モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

2020-02-10 06:29:37 | 福音について
「主は…無礼な言葉とその高ぶりとを罰せられる」イザヤ10:12

無礼とは「相手の都合を無視した身勝手な振る舞い」であり、
礼とは「相手を思いやり、相手に喜んでもらえるように振る舞う」ことです。
福音を伝えようとするときに、熱心さのあまりに礼を欠いてしまうことがあります。

いくら美味しいものでも口に押し込まれようとするなら誰でも嫌がるものです。
福音は人を幸福にするものであり、正しいものですが、
それを伝えようとする行為が礼を欠くなら、福音が伝わる前に拒否されることになるでしょう。

わたしたちは福音を伝えたいと願っていますが、
それは「相手が福音に関心を持ち、それを知りたいと望むとき」に初めて可能になります。
わたしたちの福音生活は、周りで見ている人々が関心と興味を抱くものでしょうか。

福音を伝えようとした人から距離を置かれるのは礼を欠いているからかもしれません。
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虚栄

2020-02-06 06:12:32 | 福音について
「あなたがたは…会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる」ルカ11:43

「福音に出会って自分が変わったと思うことは何か」と質問されて、
「見栄を張ることがなくなった」と答えました。
見栄とはある意味で自分を偽ることです。

「幸せに見せたい、成功者として見られたい」といった思いが見栄になります。
つまり、見栄を張っている間は幸せではないし、成功者でもないということです。
「互いに挑み合い、互いに妬み合って、虚栄に生きてはならない」ガラテヤ5:26

「あなたがたは新しく生まれなければならない」ヨハネ3:7
「福音によって新しく生まれた人」の特徴は、「これでもう十分とは考えない」ことです。
生まれ変わるほどに「さらに一歩進むために何ができるか」と考えるようになります。

「わたしはこれほど生まれ変わりました」と言うなら、その心には虚栄があるかもしれません。


(わたしの中にも‟虚栄”があるかも知れません)
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幸せに見える

2020-02-05 10:34:48 | 今日の一言
優しさ、穏やかさ、思いやりのある人は幸せに見える
あせり、イライラ、怒りのある人は幸せには見えない
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教えるのは神

2020-02-05 08:27:20 | 福音について
「彼らの行いは彼らを神に帰らせない…主を知ることができない」ホセア5:4

「神は存在するのでしょうか?」との問いにどのように答えることができるでしょうか。
神が存在することを伝えることはできますが、教えることはできません。
人にできるのは伝えることだけであって、教えるのは神のすることです。

「どのように福音を教えればよいのですか?」と質問されたことがあります。
「教える必要はありません、伝えればそれで充分です」と答えました。
自分の言葉によって神を教えようとするなら、その行いは誤っているかもしれません。

「聖霊によらなければ誰も『イエスが主である』と言うことが出来ない」1コリント12:3
もしも人の教えで満足しているなら、いつまで経っても神を知ることはできません。
神の教会とは「神が教える会」であって、人が教えるなら人の教会になってしまいます。

「あなたの神、主…は…あなたを教え…導いて、その行くべき道に行かせる」イザヤ48:17
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神を呪う

2020-02-04 06:37:46 | 福音について
「神をののしってはならない」出エジプト22:28

寝坊をしたとき、鳴らなかった目覚ましを呪うのでしょうか。
それとも、常に目覚ましに頼っていることを思い起こして、
セットしなかった自分を顧みて反省するのでしょうか。

寝坊をして家族に起こされたとき、
「なぜもっと早く起こしてくれなかったのか」と腹を立てるのでしょうか。
それとも自分のことを心に留めてくれる家族に感謝するのでしょうか。

「彼らは…非常に嘆き悲しみ、主に対してつぶやいた」1ニーファイ16:20
不幸な出来事や災難に見舞われたとき、不平を心に思うのでしょうか。
それともこれまで守られてきたことを思い起こしてへりくだるのでしょうか。

「悲しみは神の慈しみを思って悔い改めに至る」モルモン2:13


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