・建中元年[780年]宰相楊炎は原段秀實を司農卿に左遷し、李懷光に兼任させたが、
將士はその厳格を懼れて拒否し劉文喜を擁立した。唐朝は鳳翔朱に節度使を代えて討伐させた。
・建中2年崔寧は右僕射に転じ、懷光が河中・邠寧・朔方を統括し、3年5月田・朱滔・
王武俊の河北連合軍の征討に向かったが、6月連篋山に敗北した。
・建中4年10月原姚令言が反し、朱とともに奉天城に宗皇帝を包囲した。
東征中の懷光は回軍し、長駆して11月魯店に軍を破り皇帝を救った。
・懷光の功績は極めて大きかったが、朝政に容喙し、皇帝の信任が厚かった宰相盧杞を糾弾
したため、敬遠されるようになった。
・懷光もまた不満をつのらせ、興元元年[784年]2月叛し、皇帝は興元府に逃れた。
しかし懷光は本心は叛を望まず、配下も動揺したので京師を占拠していたとも連携せず、本
拠出ある河中に戻った。
・唐朝は懷光配下の諸将を分断して李晟・渾瑊・馬燧らに附け、懷光を河中に孤立させた。
・貞元元年[785年]8月懷光は河中で誅され、朔方軍の主流は渾瑊が引き継いだ。
將士はその厳格を懼れて拒否し劉文喜を擁立した。唐朝は鳳翔朱に節度使を代えて討伐させた。
・建中2年崔寧は右僕射に転じ、懷光が河中・邠寧・朔方を統括し、3年5月田・朱滔・
王武俊の河北連合軍の征討に向かったが、6月連篋山に敗北した。
・建中4年10月原姚令言が反し、朱とともに奉天城に宗皇帝を包囲した。
東征中の懷光は回軍し、長駆して11月魯店に軍を破り皇帝を救った。
・懷光の功績は極めて大きかったが、朝政に容喙し、皇帝の信任が厚かった宰相盧杞を糾弾
したため、敬遠されるようになった。
・懷光もまた不満をつのらせ、興元元年[784年]2月叛し、皇帝は興元府に逃れた。
しかし懷光は本心は叛を望まず、配下も動揺したので京師を占拠していたとも連携せず、本
拠出ある河中に戻った。
・唐朝は懷光配下の諸将を分断して李晟・渾瑊・馬燧らに附け、懷光を河中に孤立させた。
・貞元元年[785年]8月懷光は河中で誅され、朔方軍の主流は渾瑊が引き継いだ。