唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和八年 西暦 813 和暦 弘仁4年

2020-02-09 10:00:24 | Weblog
正月辛未,宰相權德輿が解任された。
 宰相として李吉甫と李絳は論争することが多いが、文人德輿は能力不足で関与
 できず解任された。失脚したわけではなく以降も禮部尚書・東都留守と任用さ
 れている。

二月丁酉,宰相于頔が恩王傅に左遷された。
 頔は山東節度より入朝し、高位にはあるが実権はなにもないため、宦官梁守謙
 に贈賄して節度使に任命してもらおうとした。ところが詐欺師梁正言[守謙の
 親族と称した]や僧鑒虛に騙され、大金を巻き上げられただけに終わった。
 それを怒った子の敏が、正言の奴隷を残虐に殺害し遺棄したことが露見したた
 めである。また他の子季友[公主の婿]の不行跡も露見した。

三月甲子,西川節度使武元衡が宰相に復帰した。
 李吉甫が李絳との政争の援軍として復帰させた。
 
十二月庚寅,振武將楊遵憲が乱して、節度使李進賢を放逐した。
 憲宗は激怒して、夏綏節度使張煦に河東軍を指揮させ鎮圧させた。しかし内情は
 進賢が士卒を虐待し、遵憲をまともな資財を与えず派遣したことによる。
 実情を知る監軍は士卒に衣糧を与えて慰撫することを上奏したが処罰された。
 当時、対吐蕃防衛に設定された軍備は形骸化し、供給は諸将に横領され、將士は
 奴隷のような状態であった。宰相李絳はしばしば問題点を指摘して争ったが、
 神策軍を率いる宦官勢力は利権を貪って改善しようせず、李吉甫も絳との政争から
 宦官側についていた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 元和七年 西暦 812 和暦 ... | トップ | 元和九年 西暦 814 和暦 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事