・河陽節度使は隣鎭の昭義節度との関係が強く、昭義との交流がよくみられる。
・貞元年間[785-804年]には事がおこらなかったが、元和5年[810年]昭義将鳥重胤が節度使
となり、憲宗皇帝の成徳・淮西征討に積極的に従った。
・元和9年[814年]魏博田弘正が唐朝に帰順し、成徳王承宗が牽制できるようになったことと、
弘正への信頼をあらわす意味で河陽節度を黄河北の懷州より、南の汝州に移し淮西対策に主眼
を置くようにした。
・その後重胤は忠武李光顔と協力して淮西呉元濟の主力と小溵河・淩雲柵・賈店で戦った。
・元和12年[817年]李愬が奇襲によって淮西を陥し、重胤は元和13年[818年]承宗が帰服
して献じた徳棣二州を含む横海節度使に転じた。しかし牙軍は移鎭を喜ばず潰走するものが多
かったが、後任の文官令狐楚はこれを慰撫してよく治めた。
・貞元年間[785-804年]には事がおこらなかったが、元和5年[810年]昭義将鳥重胤が節度使
となり、憲宗皇帝の成徳・淮西征討に積極的に従った。
・元和9年[814年]魏博田弘正が唐朝に帰順し、成徳王承宗が牽制できるようになったことと、
弘正への信頼をあらわす意味で河陽節度を黄河北の懷州より、南の汝州に移し淮西対策に主眼
を置くようにした。
・その後重胤は忠武李光顔と協力して淮西呉元濟の主力と小溵河・淩雲柵・賈店で戦った。
・元和12年[817年]李愬が奇襲によって淮西を陥し、重胤は元和13年[818年]承宗が帰服
して献じた徳棣二州を含む横海節度使に転じた。しかし牙軍は移鎭を喜ばず潰走するものが多
かったが、後任の文官令狐楚はこれを慰撫してよく治めた。