唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

寶應元年 西暦762年 2

2020-04-01 10:02:21 | Weblog
六月己未,解李輔國行軍司馬及兵部尚書,程元振代判元帥行軍司馬。
辛酉,罷輔國兼中書令,進爵博陸王。
増長していた輔國は、代宗と部下の元振が結託して自分を追い落とそうとしているのを予期していなかった。ここで兵権を奪われ、内殿での居住も禁止された。そして宰相職も罷免されたが郡王という虚名だけが加えられた。

七月乙酉,殺山南東道節度使裴戎。
肅宗時、山東來瑱を警戒して淮西に転出させ、山東には戎を赴任させた。ところが瑱が荒涼とした淮西への赴任を拒否すると、すぐに山東に戻した。瑱が戻ると既に戎が就任しており両者の戦闘となり、当然ごとく戎は敗北した。唐朝は責任を戎になすりつけて殺したわけである。

七月癸巳,劍南西川兵馬使徐知道反。
厳正で知られた節度使嚴武の就任に反対して蜂起したが八月部下に殺された。

八月己巳,郭子儀自河東入朝。解副元帥、節度使。留京師。
河中・河東の軍乱を平定し帰朝したが、宦官程元振は軍權を奪った。

九月庚辰,以來瑱為兵部尚書、同平章事、知山南東道節度使。
無定見な唐朝は一転して來瑱を優遇し使相とした。

九月丙申,回紇請助戰。
回紇は史朝義の勧誘により南下し京師を襲撃しようとしていたが、息子の義父僕固懷恩の要請により唐を援助して朝義を討つことに同意した。

十月辛酉,雍王适討史朝義。
長子适[後の德宗]を天下兵馬元帥に、僕固懷恩を副元帥として回紇軍と共同して朝義の勧誘を討たせることにした。

十月壬戌,盜殺李輔國。
「盜」とは代宗皇帝が派遣した者である。失脚させただけでは安心できず、いろいろな秘密を知る輔國を抹殺したわけである。そうしておいて「太傅」を贈った。「賊」は首と片腕を切断して持ち去ったので「木首」を与えて葬らわせた。

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