唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元元年 西暦785年 2

2020-03-18 10:00:48 | Weblog
八月,馬燧至行營,攻長春宮
 河中を守る長春宮は堅城ですが、守將徐庭光以下は戦意はなく、ただ懷光への義理
 だけで降りませんでした。燧は敵対しないことを誓わせます。

八月甲戌,李懷光が伏誅。
 懷光は麾下に戦意がないことを知り妻子と共に自殺しました。渾瑊は残軍を収容し
 自軍に組み入れました。

八月,宰相張延賞解任。
 延賞は李晟に私的に怨まれていて、宰相となるや晟は盛んに中傷しました。德宗は
 功臣晟をはばかって解任しました。

九月辛亥,宰相劉從一罷。
 疾辭です。まもなく卒します。

九月庚申,幽州盧龍軍節度使劉怦卒,子濟が自立。
 単なる病死です。継承は自動的でした。

[貞元元年末の状況]
・李懷光の河中領域は渾瑊と馬燧に与えられ、燧は同晉慈隰の四州を康日知[深趙觀
 察使から]に譲りました。渾瑊は河中絳州と旧朔方軍主力を引き継ぎました。
・李晟は李楚琳[無事に金吾大将軍へ]が返納した鳳翔節度に入り、涇原田希鑒の罪
 を問うてを誅殺しました。
・隴州で朱泚に抗した韋皐は金吾大将軍を経て、張延賞の後の西川節度使へ栄転しま
 した。
・同じく華州を守った李元諒はそこで節度使となりました。
・河北では幽州[劉]・成德[王武俊]・魏博[田]・淄青[李]の四家が自立して
 います。深趙徳棣は朱滔を破った王武俊に引き渡されました。
・淮西李希烈は敗戦のため蔡州に逼塞し、南方から曹王皋に攻められています。
・唐朝はすっかり疲弊して、浙江韓滉や淮南の貨財をしきりに求めてます。戦役を続
 ける意志も能力もありません。

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