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RC-NET(レイプクライシス・ネットワーク) BLOG.

RC-NET STAFFによる、日常の些細な出来事から、お知らせまでいろいろなぶろぐ。

こくさい女性でー ということだ

2011-03-08 15:18:48 | スタッフ日記
本日は国際女性DAYであるという。
かといって何をするわけでもないのだけど、一つ、それに絡めてブログでも書こうではないか、と思う。
最近更新を滞らせていた感があるので、
とりあえず、書こうと思ったことくらいは書かねばなるまいな、と、思ったのである。


私という人間は、実に単純な人間で、そして難しい事がイマイチわからない。
性暴力について話す機会はうっすらあちこちで頂けるようになってきたけれども、
正直なところ、いくら話しても、本当に伝えたいことがどれだけ伝わっているのかと言うところでいうと、
微妙だな、と思っていた。

それはもちろん私自身の至らなさであり、
今後、もっともっとスキルアップしていかなきゃならないところだなぁと思うのだけど、
そういう話ではなく、
一事案、目の前にあるもの、被害者と加害者、社会と私、あなたとあなたたち、私とあなた、
多くの視線がある中で、
どれだけ話しても、殊更に「特別な出来事」になってしまう気がしたのだ。
ここでは通用するけど、こちらでは該当しない。
この話はあの人に当てはまるけど、私には関係ない。
あなたの話が私の話になってしまったり、私の話があなたの話になってしまったりもする。
私は、そんなことがしたいんじゃない。

女性への権利侵害としてのレイプやDVを見て行くのはとても大切なことだ。
ジェンダーの視点からみて、女性は不本意な、というか、本意も語る事が出来ずに、
あまりに暴力的な社会的視線、仕組みの中に組み込まれ、暴力を暴力だと言えない環境下で生活を強いられてきたし、
現在もその流れは確実に存在する。
「今は女性が強いから」などというのは、数ある視点の中のほんの一部を抽出した言い訳みたいなものだと私は思う。
権利のなかった存在が多少の権利を得れば、絶対的権利を持っている存在は必ずそう言うのだと思う。
「昔はこんなこと出来なかったのに」と。
その視点が既に、フラットではない事は明らかであって、その「評価する基準」が女とは別の場所にある時点で、
そこには暴力性が存在する。
そして実際、現在も男女間には大きな溝があると私は思っている。
周囲にあるジェンダーを紐解いて行くこと、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの視点から学び、考えていく機会というのは絶対的に必要なものであり、教育の場に於いても社会全体としても、もっと真剣に取り組まなきゃならないと思うし、そうしたところには是非関わって行きたいと思っている。
そして、こうした事は女性の権利のみならず、男性にとってもそうなのだろうし、
所謂セクシュアルマイノリティーの権利などについても直結することだ。
性教育を学びだした頃に、池上千鶴子さんのお話を聞いてすごく感動した事がある。
セクシュアリティーを学ぶこと、性の権利や健康について学ぶことっていうのは、
生きる事を学ぶ事に共通するのだ。

そうした視点を持ってこそなくす事の出来るレイプ被害っていうのは確実に存在するし、
それは本当に大切なものだと思っている。

しかし私は、男女で共同することがいいことなのか、というと、それはどうだろうなぁと思う。
別に共同しないでもいいんじゃない?
私は、私の目の前にいる、出会う事が出来た「あなた」と共同したいだけなのだ。
もちろん、その為には上記の項目をクリアしていることが必要となるのだけど。
だからこれは、まぁ私の個人的想い。

そして私は、もう一つの視点が必要だとも思う。
性暴力というものを考える時には、セクシュアリティーや性全般に関する権利侵害という視点だけでは語り尽くせないものがあるとも思う。
そうした呼びかけ、啓発や教育が届かない層というのが、絶対的に存在する。
これまで生きてきた道、生育環境や社会との軋轢の中で、心の中に絶対的な闇を抱えて生きている人がいる。その闇の中には、怒りや悲しみ、不安感も存在し、それを所謂健全な方向に昇華できるような環境もなく、自分または他者への暴力性として内在させてしてしまっているケースについてだ。
性暴力と言うのは、非常に陰湿に、そしてある意味確実な成果を伴って「人を虐げる」ということを成し遂げるものだ。性を蹂躙されるということは、本当に人を傷つける。性というものは、多かれ少なかれ、生に直結するところがある。そこに対する権利侵害は、本当に本当に、理不尽でどうしょうもないくらいな暴力性を発揮する。
性的に支配するということは、イコールしてその人を、支配してしまう。
ここには、社会的立場も関係なければ、どれだけ社会の風潮が変わろうとも関係ない、という特徴があると思う。
性暴力は、隠蔽された環境下で行われるからだ。

これを「病んでいる」といって社会的に断罪することだけでは、やはり何も変わらないのではないかと思う。
なぜなら、そうした「闇」や「病み」は、実は結構、多くの人が内在させているものだからだ。
もちろん、それを加害行動として実際に行動を起こす人は一部だ。その行動化を私は一切擁護するつもりはない。
しかし、私自身もその暴力性を持ちながら生きているということは確かだと思っている。
そして常にその暴力性を見つめながら、どこかで自分を卑下していたり、人に対して暴力的な態度に出てしまうことがある。またそれに自己嫌悪して、そのループから抜け出せないでいると感じることがある。
内在化された暴力性が、いつまでも誰かを傷つけ続けている。
そのループを断ち切らない限り、性暴力、いや、それのみならず、人を虐げるという、暴力の連鎖がなくなることはない。

そこにコミットするために何が必要なのか。
それが、暴力性へと転化し行動化をしてしまう前段階に、その暴力性のうしろにある、怒りや恐怖、不安といったものをどれだけフラットに出来る環境があるか、というところではないかと思う。
社会的な視線であったり、ある意味で健全な人との出会いであったり、
それを拒むマイナスのパワーを上回る、そうした資源がもっともっと必要だ。
そこには怒りのパワーは必要ない。

一つの権利問題が解決されたとしても、それで全てが解決する訳ではない。それでは暗中模索ループに入ってしまう。

どれだけの人たちが戦争に異を唱えても、命がけでそれと戦っても、今なお世界は平和になっていない。
いくら想像してみても、本当に世界が平和になるなんてこと、心から想像する事なんて出来ない。

しかし、続ける事で見えてくるものも沢山ある。
私にはまだ、どうしたら世界は変わるだろうか、その答えなんていうものはまるで見えていない。
でも、何かが変わって行くはずだという、なんかしらの確信めいたものが、生まれだしている。


私は、女性の権利というものを通し、
性の権利や健康というものを通し、
性暴力というものを通し、
それぞれが持つ暴力性というものを通し、
そこから抜け出し、自分自身を自由にする方法を探している。
そして、平和への道を探している。

その道の上に、実は既に、立っているのではないかと、
いやもしかしたら、私だけじゃなくみんなが、ずっと立っていたのかもしれないと、
最近よく、思っている。



----------RC-NETよりお知らせ-------------

2011年3月29日 市民交流センターひがしよどがわにて、
ワークショップ「性暴力への想いをつづる日」をやらせていただきます。
(詳細は市民交流センターひがしよどがわまで

2010年度LUSH JAPANの助成を受け、レイプクライシス・サバイバーズネット関西がプロデュースしました
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