唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

汴宋 李靈耀の乱

2023-02-02 08:22:19 | Weblog
汴宋八州節度使は淄青・淮西と並んで平盧軍系の節度使で、長らく田神功が統治し、その没後は弟神玉が留後となっていました。汴宋は神功の独裁体制ではなく諸将の連合体でしたが、神玉まではなんとか統制がとれていました。汴宋は富裕で重要な土地でしたので、唐朝としては是非直轄に移したい地域でした。
また当時は魏博田承嗣の反乱が沈静化はしてもまだ収まっていない時期でした。

大暦11年5月
神玉が卒すると、朝廷は文官の永平節度使李勉に汴州刺史充汴宋等八州節度觀察留後を兼任させました。
しかし汴宋都虞候李靈耀達は、同調しない濮州刺史孟鑒を殺し、魏博田承嗣と通謀しました。

朝廷はあわてて靈曜を濮州刺史としましたが、靈曜は受けません。

大曆11年6月
姑息な代宗皇帝はたちまち妥協し、靈耀を汴州刺史充節度留後としました。

靈耀としては自派の同僚達に利権を分配しなければなりません。そこで勝手に管轄下の七州の刺史を同僚に分配しました。これでは朝廷が認めるわけにはいきません。

大暦11年7月
魏博田承嗣は甥の悅を派遣し、滑州に李勉軍を破りました。

大曆11年8月
朝廷は淮西李忠臣、河陽馬燧、永平李勉、淮南陳少游、淄青李正己に靈耀征討を命じました。

汴宋兵馬使攝節度副使李僧惠、牙將高憑、石隱金等は靈耀を見捨てて朝廷に附くことにしました。

大曆11年9月
李忠臣・馬燧は鄭州を攻めましたが、靈耀軍に敗れました。

淄青李正己は鄆、濮二州を取りました。

李僧惠を宋州刺史,高憑を曹州刺史,石隱金を鄆州刺史としました。

僧惠は靈曜軍を雍丘に破りました

大曆11年10月
忠臣・燧は靈耀軍を中牟、西梁固に破りました。

淮南陳少游は靈耀軍を汴州に破りました。

田悅軍は来援し匡城に淄青・永平軍を破りましたが、忠臣・燧に大敗し逃げ帰りました。
靈耀は逃走しましたが永平將杜如江に捕まりました。

忠臣は汴州に入り、宋州刺史李僧惠と功績を争い擊殺しました。

李靈曜は京師で誅されました。

大曆11年12月
汴宋節度使は解体され、汴州は淮西李忠臣に、宋潁は永平李勉に、曹兗鄆濮徐五州は淄青李正己に与えられました。あまり軍功がなかった正己が最も得をしたと言えます。忠臣は使相となり、経済的利権の大きい汴州を得ました。
魏博田承嗣も諦めて帰朝を図り、大暦12年3月に赦されました。


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