唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和九年 西暦 814 和暦 弘仁5年 

2020-02-10 10:01:35 | Weblog
二月癸卯,宰相李絳が解任された。
 絳は李吉甫や宦官勢力と激しく対立していた。絳がやめると宦官吐突承璀は
 ただちに神策軍中尉に復職した。唐朝の皇帝は宦官に育てられるために親近
 感が強い、反面その専権に対する怒りを持つという二面性を持つが、官僚達
 もまた信用できないグループであるため、結局宦官に依存する。

六月壬寅,名門貴族張弘靖が宰相となった。
 祖父嘉貞、父延賞と宰相が三代続く名門貴族である。それなりに有能である。

閏八月丙辰,淮西節度使吳少陽が卒し,子の元濟が自立した。
 少陽は兵備を整え、周辺を寇掠するなど反抗的な姿勢を示していたが、簒奪し
 た立場上すぐ反旗を翻すことはできなかった。淮西は強兵を擁していたが領地
 は貧しいため拡大傾向は強かった。

閏八月辛酉,河陽節度使烏重胤を懷州から汝州へ移した。
 東都を魏博節度から防禦する河陽軍を、対淮西征討のために移転させた。魏博
 田弘正への信任を示し、実戦能力を持つ河陽軍の転用を図っている。

九月丙戌,山東節度使袁滋を荊南節度,荊南節度使嚴綬を山東節度使へ交代。
 袁滋は統治には優れていたが融和派で淮西への征討に反対していた。

九月丁亥,山東節度使嚴綬が忠武軍李光顏、李文通、烏重胤を率いて淮西を討った。
 嚴綬は高名ではあるが軍才は無い、すでに河東節度でしくじっているが、他の
 光顏、文通、重胤等は新進で大将とはなれない。忠武軍は「山棚」などの山岳
 民を含み、唐朝としては強兵である。

九月丙午,宰相李吉甫が卒し、韋貫之が宰相となった。
 対吐蕃防衛では行き詰まり、淮西征討を主唱していた吉甫が死去した。貫之は
 融和派である。

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