唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

幽州節度使 朱滔の乱 1

2023-01-13 08:34:36 | Weblog
滔は泚の弟で、泚が入朝した跡、幽州節度留後となり実質的な節度使となりました。
建中2年正月成德李寶臣が卒し、子の惟岳が自立すると、滔は率先して征討に参加しました。
そして易州刺史張孝忠を帰服させ、3年正月には孝忠と惟岳軍を束鹿に大破し深州を囲みました。

王武俊が反して惟岳を誅すると、孤立した魏博田悅を除き、河北では唐朝の優勢が定まりました。

建中3年閏正月深州刺史楊榮國は滔に降り、滔はそのまま刺史に任じました。

ところが2月唐朝からの恩賞は武俊に恒冀、康日知に深趙、孝忠に易定滄、滔には徳棣を与えるというものでした。恒と冀は深趙に分断され、易定と滄は離れ、幽州と徳棣も滄に分断されています。滔は隣接の深州を欲し、しかも現実に抑えていたのです。この決定に滔と武俊は憤激しました。

4月朝廷は滔に検校司徒、通義郡王を与えましたが、滔の怒りは収まりません。

建中3年4月
滔と王武俊は、魏博田悅と通じ反しました。張孝忠は同じませんでした。

李納將李士真、李長卿は徳棣二州を以って唐朝に帰していましたが、滔は唐朝からの命と称して派兵して接収しました。

滔と武俊は趙州に康日知を囲みました。

滔は趙州寧晉を陥し、武俊は趙州元氏を取りました。

田悅は援兵が来るとし、將康愔を派遣し攻囲していた唐朝軍を攻撃しましたが大敗しました。

滔は泚に密書を送り蜂起を促しましたが途中で密使は捕まりました。德宗皇帝は泚を疑いませんでしたが、泚の連れてきた幽州兵が多い鳳翔隴右節度使は解任し宰相張鎰に代えました。

建中3年6月
滔・武俊は田悅が攻囲されている魏州城に救援し、連篋山西で馬燧・李懷光・李抱眞・李芃の唐軍を大破しました。

滔軍は唐軍の糧道を断ちましたが、武俊の反対を押して唐軍が撤退するのを許しました。

建中3年11月
滔は大冀王、田悅は魏王、王武俊は趙王、李納は齊王を自称し官属を置きました。

建中3年12月
滔・武俊軍と唐軍は対峙していましたが、滔・武俊軍は魏博田悅が供給し、唐軍は度支に頼っていましたが、悅も度支も負担に苦しんでいました。

建中4年5月
神策李晟は涿、莫二州を取り、幽州と魏博を絶とうとし、清苑縣を攻めましたが、滔軍に大敗し退却しました。
瀛州を攻めていた義武張昇雲[孝忠の子]も滔に迫られて退却しました。

滔の姿勢に対し武俊は不満を抱き始めました。

建中4年10月
京師で朱泚が反し、滔に河北平定を促し、将来東都で会おうと連絡しました。

李懷光や李晟は河北から撤退し德宗支援に赴きました。

滔は回紇軍の参加を勧誘しました。

建中4年12月
唐朝は武俊・悅に既得権を保障して働きかけ、両者とも唐朝より滔の覇権を懼れるようになってきました。

滔は幽州軍五万、回紇三千で南下し、武俊・悅軍を併せて東都を攻撃しようとしました。

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