唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永泰元年 西暦765年

2020-04-08 10:00:02 | Weblog
正月癸卯朔,改元,赦天下。
京師が陥落するという縁起の悪い「廣徳」をやめて「永泰」へ。

正月戊申,陳鄭澤潞節度使李抱玉兼鳳翔隴右節度使
抱玉は安西節度出身の胡人[旧姓は安]であり、漢人のように表裏がなく比較的信頼されていた。京師の西の要地鳳翔に屯させて吐蕃防衛にあたらせた。本来の澤潞[河北からの侵攻路を抑える要地]には、その従弟抱眞が留後となった。抱眞は弓兵を中心とした軍団を編成し、数年のうちに河北勢力が手を出せないようにした。

永泰元年二月戊寅,黨項寇富平,焚定陵殿。
吐蕃・回紇・黨項羌、渾、奴剌と侵攻しほうだいである。唐朝の諸陵も荒らしまくられた。

四月辛卯,劍南節度使嚴武薨。
五月癸丑,以右僕射郭英乂為劍南節度使。
吐蕃の劍南侵攻を阻止していた武[専権傲岸で知られていたが]が亡くなり、唐朝はあわてて猛将郭英乂を送り込んだ。

七月淄青平盧節度使侯希逸,好游畋,營塔寺。将李懷玉[正己]に逐われる。
軍乱による節度使自立の始まり[自薦立の始まりはもっと以前だが]、唐朝は自立を認めた。

九月、僕固懷恩は回紇、吐蕃、吐谷渾、黨項、奴剌數十萬を動員して侵攻してきた。代宗は大規模な仏事を繰り返し恐怖を紛らわせているだけであった。

郭子儀の動員により關内諸将は京師周辺に集結し、吐蕃等と激戦を重ねたが不利であった。

十月、吐蕃・回紇は合同して涇陽を囲み、郭子儀軍と対峙した。到底蕃軍には敵わない子儀は、安史の乱以来の旧知のいる回紇を懐柔した。平原の民は国ではなく、人と人の関係で動き、本来吐蕃とは仲が悪い回紇は子儀の勧誘に応じた。

十月癸酉,戰吐蕃于靈台西原,大破之,殺吐蕃萬計,得所掠士女四千人。
回紇が裏切ったことを知った吐蕃は退却し、子儀等は追撃して撃破した。これにより侵攻は終わった。

閏月辛亥,劍南将崔旴[寧]反,寇成都,節度使郭英乂死。
嚴武の後任となった英乂は、傲岸で従わない武の愛将寧を討とうとした。しかし山岳戦に習熟した寧軍に敗れて殺された。劍南各地では諸将が蜂起し大混乱となった。

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