唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元元年 西暦785年 1

2020-03-17 10:00:09 | Weblog
正月丁酉,大赦,改元。
 混乱が続いて不吉な年号「興元」は1年だけで「貞元」と改元した。

正月、新州司馬盧杞を吉州長史に移し、さらに饒州刺史に任用しようとした。
 德宗は頑迷でプライドが高く、この時点においても佞臣盧杞を信任していた。
 群臣は揃って任用不可を説き、德宗はしぶしぶ澧州別駕[刺史・長史に次ぐ
 が権限なし]とした。杞はまもなく卒して群臣は安堵した[殺されたのかも
 しれない]。

三月,李懷光殺步軍兵馬使田仙浩、都戰候呂嗚岳。
 李懷光麾下は次々に唐朝に復帰しようとし陰謀をめぐらし、この場合は失敗
 した。しかし渾瑊・馬燧軍は河中に迫り、戦意のない懷光軍は敗北を重ねた。

五月、渾瑊麾下の邠寧韓遊瓌が朝邑を攻めた。懷光麾下の閻晏は迎撃しようとし
 たが、対戦相手に親子・親族を見つけた兵士達は戦おうとせず撤退した。

六月己丑,幽州朱滔卒,劉怦自稱留後。
 失意の滔は病となり、親将怦が自立した。疲弊した唐朝は追認するだけであった。

六月辛卯,西川節度使張延賞を宰相とする。
 有能な文官で名門[開元の宰相嘉貞の子]である延賞は、梁州に避難した德宗
 に豊富な貢献をし信任を得た。しかし京師回復の功臣李晟とは諍いがあった。

七月、陝虢将達奚抱暉鴆が乱し節度使張勸を殺し自立した。
 せっかく汴州が取り戻され、江淮からの漕運が通じるようになったが、途中の
 陝虢で軍乱が起きてしまった。陝虢自体は小鎭だが重要な拠点である。また懷
 光と通じる場所でもあり唐朝は動揺した。
 德宗の謀臣李泌は自ら觀察使として赴任し、抱暉の罪を問うことなく逃がし、
 平和的に鎮静化してことを納めた。德宗は不満であったが追認した。
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