唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

永泰二年/大暦元年 西暦766年

2020-04-09 10:00:07 | Weblog
正月丙戌,劉晏と第五琦分理天下財賦。
安史の乱以来財政を担当してきた二人に分権して、財政再建に本腰をいれることらなった。

二月乙未,刑部尚書顏真卿貶峽州別駕。
宰相元載が專權し、諌官の上奏を遮ろうとし、批判した真卿を追放した。

二月壬子,杜鴻漸が山西劍南東西川副元帥として劍南を平定することになった。
実戦部隊は山西節度使張獻誠であり、叛将柏茂琳や崔寧は刺史として鎭撫することになった。
三月癸未,獻誠與旰戰于梓州,獻誠軍敗,僅以身免,旌節皆為旰所奪。
ところが唐朝軍はもろくも崔寧軍に敗北して、平定計画は潰れた。
勇略はないが老獪な鴻漸は方針を転換し、ひたすら寧を慰撫し「悪いようにはしないから、一応頭を下げてくれ」と頼んだ。寧も政治性のある将であったので、鴻漸や代宗に莫大な贈賄をした。
八月、鴻漸は喜んで一応節度使として成都に入り、寧をすこしも責めず、軍政をすべて任せた。そして「まもなく帰京するので、後任にはあなたを推薦する、他の将達もそれなりに遇するので安心して欲しい」ということで決着させた。
当時の弱体な唐朝の力ではそうするしかなく、賢明な方法であった。

八月甲辰,以魚朝恩行内侍監、判國子監事。
宦官朝恩は増長し、しかも本人は学があるつもりであったので、國子監[最高学府]の長となった。文官達の憤慨をかった。

十一月甲子,赦,改元。
「永泰」も吐蕃の入寇など不吉であったので、「大暦」に改元した。

十二月癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。
勇敢だが粗暴で激発しやすい軍人である華州刺史智光は、あちこちで紛争を起こしたが、宦官魚朝恩の部下でもあるので唐朝はひたすら宥めていた。それに増長した智光が、元同僚である陝州皇甫温の麾下を殺し、場合によっては京師を襲撃すると唐朝を恫喝した。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 永泰元年 西暦765年 | トップ | 大暦二年 西暦767年 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事