレーベルの目に留まるようになり、やがて、1982年のエピックとの契約に繋がっていくのです――。
さて。
これ以降のことは、前回エピックとの関係性を書いたところに大体まとめた通りでなので今回は割愛しますが、そんな中でも私が敢て書いてこなかったエピソードが2つあります。
その内の一つが、『You Spin Me Round(Like a Record)』の作り方。
(もう一つの方はまた【自叙伝編】にてお伝えしたいと思いますので、お楽しみに)
エピックと契約してから最初に発表したのが、ゼウス・Bと一緒に作った『Sophisticated Boom Boom』
このアルバムの頃にはだいぶ今までのゴス調のサウンドは影を潜め、ピートのやりたかったディスコ・ミュージックに近づいていってますが、
次の曲を作る段になって、ピートはディヴァインの『Nature Love』を聴き、そのサウンドに強く惹かれます。
「オレは、その音がめちゃくちゃ欲しかった。そして、探しに探して、それがボビー・Oという人物によってプロデュースされたものだとわかった」
ピートは彼に自分達の音楽をプロデュースしてもらうべくエピックにかけ合いますが、アメリカまでの費用を出したくなかったエピックはけんもほろろ。
そこで、ピートは今度はディヴァインの新曲『You Think You're a Man』を聴き、これも『Nature Love』ほどではないものの、気に入ります。
けれど、実はこれはボビー・Oの仕事ではありませんでした。
では、誰がプロデュースしたのか?
「その人物はロンドンにいて、皆からこう呼ばれていた。
マイク・ストック、マット・エイトキン、そして、ピート・ウォーターマン」
これが、ピートとSAWとの出会いのきっかけでした!
では、ここでそのきっかけになったディヴァインの『You Think You're a Man』を聴いていただきましょう。
ディヴァインはもちろん元♂のドラァグ・クィーンなので、まぁ、その容姿は置いとくとして、このベースのサウンド、もろスピン・ミーですよね!
そして、更にピートはこの音を基本に次の二つの曲を重ね合わせます。
一つ目は、ルーサー・ヴァンドロスの『I Wanted Your Love』
もう一つがリトル・ネルの『See You 'Round Like a Record』
でも、これだけ聴いた感じでは、サビのエッセンスは似ていますが、スピン・ミーとは丸っきり別モノの曲なので、ピートの作曲方法というのは彼の言葉を借りるなら、
「オレは何かを聴く。そして、オレはその上に別のメロディーを重ねて歌う。オレは机に座ってルーサー・ヴァンドロスを研究したわけじゃない。
オレは歌を聴いて、それをロックするんだ」
という形になるようです。
だから、ピートの場合は初めに既成の曲ありきで、そこからインスパイアされた彼のイメージを、様々な手法を使って作り上げるというパターンになるのだと思います。
そして、まさにそのDOAサウンドを作るのにあの時期一番、ピートのお眼鏡にかなったのがSAWで、しばらくはお互いが一緒に音楽を作ることに最大限の喜びと闘争心を持っていた彼らなのに、
『Mad, Bad and Dangerous to Know』を作り終えた後からは、SAWはその内他のミュージシャン達とも仕事をするようになるにつれ、段々忙しくなっていった。
そんな中でも、彼らはピートのために曲を作ってくれるのですが、ピートはそれを受け入れませんでした。
いえ、受け入れられなかったと言うべきでしょうか。
「オレは当時、他の誰かが自分のために作った曲をどう解釈したらいいのか、全くわからなかった。
それは、子供が欲しくて赤ん坊を養子にしたのに、その子に乱暴してしまうようなものだ。
オレは、物事をどうしたらいいのか、さっぱりわからなかったんだ!」
前回の記事で、私は、SAWが「彼らは俺達の作った曲で歌わなかった唯一のグループだった」と言っていたことを書きました。
ピートは今でも、ウォーターマンのことを愛していて、彼とまた仕事がしたいと言っています。
だから、決して彼らとは、エピックとのように、最悪な形で関係を終わらせたのではなかったのです。
ただ、その当時のピートがほんの少し不器用だっただけ。
多分、その頃お母様が亡くなって、スピン・ミーに次ぐヒットを出さなきゃならないというプレッシャーや、自分の周囲の環境が激変していたことも関係あったのだと思います。
――ああ~、もう!!
なんて、愛しくていじらしいヤツなんだーー、ピートってば!!
こんな彼を、愛さずにいられましょうか!
こんな、彼がいたDOAを知ることが出来て、本当に良かった。
ピートのパフォーマンスや言動は、時としていつも誤解を巻き起こしてきたけれど、自叙伝を読んでわかったことは、彼はいついかなる時でも真剣に赤裸々に他者に向かっていたということ。
最後に、彼のこの言葉を引用して、今回の記事を閉めたいと思います。
「オレは高級なメンバーズ・クラブだ。それが理解出来るヤツだけが入ってこられる。オレを手に入れられるのはそいつらだけ。
それは、直観的なことだ。
そいつらは、オレに質問したりしない。そして、オレもまたそいつらに答える必要はない。
オレは、多くの人間が通り抜けるのを恐れる出入り口のようなもの。
人がオレを見る時、彼らはオレの中に自分自身の姿を見ているのだと思っている。
どんな服を着ていようとも、オレはとても赤裸々だ。
オレは、ヤツらの鏡なんだ」
美容院を辞めて、ケンジントンにあるリンの家に一緒に暮らすようになったピート。
その内彼らは自分達でショッキングピンクの安い合成皮革からセーターを作ってアクメ アットラクションズに卸したり、モヘアのつぎはぎで紐を編んでそれからカーディガンを作りウェストウッドに15ポンドで売ったり、リンがそれでまたセーターを編んだりと、何やらデザイナーのようなことをし始めますが、
結局それだけでは十分な量を確保することが出来なかったため、ピートはリバプールのケーシー通りに部屋を借り、近くにあったユダヤ人のショップに材料を調達しに行きます。
大量の先のとんがった'60年代の靴やクロコの革などを買えるだけ買い、買えなかった残りの分をあろうことか、ピートはそこにだぶだぶのコートを着て盗みに入ってせしめている(←コラコラ

やがて、そのショップにはパンク仲間が沢山集まるようになります。
ちょうどその頃、セックス・ピストルズが街にやって来てワンナイトギグをするのですが、ピートはヴォーカルのジョン・ライドンからリンやポール・ラザフォード、ピート・ワイリーなど、後のピートの仲間達と一緒に彼らの楽屋に招待されます。
そして、そこで自分の着ていた服をジョンに褒められロンドンに来てアクメに売ればいいと言われる。
その後もTVに出ていたビリー・アイドル(おお、懐かしい!)&ジェネレーションXの中のグループの人間がピート達のショップから買った服を着ていたりしてたので、店はだいぶ評判が良かったようです。
金銭的にも、前のヘア・サロンからは賠償金として毎週10ポンドが入って来てたし、売上もいい週は数百ポンドも稼いでいたらしい。
そんな中、ケーシー通りの部屋の賃貸契約が切れてしまった。
ところが、そこへタイミングよくプロブ・レコードのジェフ・デイビスという男がピートのショップにやって来て、店を気に入ったのか、沢山の毛皮のジャンパーとシャツを買ってくれた。
そして、事情を聞くと、
「俺達はショップの裏に空き部屋を持ってるから、そこをアンタに貸してやるよ」と言われる。
でも、レンタル料が払えないからとピートが断ると、彼は、
「いや、俺達はアンタに是非いて欲しいんだ」
と乞われ、ピートは渡りに舟とばかりに、そのリバプールの中心にあるプロブ・レコードの裏の空き部屋を借りることになりました。
そして、その場所と彼のファッションへのこだわりがまさにピートを今まで聴くだけでしかなかった音楽シーンの中へと彼を導いていくきっかけになります。
あと、もう一つ重要なのが、プロブへ引っ越す前から通っていたという『Eric's』というクラブ。
ピートが“パッド入りの洞窟”とも、“ビニールハウス”とも呼んでいたそのプロブ・アパートの一室は、彼らによって天上と壁一面をゴミ袋で、床は赤いプラスチック、窓はピンクのポリエチレンで覆われていてまるで保護室のようだったそうです。
そんな非日常の世界は、「顧客もスタッフも同様に、変わったヤツや才能のある人間達で、そんなヤツらのコミニュティーになっていた。
そこには、ピート・ワイリーや(エコバニの)イアン・マッカロク、ジュリアン・コープらが行きかい、通り過ぎていった」そうです。
けれど、肝心のピートはといえば、
その頃ほとんど表には出ずカウンターの後ろにいて、でも、それだけじゃあ退屈なので、自分が手に入れることの出来なかったレコードをかけていました。
ジェフはそんなピートに、
「アンタはアルファベットを憶えなくてもいいから、店に立っていてくれ。それだけで週50ポンド払うから」
と言います(要はショップの“カオ”ですね)。
だから、厳密に言えば、その時期のピートは音楽を聴いてはいたし、時々会話に参加もしていたけれど、リバプールの音楽シーンの中心にいたわけではありませんでした。
ピートの心はまだ、洋服にあったのです。
では、その当時の本当のミュージックシーンの中心はどこだったかというと、先に述べたエリックの店。
そこはプライベートメンバーズ制のクラブで、
1976年にオープンして以来、ブロンディ、ジェネレーションX、ザ・クラッシュ、ウルトラボックス、ジャム、ポリス、セックス・ピストルズ、そして、全てのリバプールの有名ミュージシャン達――OMDやエコー&ザ・バニーメン、ティアドロップ・エクスプローズ、ワオ!などが名を連ね、プロブや他のたまり場からほとんどの人間達が集まっていたらしく、
エリックの創始者でプロモーターでもあるロジャー・イーグルによると、ピーク時には約5,000人のメンバーが登録していたそう。
そんな規模のクラブだったからでしょうか?
1980年代の初頭に廃業になるまで、エリックは2回の警察の介入を受けています。
(ピートはそのどちらの現場にもいて、一度は逮捕されそうになっている)
それは、イギリスのバンドがその頃、より政治色を強めていたことも彼らが警察と衝突を起こした原因だったようですが、
多くの大衆がそういうイギリス系バンドを支持する中、けれど、プロモーターのロジャーだけは積極的にアメリカ系のバンドを呼び寄せます。
そして、それを一番喜んでいたのがピートだったのでしょう。
「ギグの後のギグで、オレは最前列にいた。
他のファンはイギリスのバンドの方が好みだったし、ギグの多くは半分カラだったからそれは難しいことじゃあなかった。
オレは彼らの舞台裏やソデ、控え室にも行って彼らを待っていた。
バンにも一緒に乗り込み、彼らの生活を垣間見た。
オレは受け入れられているようだった」
そう言ってやまないピートは、その年上で偉大なスター達のことを自分を彼らの世界へ導いてくれ、守ってくれた守護天使―guardian angels―とまで言っています。
なんせ、ピートにとって当時のアメリカのバンドは、常に新しいことを求め、生き生きとして、国境を越えていく力に充ち溢れていた存在だったのですから!
「そしてそれが、オレが彼らの後を追う必要を感じていた理由だった」
ドラァグ・クイーンであるウエイン・カウンティに会って、そのステージを観たことも、彼の刺激になったようです。
(ピートはそれまで、“ドラァグ・クイーン”という存在を知らなかった)
シャイで頭の禿げた年配のおじさんが、とてもじゃないけど女性には見えない化粧をし、ディートリッヒのマネをする。
でも、いざステージが始まって彼のパフォーマンスを観ていく内にそれは確実にディートリッヒになり、その見事なまでの変化にピートは感嘆します。
そんなウエイン・カウンティ&ザ・エレクトリックチェアーズとピートは、ロンドンで一時的ながら不法滞在までして一緒に暮らし、
それから、ピートをして、“アメリカ人の中のアメリカ人”とまで言わしめたジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズの台頭、デヴィッド・ヨハンセン、イギ―・ポップなどを目の当たりにしていく内に、
ピートは間違いなく、自分でプレイはしていなくとも自身でも知らず知らずの間に彼の音楽観とでもいうべき素地が、その内部に出来あがっていってたんじゃないかと思うのです。
そこでついに、ロジャーがピートにこう言います。
「オレ達と一緒にバンドをやらないか」
ピートはア然とし、「オレはバンドなんかやりたくない」と言って断るのですが、ロジャーは、そんなピートにちょっと脅しとも取れるセリフを吐きます。
「バンドを結成するか、二度とエリックに入れなくなるか、どっちかだ」と。
その頃、ピートはパンクというレッテルを貼られていたので、他のクラブの出入りを禁止されていました(サイモンに連れていかれたベア-・ポーのゲイ・クラブさえも!)
なので、エリックまで出入りを止められると、もう、彼には行くところがなかったのです。
「だけど、オレは何にも知らないんだ!」
ピートは今まで、自分がパフォーマンスをすることなぞ考えたこともありませんでした。
彼は自分のショップが欲しかった。
そして、より沢山の服を買い、ロンドンに行ってジョーダンを見るためのお金が欲しかった。
(このジョーダンという女性は多分ピートがその頃通っていたブティックのオーナーか、デザイナーかだったと思うんですが、自叙伝でははっきりと書いてないので、ちょっとそこら辺が曖昧です。スイマセンm(__)m)
そして、彼女が街にやって来た時すぐに会いに行けるように、キングスロードのアパートが欲しかった。
これが、その時ピートが望んでいたことの全てでした。
けれど、ロジャーは半ば強引にピートにバンドのメンバーを用意してしまう。
それが、初代メンバーのジュリアン・コープとピート・ワイリーです。
(余談ですが、様々なDOAのプロフィールには、彼らがピートの学校の同級生だったと書いてあって、私もそれを信じてたんですが、どうも違うようですね)
コープは当時リバプール・ポリーの生徒(多分、高校生か大学生!?)で、ワイリーは生活保護者のようだったらしい。
でも、ピートはワイリーに関してはマジで何も知らなかったようです。
本当に“なりゆき”でバンドをやるハメになってしまったピート。
彼はジュリアンの家で一週間ほどリハーサルをするのですが、
なんと、ピートは最初、マイクの代わりにほうきを持って歌っていた(笑)
で、それを見たロジャーに、
「アンタはマイクスタンドの使い方を覚えた方がいい」
と言われます

(マジで何にも知らなかったんですね、ピートって)
“Mystery Girls”はこの時のバンド名。
そして、最初はどこのバンドでもそうでしょうが、彼らはカバー曲でファースト・ギグをやっている(それはジュリアンのアイディアでしたが、ピートはこの時やった曲がキライだったみたいです)
それが、1977年、11月4日のこと。
もちろん前座で、ピートは相変わらずウェストウッドの服を着ていました。
集まったのはスキンヘッドの客ばかり。
彼は、ここでちょっとした恐怖にかられます。
それはフラッシュバックのようなもの。
ピートの目に止まったテーブルの上に置いてある、沢山の缶にグラスにボトルの数々・・・。
それらが自分に向かって飛んでくる恐怖。
けれど、終わってみれば、スキンヘッドの彼らは誰一人として、ピートを殴らなかった。缶も飛んではこなかった。
それが、ピートをやる気にさせます。
彼はマイクスタンドを使いこなし、歌もちゃんと歌えた。
しかもハコは満杯だった。
ピートは自分に初めて歯が生えてきたような、そんな達成感を感じていました。
このことに気を良くして何とかバンドをやっていく気になったピート。
けれど、しばらくはバンドの方向性を探る試行錯誤の日々が続きます。
ジュリアンのアイディアでバンドメンバーの配置を変えてドラムをステージの前に置き、ピートはその後ろで火のついたブランケットをかぶってみたり(ゲッ、マジで!?

そんな中、ピートはまたもや自分の音楽の方向性にインスピレーションを与えるミュージシャンに出会います。
それは、『You Make Me Feel(Mighty Real)』のシルヴェスター。
何だか、これまたオトコかオンナかわからん出で立ちと声ですが、彼女はれっきとした女。
(どーもピートはビジュアル的にこーゆー男性的な女性に強く惹かれるよーです)
音楽自体も彼女のやっているものが自分のやりたかったものだと言っているように、彼の欲しかったものは“振動”。
それを作りだすことの出来る機械がありました。
それは、シーケンサー(日本語に直すと、電子自動演奏装置 笑)
ロジャーの提案でバンド名を“Nightmares in Wax”に変えた頃、ピート達は貯金していたお金でようやくこのシーケンサーを購入します。
ところが、200ポンドもしたこの機械を誰も使いこなせず、騒音しか出せないことにガックリする。
そして、もう一つピートをガックリさせたのが、彼自身の声。
ピートは、自分がシルヴェスターのようなファルセット・ヴォイスが出せると思っていました。
ところが、自分の声はテノールかバリトンまでしか出せないと知って大ショックを受けます。
(え~、でも私はボーイ・ソプラノは好きだけど、男性のファルセットって、昔変声期前に去勢して作られたカストラートでもあまり好きじゃないし、ピートはあの魅惑の低音ヴォイスだからこそいいのに、人間ってやっぱないものねだりなんですかね~^_^;)
新しいバンド名が気に入らないのもネックだった。
ピート自身は“Sex and Violence”という名前にしたかったようですが、他のバンドメンバーに反対されます。
(“セックスと暴力”だなんて、これも大概ベタですよね

とにかく、その頃インディーズレーベルと契約して、EPを3枚も出していろんなところでギグをやっていたにもかかわらず、「どんなに物事が上手くいっていようと、オレはその名前でやっていくことだけは出来なかった」というくらいそのバンド名を毛嫌いしていたピートは、
次に発売した『Flowers』を“So It Goes”でやることになり 、この時に名前を載せる段になって、あわててバンド名変更会議をメンバーと持ちます。
そこでピートが“Those Who Died Young(若くして死んだ人々)”とか言ったもんだから、ギタリストが「そんな名前のバンドにいることが母親にバレたら、オレは引きずり戻される」と言う。
「じゃあ、オレ達は一体何をやるつもりだ?」
ピートが尋ねると、それに対して彼が言った言葉が、
「Wanted:Dead or Alive!」
「それは、何てドラマチックだったろう」
――このやりとりで“Dead Or Alive”のバンド名が決まったのです。
(今まで伝え聞いていたのとはちょっと違いますよね)
ところで、『Flowers』は暗くてシルヴェスターらしくないと、あまり評判が良くありませんでした。
まだシーケンサーを使いこなせていなかったし、その間にもミュージックシーンには次々と新星が現れていく。
でも、『Misty Circles』辺りから、段々事態が好転して行きます。
ピートはウエイン・ハッシーを迎え、他にも才能はあるが、中々世間に認めてもらえないようなミュージシャン達を積極的に取り込んでいった。
(後のDOAのメインメンバー、マイクやティム、スティーブはこの頃からバンドに参加したのかも知れませんが、この3人のことはその出会いやきっかけなどがほとんど語られていないためわかりません。ナゼなんでしょうね!?(・・?
あと、このウエイン・ハッシーというギタリストは後に、ピート達がシーケンサーを使いこなせるようになっていってからは徐々に出番がなくなり、そのことを逆恨みしたのか、彼らの音楽性をけなしたメモを残しその後脱退していきます。
その文面はけっこー辛辣で、最後のところにはこう書いてありました。
「多分ピートが死んだら、オレがその葬式の司会をしてやるさ」
・・・ああ、その時のピートの悲しみといったら!)
それから、カメラマンだったフランチェスコ・モリーナがマネージャーになり、ラフ・トレードと契約し、ドリーン・アレンをアシスタントに添え、彼らはボールド通りにオフィスを構えレーベルを設立します。
そして、それに合わせてギグも大きくなっていった。
リンと結婚したのはそんなさなかの1980年の8月のことでした。
その頃には住居もキャサリン通りにある週6ポンドの住宅協会アパートに変え、ショーを続けながらプロブのショップでもまだ週に2,3回は働いていました。
大学が近くにあったので本好きのピートはいろんな本も借りていた。
それは、それなりに満ち足りた生活でした。
そんな中、ピート達はいろんなメジャーレーベルの目に留まるようになり、やがて、1982年のエピックとの契約に繋がっていくのです――。
さて。
これ以降のことは、前回エピックとの関係性を書いたところに大体まとめた通りでなので今回は割愛しますが、そんな中でも私が敢て書いてこなかったエピソードが2つあります。
その内の一つが、『You Spin Me Round(Like a Record)』の作り方。
(もう一つの方はまた【自叙伝編】にてお伝えしたいと思いますので、お楽しみに)
エピックと契約してから最初に発表したのが、ゼウス・Bと一緒に作った『Sophisticated Boom Boom』
このアルバムの頃にはだいぶ今までのゴス調のサウンドは影を潜め、ピートのやりたかったディスコ・ミュージックに近づいていってますが、
次の曲を作る段になって、ピートはディヴァインの『Nature Love』を聴き、そのサウンドに強く惹かれます。
「オレは、その音がめちゃくちゃ欲しかった。そして、探しに探して、それがボビー・Oという人物によってプロデュースされたものだとわかった」
ピートは彼に自分達の音楽をプロデュースしてもらうべくエピックにかけ合いますが、アメリカまでの費用を出したくなかったエピックはけんもほろろ。
そこで、ピートは今度はディヴァインの新曲『You Think You're a Man』を聴き、これも『Nature Love』ほどではないものの、気に入ります。
けれど、実はこれはボビー・Oの仕事ではありませんでした。
では、誰がプロデュースしたのか?
「その人物はロンドンにいて、皆からこう呼ばれていた。
マイク・ストック、マット・エイトキン、そして、ピート・ウォーターマン」
これが、ピートとSAWとの出会いのきっかけでした!
では、ここでそのきっかけになったディヴァインの『You Think You're a Man』を聴いていただきましょう。
ディヴァインはもちろん元♂のドラァグ・クィーンなので、まぁ、その容姿は置いとくとして、このベースのサウンド、もろスピン・ミーですよね!
そして、更にピートはこの音を基本に次の二つの曲を重ね合わせます。
一つ目は、ルーサー・ヴァンドロスの『I Wanted Your Love』
もう一つがリトル・ネルの『See You 'Round Like a Record』
でも、これだけ聴いた感じでは、サビのエッセンスは似ていますが、スピン・ミーとは丸っきり別モノの曲なので、ピートの作曲方法というのは彼の言葉を借りるなら、
「オレは何かを聴く。そして、オレはその上に別のメロディーを重ねて歌う。オレは机に座ってルーサー・ヴァンドロスを研究したわけじゃない。
オレは歌を聴いて、それをロックするんだ」
という形になるようです。
だから、ピートの場合は初めに既成の曲ありきで、そこからインスパイアされた彼のイメージを、様々な手法を使って作り上げるというパターンになるのだと思います。
そして、まさにそのDOAサウンドを作るのにあの時期一番、ピートのお眼鏡にかなったのがSAWで、しばらくはお互いが一緒に音楽を作ることに最大限の喜びと闘争心を持っていた彼らなのに、
『Mad, Bad and Dangerous to Know』を作り終えた後からは、SAWはその内他のミュージシャン達とも仕事をするようになるにつれ、段々忙しくなっていった。
そんな中でも、彼らはピートのために曲を作ってくれるのですが、ピートはそれを受け入れませんでした。
いえ、受け入れられなかったと言うべきでしょうか。
「オレは当時、他の誰かが自分のために作った曲をどう解釈したらいいのか、全くわからなかった。
それは、子供が欲しくて赤ん坊を養子にしたのに、その子に乱暴してしまうようなものだ。
オレは、物事をどうしたらいいのか、さっぱりわからなかったんだ!」
前回の記事で、私は、SAWが「彼らは俺達の作った曲で歌わなかった唯一のグループだった」と言っていたことを書きました。
ピートは今でも、ウォーターマンのことを愛していて、彼とまた仕事がしたいと言っています。
だから、決して彼らとは、エピックとのように、最悪な形で関係を終わらせたのではなかったのです。
ただ、その当時のピートがほんの少し不器用だっただけ。
多分、その頃お母様が亡くなって、スピン・ミーに次ぐヒットを出さなきゃならないというプレッシャーや、自分の周囲の環境が激変していたことも関係あったのだと思います。
――ああ~、もう!!
なんて、愛しくていじらしいヤツなんだーー、ピートってば!!
こんな彼を、愛さずにいられましょうか!
こんな、彼がいたDOAを知ることが出来て、本当に良かった。
ピートのパフォーマンスや言動は、時としていつも誤解を巻き起こしてきたけれど、自叙伝を読んでわかったことは、彼はいついかなる時でも真剣に赤裸々に他者に向かっていたということ。
最後に、彼のこの言葉を引用して、今回の記事を閉めたいと思います。
「オレは高級なメンバーズ・クラブだ。それが理解出来るヤツだけが入ってこられる。オレを手に入れられるのはそいつらだけ。
それは、直観的なことだ。
そいつらは、オレに質問したりしない。そして、オレもまたそいつらに答える必要はない。
オレは、多くの人間が通り抜けるのを恐れる出入り口のようなもの。
人がオレを見る時、彼らはオレの中に自分自身の姿を見ているのだと思っている。
どんな服を着ていようとも、オレはとても赤裸々だ。
オレは、ヤツらの鏡なんだ」