え~、子供達が夏休みに入り、すぐさま実家に帰省して、その間に大輔くん関連の話題で盛り上がっていたりしたので、ピート様がすっかりご無沙汰になってしまいました(^_^;)
どーも、スミマセンm(__)m
で、あれから自叙伝翻訳するのはだいぶ早くなって来たんですが、
いかんせん【整形編】のまとめにかかるにはもう少し時間がかかりそうなので、
ここらでちょっと趣向を変えて、ピートが今までに影響を受けてきたアーティスト達をPVでご紹介しつつ、あのDOAがどのよーに形作られていったかを書こうかなと。
というのもですね、
自叙伝読んでいくと、ピートの音楽へのアプローチの仕方がちょっと他のミュージシャン達とは変わってるので、
(と言いつつ私も似たようなところがあってビックリしたんですが)
そのアプローチの仕方だけで一個の記事が書けるんじゃないかと踏んだ次第。
何となく薄々気付いてらっしゃる方もいるとは思いますが、
彼は絶対的な右脳人間のようでして、全ての事象をビジュアルから捉えています。
そんなピートを私は“母子密着の絵描き人”だと勝手に命名してまして、
(その一方で母子密着の弊害にはまらず、冷静かつ、割と客観的な目を持ってるのは、知的でウィットに富んでいたというお父様の方の影響があるからでしょう)
しかも、彼が好むその対象物が激しく偏っていることから、これだけでも充分取り上げるべき材料があるということなのですが、
ま、この辺に関しては【整形編】や【自叙伝編】にもかぶるので、後でまた詳しく考察します。
さて。
ピートが初めて音楽に触れたと思われるのは、多分4、5歳の頃。
皆さんもご承知の通り、ピートには11歳年の離れた兄のトニーがおります。
その頃トニーはちょうどグラマー・スクール(日本の公立中学の一つにあたり、12歳~15歳までの成績優秀者が通う学校です。その他にテクニカル・スクールとセコンダリー・モダーン・スクールというのがあって、それぞれ成績別に自動的に振り分けられていたそう。
それに対して私学のお坊ちゃま達が通うのがパブリック・スクールですねー。『アナカン』や『if...もしも』などの世界です
でも、今はグラマー・スクール他3つの学校はほとんどなく、コンプリペンシブ・スクールという総合中学が一般的になっているんですが、まぁ、イギリスの学校のことについて話し出すとまた長くなるのでこの辺で^_^;)に通っていて、毎日午後4時頃学校から帰宅すると、すぐ友達と遊びに行ってたらしいので、ピートは彼のことについてはあまりよくわからないそうです。
トニーはピカピカ光ったピンクのレコード・プレーヤーと、お気に入りの'60年代のレコードコレクションを沢山持っていました。
そして、ピートはいつも、侵入禁止だった彼の部屋から聴こえてくる音楽を、ドア越しに聴いていたそう。
そんな中でも印象に残っているのが、
トニーがお気に入りのギターでよくバンドの真似事をしていたということ。
トニーはポップスターになりたかったようです。
それは、時、まさにビートルズが一世を風靡していた頃、彼は大きな鏡の前でレコードに合わせて歌真似をすることに時間を費やしていた。
彼は、フォークサークルにも入っていたようで、まだフォークが一般的でなく彼らが路上でプレイしていた当時、今となっては考えられないことですが、『Sound of Silence』がヒットする前のポール・サイモンがなんと、ピートの家をホテル変わりにしていたそう!
他にも『Blowin' in the Wind』(私、この曲大好き!)のピーター、ピート&マリーのマリー・トラバースも。
けれど、その頃わずか4才ぐらいの幼児だったピートにとっては、彼らは別に何者でもなかった。
ただ、そんな中でもマリー・トラバースのいでたち――プラチナブロンドのエジプト風ボブ、ピートのお父様曰くボクサーのような折れた鼻と四角い顎、そしてそのちょっと大柄な身体つき・・・、そんなものにピートは強く惹かれ、「オレは今までそんなキレイなものを見たことがなかった」なんて言っている。
それだけインパクトがあったってことなんでしょうが、まぁ、このスタート時点からして既にピートはビジュアル指向の人間だったというのがよくわかります。
トニーの持っていたレコードも、プレーヤーに近づくことが出来なかったピートは、音を含めた中身には興味を持たず、惹かれたのは専らその外観・・・レコードジャケットの方でした。
彼はその中の何枚かのジャケットに強い執着を持つようになった。
(その中にはもちろん、メラニー・サフカのアルバムも含まれていました)
ピートは、その頃、何時間でも飽きるまでそのジャケットを眺めていたそう。
「オレは聴くより前に、ビジュアルで惹き付けられなくちゃならない。それは音楽だけに限ったことじゃないがね」
この言葉を読んで、私も全く同じ傾向があることに気付きました。
私も、音楽はそれほどではありませんが、漫画や映画、人物など、まずビジュアルから入る人間なのです。
まず、「綺麗じゃなくちゃダメ」
これが、私の出発点です。
それと、ピートほどではないけれど、自分の外観とその“美”の基準にこだわるところも似てるかも。
ただ、凡人と才人の違いは、私のよーな凡人はそんなこだわりがある一方、周りの目を気にして“普通”とのバランスを取ってしまうんですが、これがピートや数多の才人だとそのこだわりを生涯通してしまって、ややもすると、そのバランスを崩してしまうところ。
そして、それすらも彼らの魅力になってしまうところでしょうか――。
ピートは小さい頃は絵を描くのが大好きだったらしいので(ハハ、これも私と一緒)彼がバンドではなく、デザイナーなんかを選んでいたとしたら(ヴィヴィアン・ウェストウッドが好きで、自ら服のショップを開いていたくらいですから)そしたら、もう少し違った人生になっただろうとも思いますけど、
(カンケーないですが、私もウェストウッドは20代の頃好きで一時期着てたことがあります。私はパンクじゃなかったけどネ)
ああー、でもやっぱり、
ピートの場合、自分自身が展示物みたいなものだったから、裏方関係は向いてなかったかもなぁ
・・・なんて、
イロイロ想像したりしてますが。
さて、そんなピートが次に衝撃的な出会いをしたのが、トニーと一緒に観ていたTVのポップショーの中で歌っていた、アメリカ人男女のデュオ、ソニー&シェール。
母方がネイティブ・インディアンの血を引くというシェールの容貌は、最初ピートをして男性だと思わしめます。
その、漆黒の髪に少し粗い肌、強い顔立ちにハスキー・ヴォイス・・・。
ここで、まず、ピートが自叙伝の冒頭で、彼が小さい頃お母様のブーツをはいて鏡の前でよくマネをしていたというナンシー・シナトラの動画を観ていただきましょう。
これは、私も子供の頃TVのCMで流れていたのを聴いた覚えがあるので、皆さんもご存じの方が多い筈。
『Suger Town』です。
そして、こちらは、そのナンシーの容貌がよくわかる『Bang Bang』
これ見ると、そういえばあの当時日本もこーゆーファッションスタイルが流行ってたよなぁと、おぼろげながらも思い出しますよね(特に自分達の母親世代)
リカちゃんやバービーもみんなこんなだったっけ。
特にあのミニスカとロングブーツ(今ならニーハイブーツでしょうが)がインパクト大で、そーいやピートはこのブーツに対してもやたらフェティッシュなこだわりを見せていましてですね、
自叙伝の中に出てくるブーツの名前だけでも、“ナンシー・シナトラGo Goブーツ”やら“ボクシングブーツ”やら“スティレット・ブーツ”やら“SEXブーツ”やら、
え?それの違いは何!?!?(@▽@;)
って、ふつーのスタイリストやピ―コですらそれほど知らないんぢゃないかってェーくらい、いろんな名前が出てくる
ま、このブーツはピートにとって、彼が惹かれるビジュアルの必須アイテムの一つだったみたいですから、それもトーゼンなんでしょうが、
その彼が強烈に惹かれたビジュアルが、このシェールに代表されるものです。
上の映像は、多分ピートがトニーとTVで観てた頃のシェールの容貌。
確かに、インディアン系のエキゾチックな顔立ちとドスの利いた声に一度見たら忘れられない個性を感じますよね。
でも、次の映像にはちょっと興味深いものがあります。
歌はナンシー・シナトラのカバー曲『Bang Bang』
(も、これだけでも、何かしらの因縁を感じますけど)
この映像の中のシェールの姿、誰かに似てませんか?
そう!『Rip it Up』のTバック姿のピートです!!
「オレには、自分が何をステキだと思うかわかっていた。
彼女らは、大抵漆黒のアイライナーを塗り、逆立てた真っ黒な髪に、青白く塗った唇、そしてスティレット・ブーツを履いていた。
そしてそれは、男性のものとイギリス由来のものには何一つオレの若い頃の興味をそそらなかったことを意味していた」
という彼の言葉からもわかるように、
'80年代の頃のピートは明らかにシェールを意識した格好をしていて、
あろうことか、'87年のシェールの主演映画『月の輝く夜に』のプレミアの日にピートはそこを訪れ、皆からシェールと間違われています。
(ま、でもピートは彼女のことを相当リスペクトし、憧れてもいるので、これは明らかに好意からくる行動だと思いますけどね)
でも、そんなピートに対して、シェールはその後『Believe』の頃に偶然再会するのですが、近寄ってきたピートをテキトーにあしらい逃げてしまうんですよ~~
ピートはただ、彼女を褒めたたえ、感謝の気持ちを言いたかっただけなのに。
でも、実際彼は慌ててしまっていた。
ピートは、彼女のスタイリストであるマイケル・シュミットとその『Rip it Up』で一緒に仕事をしているし、当時自分の『Come Home(With Me Baby)』もアメリカでNo.1を取っていたので、彼女が自分のことを知らない筈はないと主張しているのですが、だとしたら余計切ないよなぁと思います。
同じ芸能人でも、追いかける立場の方になると、誰でも自分の方が弱気になっちゃうのは古今東西一緒なんですかね。
(そーいえば、大輔くんも竹内結子に話しかけた時、ファンの気持ちがよくわかったとか言ってたし)
ともあれ。
かように脱兎の如く逃げられても「彼女こそ現代の本物のディーバだ!」と言ってシェールのことを愛してやまないピートですが、そんな彼が彼女と同じくらい当時熱を上げてたのが、アメリカのフォークシンガーだったメラニー・サフカ。
この歌は『Lay Down』ですけど、
その頃ピートが全部持っていたというポスター付きのアルバムなどのイメージがこの映像だとよくわかるかも知れません。
(ピートはそのポスターを壁に貼りまくっていたらしい^_^;)
そして、メラニーの歌っている姿を見られるのがこれ、『Brand New Key』
ですが、ここで誤解のないよう言っておくと、ピートがこれらの女性達を好きだったのはあくまで彼の美意識にかなった存在だったからで、そこには性的な憧れや衝動は一切なかったようです。
(まぁ、ふつーは反対なんですがね)
だって、彼はあの当時のセックスシンボルだったブリジット・バルドーを見てさえ、
「Gender didn't enter into it.It was just beauty to me.(性はそこには入ってこなかった。それは、まさにオレにとっての“美”だったのだ」
と言ってるくらいですから。
だから、お次の、(あのピートのバックバージンを奪った)サイモンが乗っていた車にかかっていたスージー・クアトロにしても、ナンシーにしても、シェールにしても、彼女達はみーーーーんな、ピートの自分がなりたかった姿なのです。
うん、こうして見ると、スージーもけっこーインパクトありますよね~。
そして、やっぱり、皆どことなーく共通点がある。
でも、こんな風に早くから自分の追い求めるイメージがはっきりしてる子も珍しいですよね。
音楽にしても、彼はその頃トニーの友人が乗っていた車から聴こえてきたビーチ・ボーイズやムーディ・ブルース、リンダ・ロンシュタットなどの曲を、キレイではあるけれど、「やってみたい」とは思わなかったと言ってるし、その後徐々に売れ始めて来たD・ボウイに至ってはさりげなく敵対心まで持ってる。
(その割にはカバーやってますがね^_^;)
とにかく、幼少期のピートにとっては全てこれアメリカ製で、10代後半のクラブに通うようになってもそれは変わらず、ピートは自叙伝の中で、
「オレは、自分がアメリカの魂を持っていると信じている」
と言っているくらい、彼のアメリカへの憧憬と繋がりには深いものがあるようです。
そんなピートが、では、いかにして自らバンドをやるようになったのか。
前にもチラッと書きましたが、ピートは13歳の時に知り合ったサイモンというゲイの男と関係を持ったことがバレて、家はおろか、村にもにいられなくなります。
それで、リバプールまで出るのですが、その時ピート14歳。
最初はヴァージン・レコードでヒッピー達に混じってアルバムの値札を交換する仕事をしていた彼ですが、
当時イギリスの流行の最先端だったブティック『Biba』に通うためその頃ロンドンで暮らしていた兄の家に泊まりながら市内を歩いている内、リンの働いていたヘアー・サロン『A Cut Above the Rest』を偶然見つけます。
そして、その内装などをウインドウごしに眺めている内、ピートは「オレは美容師になりたい」と思う。
中に入り、試しに仕事はないか訪ねてみると、土曜だけ雇ってもらうことが出来た。
日本だと14歳で何の身元の保証もないのに、そんなすんなり雇ってもらえるなんてあり得ないことですが、その頃のイギリスは先述した中学を出て高校、大学にまで進学するエリートはほんの一握りで、大半は16歳で労働職に就くのが当たり前だったため、
本人曰く、「オレは14歳よりいくらか歳取って見えたから雇ってもらえたんだろう」とのこと。
でも、そんな美容師の仕事もピートはしょっぱなからパーマ用のロットの違いがわからず従業員にどなられケンカ、
リンになだめすかされ仕事に戻り、しばらくは何とか続けますが、
その内この二人の前衛的でパンクなファッションが店の中でも浮くようになり、やがて街の人達が物見遊山で店の窓から覗くのを警備員さえコントロール出来なくなり、彼らはクビになってしまいます。
ここで疑問なのが、そんな一般人のファッションがなぜそこまで問題になったのかということ。
いろいろ調べてわかったことは、
その当時、ヴィヴィアン・ウェストウッドの創始者であったマルコム・マクラーレンが創り上げたバンド、セックス・ピストルズを筆頭としたパンク・ファッション及びそれに身を包んだ若者達を、イギリスのTV番組の司会者、ビル・グランディーが自身のショーの中でパンクは攻撃的で反社会的だというレッテルを貼ったため、それをきっかけに一般の保守層が彼らを一斉に叩き出したからです。
そして、ピートはまさにそのムーブメントの渦中である、マクラーレンが経営していたブティック『SEX』(ウェストウッドの前身)や、同じく当時パンク発祥の地と言われていた『Acme Attractions』に出入りしていて、ピート自身も「I was a punk(オレはパンクだった)」「それは今ではファッションだが、1977年にはそれは政治声明だった」と言っているくらい、
「リンとオレは幽霊のように顔を白くし、オレは真っ黒なドレッドヘアーに肌色のゴム製のストッキングを履き、ピンクのハイヒールにバイクタイプのTシャツ、そして小さなグローブをつけていた。
リンは'60年代専門のヘアサロンでセットした髪に濃いめのアイライナーを塗っていて」
またある時は、
「でかいドレッドヘアーに半分黄色い額、サイドを剃ったりペイントした頭、それに完璧に白い顔に白い睫毛、黒いコンタクトレンズをつけた」ピートや、これまた「'60年代のタートルネックセーターに体操用のニッカ-(ブルマのようなもの)を履き、ストッキングにめちゃめちゃでかいサスペンダーをし、丸いつま先のハイヒールに黒のグローブ、目には相変わらず濃いめのアイライナーを塗っていた」リン。
そんな格好を普段からしていた彼らは当然、その降って湧いたバッシングの嵐に晒されることになり、
その頃サロンのオーナーと付き合っていた受付嬢からもファッションが脅威的だとあらぬ言いがかりをつけられ、クビにさせられた挙句、
仕事を辞めお父様の計らいで家までの帰途の安全が確保されるよう国有鉄道にかけ合い手配してもらった列車のファーストクラスに乗り込もうとしたまさにその時、
「汚らしいパンク野郎め!」
と何人かの一般人にどつかれ窓にビンを投げつけられます。
そのファーストクラスには、ピート達のためだけにガードマンがつけられていました。
「奇妙な出来事だったが、オレ達はVIPのような扱いを受けた。それは、オレが騒ぎを引き起こし、リンも一緒だったことからオレ達にポップスターダムの階段を昇るための準備をさせてくれた」
とは、ピートらしい後日談ですが、
彼がその一連の出来事をお父様に相談したため、お父様はピートに病院へ行って神経症状の診断書を貰ってこさせ、それを不当解雇だとして産業裁判所に訴えたことによって、ピートは一時的に数千ポンドの賠償金を手にすることになります。
そして、一旦はリンと共にポート・サンライトの実家に戻ってくるものの、その頃になるとアル中だったお母様が本格的な発作を起こしていたので、それを見たリンがピートに「あなたはここにいてはいけないわ」と言って彼を自分の家に連れて行くのです。
それから彼らは、今度はそこを拠点にして先の賠償金を元手に部屋を借り、自分達で作った服やアイテムを売り出すのですが、
ピートはこの自分のショップにかなり強い執着を持っていくんですよねー。
では、果たしてそんな彼がこの後どうして、音楽の方へ進んでいくのか。
それについてはもう字数も足りないため、次の回に譲るといたしましょう。
そこでは『You Spin Me Round(Like a Record)』のつくり方もご披露出来ると思いますので、どーぞお楽しみに。
(あ、もう自叙伝読んで知ってらっしゃる方はご内密にネ(^_-)-☆)
でも、今回は一回で終わると思ってたのになぁ・・・ザンネン
どーも、スミマセンm(__)m
で、あれから自叙伝翻訳するのはだいぶ早くなって来たんですが、
いかんせん【整形編】のまとめにかかるにはもう少し時間がかかりそうなので、
ここらでちょっと趣向を変えて、ピートが今までに影響を受けてきたアーティスト達をPVでご紹介しつつ、あのDOAがどのよーに形作られていったかを書こうかなと。
というのもですね、
自叙伝読んでいくと、ピートの音楽へのアプローチの仕方がちょっと他のミュージシャン達とは変わってるので、
(と言いつつ私も似たようなところがあってビックリしたんですが)
そのアプローチの仕方だけで一個の記事が書けるんじゃないかと踏んだ次第。
何となく薄々気付いてらっしゃる方もいるとは思いますが、
彼は絶対的な右脳人間のようでして、全ての事象をビジュアルから捉えています。
そんなピートを私は“母子密着の絵描き人”だと勝手に命名してまして、
(その一方で母子密着の弊害にはまらず、冷静かつ、割と客観的な目を持ってるのは、知的でウィットに富んでいたというお父様の方の影響があるからでしょう)
しかも、彼が好むその対象物が激しく偏っていることから、これだけでも充分取り上げるべき材料があるということなのですが、
ま、この辺に関しては【整形編】や【自叙伝編】にもかぶるので、後でまた詳しく考察します。
さて。
ピートが初めて音楽に触れたと思われるのは、多分4、5歳の頃。
皆さんもご承知の通り、ピートには11歳年の離れた兄のトニーがおります。
その頃トニーはちょうどグラマー・スクール(日本の公立中学の一つにあたり、12歳~15歳までの成績優秀者が通う学校です。その他にテクニカル・スクールとセコンダリー・モダーン・スクールというのがあって、それぞれ成績別に自動的に振り分けられていたそう。
それに対して私学のお坊ちゃま達が通うのがパブリック・スクールですねー。『アナカン』や『if...もしも』などの世界です
でも、今はグラマー・スクール他3つの学校はほとんどなく、コンプリペンシブ・スクールという総合中学が一般的になっているんですが、まぁ、イギリスの学校のことについて話し出すとまた長くなるのでこの辺で^_^;)に通っていて、毎日午後4時頃学校から帰宅すると、すぐ友達と遊びに行ってたらしいので、ピートは彼のことについてはあまりよくわからないそうです。
トニーはピカピカ光ったピンクのレコード・プレーヤーと、お気に入りの'60年代のレコードコレクションを沢山持っていました。
そして、ピートはいつも、侵入禁止だった彼の部屋から聴こえてくる音楽を、ドア越しに聴いていたそう。
そんな中でも印象に残っているのが、
トニーがお気に入りのギターでよくバンドの真似事をしていたということ。
トニーはポップスターになりたかったようです。
それは、時、まさにビートルズが一世を風靡していた頃、彼は大きな鏡の前でレコードに合わせて歌真似をすることに時間を費やしていた。
彼は、フォークサークルにも入っていたようで、まだフォークが一般的でなく彼らが路上でプレイしていた当時、今となっては考えられないことですが、『Sound of Silence』がヒットする前のポール・サイモンがなんと、ピートの家をホテル変わりにしていたそう!
他にも『Blowin' in the Wind』(私、この曲大好き!)のピーター、ピート&マリーのマリー・トラバースも。
けれど、その頃わずか4才ぐらいの幼児だったピートにとっては、彼らは別に何者でもなかった。
ただ、そんな中でもマリー・トラバースのいでたち――プラチナブロンドのエジプト風ボブ、ピートのお父様曰くボクサーのような折れた鼻と四角い顎、そしてそのちょっと大柄な身体つき・・・、そんなものにピートは強く惹かれ、「オレは今までそんなキレイなものを見たことがなかった」なんて言っている。
それだけインパクトがあったってことなんでしょうが、まぁ、このスタート時点からして既にピートはビジュアル指向の人間だったというのがよくわかります。
トニーの持っていたレコードも、プレーヤーに近づくことが出来なかったピートは、音を含めた中身には興味を持たず、惹かれたのは専らその外観・・・レコードジャケットの方でした。
彼はその中の何枚かのジャケットに強い執着を持つようになった。
(その中にはもちろん、メラニー・サフカのアルバムも含まれていました)
ピートは、その頃、何時間でも飽きるまでそのジャケットを眺めていたそう。
「オレは聴くより前に、ビジュアルで惹き付けられなくちゃならない。それは音楽だけに限ったことじゃないがね」
この言葉を読んで、私も全く同じ傾向があることに気付きました。
私も、音楽はそれほどではありませんが、漫画や映画、人物など、まずビジュアルから入る人間なのです。
まず、「綺麗じゃなくちゃダメ」
これが、私の出発点です。
それと、ピートほどではないけれど、自分の外観とその“美”の基準にこだわるところも似てるかも。
ただ、凡人と才人の違いは、私のよーな凡人はそんなこだわりがある一方、周りの目を気にして“普通”とのバランスを取ってしまうんですが、これがピートや数多の才人だとそのこだわりを生涯通してしまって、ややもすると、そのバランスを崩してしまうところ。
そして、それすらも彼らの魅力になってしまうところでしょうか――。
ピートは小さい頃は絵を描くのが大好きだったらしいので(ハハ、これも私と一緒)彼がバンドではなく、デザイナーなんかを選んでいたとしたら(ヴィヴィアン・ウェストウッドが好きで、自ら服のショップを開いていたくらいですから)そしたら、もう少し違った人生になっただろうとも思いますけど、
(カンケーないですが、私もウェストウッドは20代の頃好きで一時期着てたことがあります。私はパンクじゃなかったけどネ)
ああー、でもやっぱり、
ピートの場合、自分自身が展示物みたいなものだったから、裏方関係は向いてなかったかもなぁ
・・・なんて、
イロイロ想像したりしてますが。
さて、そんなピートが次に衝撃的な出会いをしたのが、トニーと一緒に観ていたTVのポップショーの中で歌っていた、アメリカ人男女のデュオ、ソニー&シェール。
母方がネイティブ・インディアンの血を引くというシェールの容貌は、最初ピートをして男性だと思わしめます。
その、漆黒の髪に少し粗い肌、強い顔立ちにハスキー・ヴォイス・・・。
ここで、まず、ピートが自叙伝の冒頭で、彼が小さい頃お母様のブーツをはいて鏡の前でよくマネをしていたというナンシー・シナトラの動画を観ていただきましょう。
これは、私も子供の頃TVのCMで流れていたのを聴いた覚えがあるので、皆さんもご存じの方が多い筈。
『Suger Town』です。
そして、こちらは、そのナンシーの容貌がよくわかる『Bang Bang』
これ見ると、そういえばあの当時日本もこーゆーファッションスタイルが流行ってたよなぁと、おぼろげながらも思い出しますよね(特に自分達の母親世代)
リカちゃんやバービーもみんなこんなだったっけ。
特にあのミニスカとロングブーツ(今ならニーハイブーツでしょうが)がインパクト大で、そーいやピートはこのブーツに対してもやたらフェティッシュなこだわりを見せていましてですね、
自叙伝の中に出てくるブーツの名前だけでも、“ナンシー・シナトラGo Goブーツ”やら“ボクシングブーツ”やら“スティレット・ブーツ”やら“SEXブーツ”やら、
え?それの違いは何!?!?(@▽@;)
って、ふつーのスタイリストやピ―コですらそれほど知らないんぢゃないかってェーくらい、いろんな名前が出てくる
ま、このブーツはピートにとって、彼が惹かれるビジュアルの必須アイテムの一つだったみたいですから、それもトーゼンなんでしょうが、
その彼が強烈に惹かれたビジュアルが、このシェールに代表されるものです。
上の映像は、多分ピートがトニーとTVで観てた頃のシェールの容貌。
確かに、インディアン系のエキゾチックな顔立ちとドスの利いた声に一度見たら忘れられない個性を感じますよね。
でも、次の映像にはちょっと興味深いものがあります。
歌はナンシー・シナトラのカバー曲『Bang Bang』
(も、これだけでも、何かしらの因縁を感じますけど)
この映像の中のシェールの姿、誰かに似てませんか?
そう!『Rip it Up』のTバック姿のピートです!!
「オレには、自分が何をステキだと思うかわかっていた。
彼女らは、大抵漆黒のアイライナーを塗り、逆立てた真っ黒な髪に、青白く塗った唇、そしてスティレット・ブーツを履いていた。
そしてそれは、男性のものとイギリス由来のものには何一つオレの若い頃の興味をそそらなかったことを意味していた」
という彼の言葉からもわかるように、
'80年代の頃のピートは明らかにシェールを意識した格好をしていて、
あろうことか、'87年のシェールの主演映画『月の輝く夜に』のプレミアの日にピートはそこを訪れ、皆からシェールと間違われています。
(ま、でもピートは彼女のことを相当リスペクトし、憧れてもいるので、これは明らかに好意からくる行動だと思いますけどね)
でも、そんなピートに対して、シェールはその後『Believe』の頃に偶然再会するのですが、近寄ってきたピートをテキトーにあしらい逃げてしまうんですよ~~
ピートはただ、彼女を褒めたたえ、感謝の気持ちを言いたかっただけなのに。
でも、実際彼は慌ててしまっていた。
ピートは、彼女のスタイリストであるマイケル・シュミットとその『Rip it Up』で一緒に仕事をしているし、当時自分の『Come Home(With Me Baby)』もアメリカでNo.1を取っていたので、彼女が自分のことを知らない筈はないと主張しているのですが、だとしたら余計切ないよなぁと思います。
同じ芸能人でも、追いかける立場の方になると、誰でも自分の方が弱気になっちゃうのは古今東西一緒なんですかね。
(そーいえば、大輔くんも竹内結子に話しかけた時、ファンの気持ちがよくわかったとか言ってたし)
ともあれ。
かように脱兎の如く逃げられても「彼女こそ現代の本物のディーバだ!」と言ってシェールのことを愛してやまないピートですが、そんな彼が彼女と同じくらい当時熱を上げてたのが、アメリカのフォークシンガーだったメラニー・サフカ。
この歌は『Lay Down』ですけど、
その頃ピートが全部持っていたというポスター付きのアルバムなどのイメージがこの映像だとよくわかるかも知れません。
(ピートはそのポスターを壁に貼りまくっていたらしい^_^;)
そして、メラニーの歌っている姿を見られるのがこれ、『Brand New Key』
ですが、ここで誤解のないよう言っておくと、ピートがこれらの女性達を好きだったのはあくまで彼の美意識にかなった存在だったからで、そこには性的な憧れや衝動は一切なかったようです。
(まぁ、ふつーは反対なんですがね)
だって、彼はあの当時のセックスシンボルだったブリジット・バルドーを見てさえ、
「Gender didn't enter into it.It was just beauty to me.(性はそこには入ってこなかった。それは、まさにオレにとっての“美”だったのだ」
と言ってるくらいですから。
だから、お次の、(あのピートのバックバージンを奪った)サイモンが乗っていた車にかかっていたスージー・クアトロにしても、ナンシーにしても、シェールにしても、彼女達はみーーーーんな、ピートの自分がなりたかった姿なのです。
うん、こうして見ると、スージーもけっこーインパクトありますよね~。
そして、やっぱり、皆どことなーく共通点がある。
でも、こんな風に早くから自分の追い求めるイメージがはっきりしてる子も珍しいですよね。
音楽にしても、彼はその頃トニーの友人が乗っていた車から聴こえてきたビーチ・ボーイズやムーディ・ブルース、リンダ・ロンシュタットなどの曲を、キレイではあるけれど、「やってみたい」とは思わなかったと言ってるし、その後徐々に売れ始めて来たD・ボウイに至ってはさりげなく敵対心まで持ってる。
(その割にはカバーやってますがね^_^;)
とにかく、幼少期のピートにとっては全てこれアメリカ製で、10代後半のクラブに通うようになってもそれは変わらず、ピートは自叙伝の中で、
「オレは、自分がアメリカの魂を持っていると信じている」
と言っているくらい、彼のアメリカへの憧憬と繋がりには深いものがあるようです。
そんなピートが、では、いかにして自らバンドをやるようになったのか。
前にもチラッと書きましたが、ピートは13歳の時に知り合ったサイモンというゲイの男と関係を持ったことがバレて、家はおろか、村にもにいられなくなります。
それで、リバプールまで出るのですが、その時ピート14歳。
最初はヴァージン・レコードでヒッピー達に混じってアルバムの値札を交換する仕事をしていた彼ですが、
当時イギリスの流行の最先端だったブティック『Biba』に通うためその頃ロンドンで暮らしていた兄の家に泊まりながら市内を歩いている内、リンの働いていたヘアー・サロン『A Cut Above the Rest』を偶然見つけます。
そして、その内装などをウインドウごしに眺めている内、ピートは「オレは美容師になりたい」と思う。
中に入り、試しに仕事はないか訪ねてみると、土曜だけ雇ってもらうことが出来た。
日本だと14歳で何の身元の保証もないのに、そんなすんなり雇ってもらえるなんてあり得ないことですが、その頃のイギリスは先述した中学を出て高校、大学にまで進学するエリートはほんの一握りで、大半は16歳で労働職に就くのが当たり前だったため、
本人曰く、「オレは14歳よりいくらか歳取って見えたから雇ってもらえたんだろう」とのこと。
でも、そんな美容師の仕事もピートはしょっぱなからパーマ用のロットの違いがわからず従業員にどなられケンカ、
リンになだめすかされ仕事に戻り、しばらくは何とか続けますが、
その内この二人の前衛的でパンクなファッションが店の中でも浮くようになり、やがて街の人達が物見遊山で店の窓から覗くのを警備員さえコントロール出来なくなり、彼らはクビになってしまいます。
ここで疑問なのが、そんな一般人のファッションがなぜそこまで問題になったのかということ。
いろいろ調べてわかったことは、
その当時、ヴィヴィアン・ウェストウッドの創始者であったマルコム・マクラーレンが創り上げたバンド、セックス・ピストルズを筆頭としたパンク・ファッション及びそれに身を包んだ若者達を、イギリスのTV番組の司会者、ビル・グランディーが自身のショーの中でパンクは攻撃的で反社会的だというレッテルを貼ったため、それをきっかけに一般の保守層が彼らを一斉に叩き出したからです。
そして、ピートはまさにそのムーブメントの渦中である、マクラーレンが経営していたブティック『SEX』(ウェストウッドの前身)や、同じく当時パンク発祥の地と言われていた『Acme Attractions』に出入りしていて、ピート自身も「I was a punk(オレはパンクだった)」「それは今ではファッションだが、1977年にはそれは政治声明だった」と言っているくらい、
「リンとオレは幽霊のように顔を白くし、オレは真っ黒なドレッドヘアーに肌色のゴム製のストッキングを履き、ピンクのハイヒールにバイクタイプのTシャツ、そして小さなグローブをつけていた。
リンは'60年代専門のヘアサロンでセットした髪に濃いめのアイライナーを塗っていて」
またある時は、
「でかいドレッドヘアーに半分黄色い額、サイドを剃ったりペイントした頭、それに完璧に白い顔に白い睫毛、黒いコンタクトレンズをつけた」ピートや、これまた「'60年代のタートルネックセーターに体操用のニッカ-(ブルマのようなもの)を履き、ストッキングにめちゃめちゃでかいサスペンダーをし、丸いつま先のハイヒールに黒のグローブ、目には相変わらず濃いめのアイライナーを塗っていた」リン。
そんな格好を普段からしていた彼らは当然、その降って湧いたバッシングの嵐に晒されることになり、
その頃サロンのオーナーと付き合っていた受付嬢からもファッションが脅威的だとあらぬ言いがかりをつけられ、クビにさせられた挙句、
仕事を辞めお父様の計らいで家までの帰途の安全が確保されるよう国有鉄道にかけ合い手配してもらった列車のファーストクラスに乗り込もうとしたまさにその時、
「汚らしいパンク野郎め!」
と何人かの一般人にどつかれ窓にビンを投げつけられます。
そのファーストクラスには、ピート達のためだけにガードマンがつけられていました。
「奇妙な出来事だったが、オレ達はVIPのような扱いを受けた。それは、オレが騒ぎを引き起こし、リンも一緒だったことからオレ達にポップスターダムの階段を昇るための準備をさせてくれた」
とは、ピートらしい後日談ですが、
彼がその一連の出来事をお父様に相談したため、お父様はピートに病院へ行って神経症状の診断書を貰ってこさせ、それを不当解雇だとして産業裁判所に訴えたことによって、ピートは一時的に数千ポンドの賠償金を手にすることになります。
そして、一旦はリンと共にポート・サンライトの実家に戻ってくるものの、その頃になるとアル中だったお母様が本格的な発作を起こしていたので、それを見たリンがピートに「あなたはここにいてはいけないわ」と言って彼を自分の家に連れて行くのです。
それから彼らは、今度はそこを拠点にして先の賠償金を元手に部屋を借り、自分達で作った服やアイテムを売り出すのですが、
ピートはこの自分のショップにかなり強い執着を持っていくんですよねー。
では、果たしてそんな彼がこの後どうして、音楽の方へ進んでいくのか。
それについてはもう字数も足りないため、次の回に譲るといたしましょう。
そこでは『You Spin Me Round(Like a Record)』のつくり方もご披露出来ると思いますので、どーぞお楽しみに。
(あ、もう自叙伝読んで知ってらっしゃる方はご内密にネ(^_-)-☆)
でも、今回は一回で終わると思ってたのになぁ・・・ザンネン