唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

代宗前史+寶應元年 西暦762年

2020-03-31 10:01:43 | Weblog
[代宗即位前史]

安史の乱、皇太子[肅宗]は玄宗と別れ西北に奔り、朔方節度使に拠り擁立されて即位した。廣平王俶は、弟建寧王倓[後に讒言により殺される]よりは能力的に劣っていたが、肅宗の長子であるので天下兵馬元帥として郭子儀等に奉ぜられて乱の平定に貢献した。

優柔不断な肅宗は、強気な妃張氏[後に皇后]と、暗躍する宦官李輔國の間を浮動しながら統治していたが、張皇后の子が幼いため、俶を乾元元年[西暦758年]五月皇太子に立てた、しかしその地位は不安定なものであった。

上元元年[760年]六月、張皇后の子興王が亡くなりやっと太子の地位が定まった。

寶應元年[762年]建巳月玄宗上皇と肅宗皇帝が揃って重病になり、張皇后と李輔國は権力を争って陰謀を巡らした。張皇后は太子を自派に入れようとしたが失敗し、当時の天下兵馬元帥趙王係を擁立しようとした。輔國は程元振とともに太子を擁して先手をうち、皇后と係を殺し太子を即位させた。

寶應元年 西暦762年
建巳月甲寅,玄宗崩于神龍殿,年七十八。
丁卯,肅宗上崩。李輔國等殺皇后、趙王係、兗王僴。
己巳,代宗即位。
宦官に擁立された最初の唐皇帝である。

建巳月甲戌,皇子奉節王适為天下兵馬元帥。
輔國は元帥府司馬となり軍權を掌握し、郭子儀の軍權を解いた。郭子儀は河中において起きた軍乱を鎮圧中であった。
輔國は恃功益橫で、代宗に対して「あなたは宮中で安居していればよい、政治は私がする」と言い放った。さすがに代宗は不服であったが、軍權は輔國にあり当面は委任するしかなかった。

五月庚辰,郭子儀は河中の乱を収拾した。河東で自立した辛雲京も子儀に従い乱人を誅殺した[乱をそそのかしたのは雲京の疑いが強いが]

五月壬午,以李輔國為司空兼中書令。
宦官が宰相となる始例である[というより唯一である。後の専権を極めた宦官達も宰相にはならなかった]

五月甲申,平盧節度使侯希逸為平盧青淄等六州節度使
平盧軍は本来遼東半島にあったが、幽州節度安禄山の反乱に同調せず戦った。しかし孤立したため軍民を引き連れて渤海彎を渡り、山東半島へ移動し淄青節度使に拠ったことに由来する。

五月壬辰,貶禮部尚書蕭華為峽州司馬。
李輔國に同調しない蕭華を宰相から解任し、さらに貶した。

山東來瑱は淮西十六州節度への転任を告げられたが,荒れ果てた淮西に行くことを拒否した。代宗は反乱を懼れて、瑱を山東節度使に戻した。

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