唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王承宗の乱 2

2022-11-13 08:11:03 | Weblog
元和5年正月
幽州節度使劉濟は唐朝方につき、諸軍に先立ち自ら兵七萬人を率いて王承宗を撃ち深州饒陽縣、束鹿縣を落としました。

河東、河中、振武、義武の四軍は恆州北道招討として定州に合同しました。

河東將王榮は洄湟鎮を落としました。

しかし主力軍の吐突承璀は威令はなく、承宗軍にしばしば敗れ、その驍將酈定進は戰死し士気は大きく低下しました。

元和5年4月
昭義軍節度盧從史は王承宗征討を勧めたにもかかわらず、逗留して進まず、密かに承宗と通謀し、度支の軍糧のみをせしめていました。從史牙將王翊元は宰相裴垍に実情を告げ、都知兵馬使烏重胤も密告しました。そこで憲宗は承璀と行營兵馬使李聽に從史を捕らえさせ京師に送らせました。
従史の部下は騒ぎましたが、烏重胤が抑えました。從史は歡州司馬として流されました。

河東范希朝、義武軍張茂昭は承宗軍を木刀溝に大破しました。

元和5年5月
従史派の昭義軍三千人は魏博へ逃亡しました。

幽州劉濟は深州安平縣を落としました。

元和5年7月
承宗は判官崔遂を派遣して表面的な謝罪をしました。

征討の実が上がず、軍費だけがかかる状況に唐朝は王承宗の官爵を復し、徳棣二州もそのままで成德節度使としました。唐朝の敗北でした。
憲宗も吐突承璀も責任は全て盧従史に押し付けたわけです。

劉濟・田季安・張茂昭・范希朝・李師道等に検校官が加えられました。戦闘をやめたという恩賞です。劉闢・李錡を討伐した憲宗皇帝にとっては挫折であり、激しい怨念を抱きました。

元和5年9月
吐突承璀が帰還し左軍中尉に復職しましたが、諌官に敗戦の責任を弾劾され軍器使に左遷されることになりました。しかし憲宗皇帝の信任は厚く、やがて復職します。

元和5年11月
薛昌朝が解放され右武衛將軍となりました。
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元和6年5月
憲宗皇帝の怨念は強く、王承宗より贈賄を受けた品官王伯恭は杖殺されます。当時は方鎭から宦官達が収賄するのはあたりまえでした。
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元和7年6月
鎮州の甲仗庫が火災になり、備蓄していた兵仗が燃え尽きます。承宗は怒り庫吏百余人を殺します。唐朝からの工作員の仕業かもしれません。
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情 勢
元和5年に 義武軍節度使張茂昭が帰朝し、易定二州が唐朝管轄下になりました。
元和9年に 魏博節度使田弘正が積極的に唐朝方につき、王承宗と淄青李師道を遮断しました。
幽州節度使劉總は親唐朝姿勢を示しています。

 河北では 成德王承宗が孤立し、淄青李師道と淮西吳元濟[少陽]もまた孤立しています。

再び憲宗皇帝は宰相李吉甫・武元衡とともに藩鎭征討策を練り始めました。

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