・鳳翔府は元岐州であり、京兆府の西隣となり、隴右道・河西道への入り口となる要地である。
・至徳元年[756年]扶風郡より鳳翔府と改名、至徳二年[757年]には西京が置かれた。
乾元二年[759年]には防禦使が置かれ。上元元年[760年]には興鳳隴節度使になった。
節度使は崔光遠など短期で交替し、永泰元年[765年]に澤潞節度使李抱玉が兼任するまでは
軽量な扱いを受けていた。その後吐蕃防衛の拠点として重視されていった。
・大暦年間、十二年[777年]に卒するまで抱玉は河西隴右副元帥として鳳翔を拠点とし、
河中郭子儀とともに重きをなした。
・その後幽州から来た朱の兼任となったが、建中三年[782年]の弟朱滔が河北で叛すると
解任され、宰相張鎰が赴任した。
・建中四年[783年]朱が軍乱に乗じてが京師で叛し、宗皇帝は奉天城に逃れて籠城した。
鎰はこれを救援しようとしたが、將士はの元部下であったので乱し殺され、李楚琳が自立した。
しかし楚琳は唐朝有利とみて側には立たなかった。
・興元元年[784年]乱の平定とともに楚琳は帰順して入朝し、副元帥李晟が節度使となった。
・至徳元年[756年]扶風郡より鳳翔府と改名、至徳二年[757年]には西京が置かれた。
乾元二年[759年]には防禦使が置かれ。上元元年[760年]には興鳳隴節度使になった。
節度使は崔光遠など短期で交替し、永泰元年[765年]に澤潞節度使李抱玉が兼任するまでは
軽量な扱いを受けていた。その後吐蕃防衛の拠点として重視されていった。
・大暦年間、十二年[777年]に卒するまで抱玉は河西隴右副元帥として鳳翔を拠点とし、
河中郭子儀とともに重きをなした。
・その後幽州から来た朱の兼任となったが、建中三年[782年]の弟朱滔が河北で叛すると
解任され、宰相張鎰が赴任した。
・建中四年[783年]朱が軍乱に乗じてが京師で叛し、宗皇帝は奉天城に逃れて籠城した。
鎰はこれを救援しようとしたが、將士はの元部下であったので乱し殺され、李楚琳が自立した。
しかし楚琳は唐朝有利とみて側には立たなかった。
・興元元年[784年]乱の平定とともに楚琳は帰順して入朝し、副元帥李晟が節度使となった。