唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

成德 王承宗の乱 1

2022-11-12 18:11:03 | Weblog

元和4年3月
成德軍節度使王士眞が卒しました。
士眞は父武俊より継承し唐朝とは付かず離れずの関係で接していました。
武俊は幽州朱滔を撃破するなど大功があり、士眞は武俊と共に戦い徳棣観察使を与えられている状況でしたので、継承はスムーズでしたが、承宗はそのような実績はありません。
また姑息な德宗皇帝の後半期と違い、憲宗皇帝は対藩鎭強硬姿勢でした。
河北三鎭では嫡子を副大使として継承させるシステムができつつありましたが、唐朝は当然それを認めていません。

当時の成德軍節度使は、恒州に治し、恒冀深趙徳棣六州を領していました。

元和4年閏3月
承宗の叔父士則は承宗の自立の余波を受けることを恐れ、幕客劉栖楚とともに京師に走り神策大將軍に任ぜられました。

唐朝では継承について議論が分かれ、憲宗皇帝は積極策でしたが、宰相裴垍や翰林学士達文官は、反抗的な淄青李師道の継承を認めていながら、いままで友好的であった成德の継承を認めないのは二重基準だとか、河北の諸鎭は成德に味方するだろうから大変な戦闘になるとかで消極的な姿勢でした。

憲宗の意を体した宦官左軍中尉吐突承璀は自ら神策軍を率いて、成德を伐とうと申し出ました。

服喪中であった昭義節度使盧従史は解任を懼れて、成德征討にあたりたいと申し出ました。

憲宗皇帝は「圧力をかけて徳棣二州を献納させる」ことで収められないかと提議しました。
文官達は「それはなかなか難しいのでは、西川や浙西は周囲が唐朝領域であったので征討もやりやすかったのですが」と返答しました。
憲宗は「現在幽州劉濟、魏博田季安、淮西吳少誠はいずれも病身なようでチャンスではないか」と思いました。

承宗はなかなか継承が認められないので懼れて請願をくり返していました。

元和4年8月
憲宗は京兆少尹裴武を派遣し、徳棣二州の献納で継承を認めるという条件を示し、承宗はそれを受諾しました。

元和4年9月
成德軍都知兵馬使王承宗を檢校工部尚書成德軍鎭冀深趙節度使とし、薛嵩の子で士眞の婿である德州刺史薛昌朝を檢校左常侍保信軍徳棣節度使に任じました。唐朝としては徳棣を分離する代わりに王氏一族に与えるという妥協案でした。

ところが承宗は、赴任する薛昌朝を捕らえ幽囚してしまいました。藩鎭分割の前例を懼れた魏博田季安の策動に承宗が同じたものです。

憲宗は激怒して、騙された使者の裴武を流そうとしましたが、李絳に止められました。

憲宗は承宗に約を守るよう促しましたが従いません。

元和4年10月
承宗の罪状を公告し官爵を削りました。

宦官神策左軍中尉吐突承璀を鎮州行營招討處置等使とし、龍武將軍趙萬敵を先鋒將にしました。
宋惟澄、曹進玉、馬朝江など多数の宦官達が付属しています。
宰相李絳をはじめとし京兆尹許孟容や白居易など諫官達は宦官を総大将とするなどはあり得ないと、猛抗議しましたが、憲宗は「招討處置」を「招討宣慰」に変えただけでした。
しかし宦官が征討の総大将となるのは玄宗皇帝時代に「楊思勗」の前例が何度もあるのです。

詔軍は進討しました。王武俊や士真の墳墓を傷付けないとか、承宗の叔父士平や士則の官爵封邑を維持するとか、成德の内部分裂を策しました。

元和4年11月
淮西吳少誠が卒し、当面南方からの脅威はなくなりました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 淮南西道・奉国軍節度使を公... | トップ | 成德 王承宗の乱 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事