唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

建中四年 西暦783年 3

2020-03-12 10:03:52 | Weblog
十月癸丑,李希烈陷襄城。
 支援の来ない哥舒曜は襄城を捨てて東都に奔った。。

十月乙卯,殺尚書右僕射崔寧。
 寧も泚に附かず奉天へたどりついたが、盧杞の讒言により殺された。

十月丁巳,蕭復・劉從一・姜公輔が宰相に。
 さすがに杞を専権させることができず宰相を補充した。從一や公輔はまだ下級
 官僚だが、奉天では人材が揃わず登用した。

十月朱泚犯奉天,禁軍敗績於城東。
 朱泚は本来の唐朝軍を率いて奉天城を攻囲した。泚に附く諸軍は多く、城は
 落城に瀕した。

十月辛酉,靈鹽留後杜希全、鄜坊節度使李建徽及朱泚戰于漠谷,敗績。
 朔方・鄜坊の一部軍は奉天城に来援したが泚軍に撃破された。

十月甲子,行在都虞候渾瑊及泚戰於城下,敗之。
 泚は奉天に猛攻を加え、唐朝軍は極めて不利で落城が近々に迫っていた。
 ただ李懷光の来援だけが唐朝の希望であった。

十一月,劍南將張朏逐其節度使張延賞,朏伏誅。
 泚に通じた朏は延賞を逐ったが、邊將の支持を得た延賞は成都を奪回した。

十一月癸巳,李懷光及朱泚戰于魯店,敗之。
 泚の乱を聞いて急遽河北より転進した懷光が泚を破り唐朝は滅亡の危機を
 脱した。

十一月懷光為中書令、朔方邠寧同華陝虢河中晉絳慈隰行營兵馬副元帥。

十二月壬戌,貶盧杞為新州司馬。
 懷光は盧杞の失政と佞臣ぶりを弾劾し、排除しなければ従わないという態度を
 示した。德宗は相変わらず杞を信任していたがやむをえず左遷した。

十二月庚午,李希烈陷汴、鄭二州。
 希烈は永平軍を完全に破り主邑汴州を陥した。節度使李勉は滑州に遁走した。

河北では李懷光が主力を率いて去り、四鎮軍が圧倒的に優勢となったが、魏博
は疲弊し休戦を求め、恒冀王武俊は旧成徳の領域制圧に関心があり、淄青李納
もまた自領の確保が第一であり、積極策を考える朱滔とは合わなかった。
ただ淮西李希烈だけが優勢であり東都制圧を狙っていた。
唐朝は当面滅亡を免れたというだけで全面的に不利な状況であった。

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