唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河東 楊弁の乱

2023-02-03 08:20:00 | Weblog
昭義劉稹の自立を征討するため、忠武・河陽・晉絳軍を澤潞の主戦線とし、河東軍は背面攻撃を担当して遼州榆社に進出していました。
河東節度使劉沔は回紇征討の際、幽州張仲武と軍功を争ったため義成軍節度使に左遷され、庫物をさらえて転勤し、後任に文官の荊南節度使李石が転任してきました。

會昌3年12月
榆社行營都將王逢から増兵を求めてきましたが、太原は無兵のため、石は橫水に屯する三千人の半分を送ろうとしました。
兵は派兵手当を求めましたが、軍庫は空で支給できませんでした。
都頭楊弁は太原無兵を知り士卒を煽動しました。

會昌4年正月
楊弁達は城市を掠奪し、都頭梁季葉を殺し、李石は汾州に奔りました。
弁は自立しようとして劉稹に通じました。

石會關守將楊珍は關を以って稹に降りました。

劉稹征討が進まない中での、河東軍乱の通報で朝廷は大きく動揺しました。しかし宰相李德裕は断固として鎮圧を主張しました。

榆社に屯する河東兵主力に、易定・宣武・兗海兵をつけて楊弁討伐が命ぜられ、成德王元逵に応援が指示されました。

宦官馬元實が河東に派遣され、弁の賄賂を受けて戻り、德裕に叱責されました。

河東兵主力は朝廷の征討令を聞き、他道軍が太原に入り、自分達の家族を害することを懼れ、監軍呂義忠を擁して急ぎ太原に戻り、乱軍を誅滅しました。


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