唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大暦十四年 西暦779年 2

2020-03-02 10:00:55 | Weblog
八月甲辰,楊炎と喬琳が宰相となった。
 崔祐甫の推薦で元載の失脚に連座して流されていた楊炎を起用した。炎は有能だが
 自信過剰で強引、でありもう一人の琳は老化して耳が遠くて役にたたなかった。

八月乙巳,吐蕃の捕虜を帰した。
 大暦年間、吐蕃は使者を送っては、反面侵攻を重ねており。多数の使者が抑留され
 ていた。德宗は吐蕃との永続的な講和を図ろうとした。

八月、郭子儀の跡を李懷光が継いだが、元同僚の將史抗や温儒雅達は従わなかった。
 そこで懷光は悉く誅殺した。

九月、長く自立していた西川節度使崔寧が入朝したので、司空兼代宗山陵使を加えて
 優遇した。

十月丁酉,吐蕃と雲南蠻は連合して黎茂文扶四州を攻撃し諸縣を陥した。
     鳳翔節度使朱泚、金吾衛大將軍曲環は七盤城にそれを大破した。
 崔寧が入朝した隙をついた。德宗はあわてて寧を帰任させようとした。
 宰相楊炎は「それではいつまでたっても西川は崔寧の支配下です。中央より神策軍
 を派遣し撃退させましょう」と提案した。
 朱泚は幽州軍や神策軍を率いて吐蕃南詔を大破し、西川は唐朝の支配下に入った。
 吐蕃は敗戦を怒り、南詔の責任を問うた。南詔は懼れた。

十一月癸巳,西川節度使京畿觀察使崔寧を兼靈州大都督單于鎮北大都護朔方節度等使
 とし坊州に屯させた。西川節度使は回収し文官張延賞を任じた。西川は唐朝直轄へ。
 寧は優遇されたようだが、各鎮に留後を置いて中央直轄とし、実権は奪われていた。

十二月乙卯,子の宣王誦[後の順宗]を皇太子に立てた。

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