唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王廷湊/庭湊の乱 1

2022-12-06 08:20:57 | Weblog
元和15年成德軍節度使王承宗が卒し、実子が京師に人質に取られていたため、弟承元が牙軍に擁立されましたが、当時の唐朝の強勢を見た承元は拒否し、任命された義成軍節度使に移りました。

後任は成德のライバル魏博節度使田弘正でした、弘正は当然成德牙軍の危険性を理解していましたので、魏博から親兵二千を引き連れて赴任し、身辺を護衛させていました。

ところがこれには特別な経費がかかります。当時唐朝は憲宗時代の軍費や、穆宗皇帝の浪費により財政難でした。姑息な杜元穎や崔植など宰相達はひたすら経費節減を図り、新たに版図となった河北三鎮への配慮をしませんでした。そのため親兵の費用を供給せず、弘正は親兵を魏博に戻すしかありませんでした。しかも士卒への賞与も遅れています。

長慶元年7月
都知兵馬使王庭湊は回鶻阿布思の族でしたが、幽州節度朱克融とも密かに連絡し、魏博親兵が去ると蜂起し弘正と幕僚、元從將吏、家屬三百餘人を殺しました。庭湊は留後と自称し、監軍宋惟澄を脅しました。

長慶元年8月
王廷湊は派兵し冀州刺史王進岌を殺し、冀州を抑えました。また將王立に深州牛元翼を囲ませました。

魏博節度使李愬が病の為[10月卒します]、前涇原節度使田布[弘正の子]を起復檢校工部尚書兼魏州大都督府長史充魏博節度使とし廷湊を伐たせようとします。

深州刺史本州團練使牛元翼は廷湊の乱に従わず、深冀節度使に任ぜられました[冀州は領していません]

河東節度裴度を幽鎮兩道招撫使とし、魏博、橫海、昭義、河東、義武五軍で幽州朱克融・成德王廷湊征討にあてました。

成德大將王儉等五人は庭湊を殺そうとしましたが失敗し、その部兵三千人は皆殺されました。

長慶元年9月
宦官内常侍段文政は鄭滑、河東、忠武三道兵を引き連れ深州を救援しました。

魏博節度使田布は出師し貝州行營に赴きました。

相州[魏博領内]で軍亂が起き、刺史邢濋が殺されました。

長慶元年10月
河東節度使裴度を鎮州四面行營都招討使として総大将とし、実戦部隊として左領軍衛大將軍杜叔良を深冀諸道行營節度使にしました。叔良は大言壮語をして懿宗皇帝を喜ばせました。

横海節度烏重胤は深州饒陽に廷湊軍を破りました。その後重胤は早期の征討は望めないと上奏し、山西節度使へ左遷されました。

深冀節度使牛元翼を鎮州大都督府長史充成德軍節度鎮冀深趙等州節度使としましたが虚名です。

王廷湊兵は魏博貝州を陥します。

魏博節度使田布は全師をあげて出陣しました。

長慶元年11月
裴度は廷湊軍を會星鎮で破りました・

長慶元年12月
杜叔良は廷湊軍に深州博野で大敗しました。

鳳翔節度使李光顏を忠武軍節度使とし深冀行營節度を兼任させました。

唐朝の軍費支出が続かないため、幽州朱克融を赦しました。しかし克融は廷湊と盟約していますので単独ではやめられません。

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