唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

朔方河中 李懷光の乱 1

2022-12-17 08:56:22 | Weblog
懷光は渤海靺鞨人で、本姓茹。勇敢で親族と雖も不法を許さない厳酷な性格でした。父の代より朔方軍に属し、長らく郭子儀の下で戦い、邠寧都虞候となりました。
大暦14年郭子儀が引退すると、遺領の大部分河中・邠寧を受け継ぎました。そして以前の同僚諸将が自分に従わないとみるとすべて誅殺し支配権を確立しました。
その厳酷さを懼れられて涇原劉文喜の乱の原因となることもありました。

建中3年5月懷光は朔方軍主力を率い河北の朱滔・田悅・王武俊の征討に赴きました。

ところが建中4年10月涇原軍の反乱による京師陥落、朱泚の自立、德宗皇帝の奉天逃亡と籠城が起きました。奉天城への朱泚軍の攻撃は激しく、周囲の雑軍による援助は粉砕され、落城の危機が迫っていました。

懷光は李晟とともに河北から朔方軍を率いて急行し、11月魯店に朱泚軍を破り、德宗皇帝の危機を救いました。そして中書令朔方邠寧同華陝虢河中晉絳慈隰行營兵馬副元帥に任ぜられました。

懷光は、宰相盧杞や趙贊・白志貞等の乱の責任を上奏し、激しく弾劾しました。

盧杞等は懼れて德宗皇帝の信任を利用し、懷光の入朝を阻止しました。德宗皇帝は馬鹿ではありませんが優雅な文臣を好み、粗野な武人を嫌っています。例外は忠誠従順な渾瑊ぐらいでした。

懷光は皇帝を救出したにもかかわらず、謁見すら認められなない状況に不満をつのらせます。

建中4年12月
不満な懷光は、京師に進攻せず朱泚を討とうとしません。やむをえず德宗皇帝は盧杞・白志貞・趙贊を左遷し、信任の厚い宦官翟文秀を殺します。宦官は家奴ですから殺してしまうのです。

興元元年2月
懷光は李晟と京師回復で意見が対立し、晟は懷光の叛意を上奏しました。

懷光に最高官の太尉を加え鐵券赦三死罪としました。懷光は怒り「鐵券とは叛臣を赦すために与えるものだ。俺は反してなどいない」として鐵券を投げ捨てました。

懷光は楊惠元、李建徽の軍を奪い、惠元は殺され、建徽は逃走しました。

懷光は密かに朱泚と通じました。

德宗皇帝は奉天から山西興元に逃亡しました。懷光は追わせましたが部下は躊躇して取り逃がしました。

配下諸将に動揺が起き、朔方左兵馬使張名振や右武鋒兵馬使石演芬などが懷光を批判し殺されました。

德宗皇帝は李晟を河中節度使同平章事とし懷光に対抗させました。

興元元年3月
德宗の下にいた邠寧將韓遊瓌は麾下八百餘人を率いて邠州に入り、懷光の河中移動命令の動揺に乗じて將張昕を殺し知軍府事となりました。

神策節度使李晟は京畿渭北鄜坊丹延節度觀察使を兼任しました。

行在都知兵馬使渾瑊が同平章事靈州大都督充朔方節度使邠寧振武永平奉天行營副元帥となりました。

懷光は河中邠寧朔方の兵権を解かれます。

懷光は勢力が縮小し、朱泚にも軽視され、麾下は動揺したため、燒營し本拠の河中に移動しました。將孟涉、段威勇等は懷光から離れ晟に附きました。

興元元年4月
邠寧兵馬使韓遊瓌が邠寧節度使となり、陝虢防遏使唐朝臣が河中同晉絳節度使となりました。

李晟は京畿渭北商華兵馬副元帥となり渾瑊と京師回復にむかいます。

懷光靈武守將寧景璿が將李如暹に殺されました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 徐州武寧軍の粛清 | トップ | 朔方河中 李懷光の乱 2 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事