私が性暴力というものに想いを向けだしてもうすぐ10年が経つ。
その頃を考えれば、自分が今のような活動をやるようになるとは、たぶん、1mmも思ってはいなかった。
でも、いろいろあって活動をするようになり、すぐに私は勘違い的妄想を開始するようになった。
いろいろな人に話を聞く度に思った。
性暴力を語るって言うのは、平和を語ることなんじゃないのか、と。
暴力が人にあたえる影響。
性というものがとてもパーソナルな、そして大切なものであること。
それが、人の尊厳であるということ。
自らの自己決定で、人はいろんなことを決めていく、権利があるのだということ。
性暴力を語る時わたしはいつも、
一人でも多くの人が、束縛から逃れて自由になれる時を夢見ている。
私にとっての性暴力とは、
そういうものだ。
荒野に花が咲いたようだ、と友達は自分の状態を語った。
何もない、枯れ果てた荒野だと自分のことを思っていたが、
あるとき、たった一輪であれ、
花が咲いたのが分かったのだと。
性暴力被害というのは、そういうものだと思う。
決して消えることはないだろう思い。
加害者はもちろん、自分すら許せない時間を過ごし尚、
生きているということは、
それだけで、希望だ。
私たちは進んでいる。
着々と、小さな一歩を踏みしめている。
それでいい。
私たちはただ、
目の前にあることに正直に、
一人ひとり、生きて行くしかない。
そのためにもね、
いろいろな人に出会いたいの。
だから、
レインボーカフェをやるんです。
ここから一歩を踏み出せる人が、
たった一人でも、いてくれたら嬉しいから。
いってきます。
その頃を考えれば、自分が今のような活動をやるようになるとは、たぶん、1mmも思ってはいなかった。
でも、いろいろあって活動をするようになり、すぐに私は勘違い的妄想を開始するようになった。
いろいろな人に話を聞く度に思った。
性暴力を語るって言うのは、平和を語ることなんじゃないのか、と。
暴力が人にあたえる影響。
性というものがとてもパーソナルな、そして大切なものであること。
それが、人の尊厳であるということ。
自らの自己決定で、人はいろんなことを決めていく、権利があるのだということ。
性暴力を語る時わたしはいつも、
一人でも多くの人が、束縛から逃れて自由になれる時を夢見ている。
私にとっての性暴力とは、
そういうものだ。
荒野に花が咲いたようだ、と友達は自分の状態を語った。
何もない、枯れ果てた荒野だと自分のことを思っていたが、
あるとき、たった一輪であれ、
花が咲いたのが分かったのだと。
性暴力被害というのは、そういうものだと思う。
決して消えることはないだろう思い。
加害者はもちろん、自分すら許せない時間を過ごし尚、
生きているということは、
それだけで、希望だ。
私たちは進んでいる。
着々と、小さな一歩を踏みしめている。
それでいい。
私たちはただ、
目の前にあることに正直に、
一人ひとり、生きて行くしかない。
そのためにもね、
いろいろな人に出会いたいの。
だから、
レインボーカフェをやるんです。
ここから一歩を踏み出せる人が、
たった一人でも、いてくれたら嬉しいから。
いってきます。