唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

幽州節度使 朱滔の乱 2

2023-01-14 08:38:21 | Weblog
興元元年正月
德宗皇帝は大赦令を発し、朱泚・朱滔以外を赦しました。王武俊・田悅・淄青李納は帰順し、淮西李希烈のみが反乱を続けました。武俊・納は既得権が維持されればそれ以上の要求はなく、悅は相継ぐ敗戦により牙軍は潰滅して休戦を切望し、財政も破綻していました。

南下した滔軍をまだ態度を示さない武俊・悅は供軍しています。しかし悅は軍が出兵を望まないとして会同しようとはしません。

滔は悦の背信を怒り、馬寔に魏州宗城、貝州經城,楊榮國に魏州冠氏を陥させました。また回紇に魏州館陶を掠奪させました。悦は魏州に籠城します。

滔は邢州平恩、魏州永濟に分兵します。

滔は貝州に刑曹俊を攻囲します。また回紇を放し諸縣を大掠させ、貝州武城を陥し徳棣二州から軍糧を調達しました。

興元元年2月
王武俊に平章事兼幽州節度使が加えられ、滔を伐てという命令が下りました。

興元元年3月
帰朝しようとしていた田悅が私怨のため甥の緒に殺されました。

昭義李抱真と武俊は貝州の救援に来ていましたが、緒の乱により観望していました。

滔は悅の死を喜び將鄭景濟・馬寔に魏州を攻めさせ、緒を味方につけようとしました。

緒は幕僚將士と議し、唐朝に附き、武俊・抱眞の援を待つことにしました。

興元元年4月
滔軍は貝州・魏州とも陥すことができません。

抱眞は昭義歩兵と成德騎兵で滔と対すれば勝てるとし、武俊と会同しました。

興元元年5月
滔は抱眞・武俊軍に經城で大敗し軍の大半を失い、幽州に遁走しました。

王武俊は滔を破ったとして恆州に戻り、幽州盧龍節度使兼任は辞しました。武俊には河北の体制を維持しあくまで滔を追いつめるつもりはなかったのです。

興元元年6月
朱泚が誅されました。

興元元年8月
滔は上表して謝しました。

貞元元年6月
滔は失意のうちに卒しました。

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