非常に残念である。
音楽自体はすばらしい。交響曲1番。高橋選手のヴァイオリンのためのソナチネ。新垣隆氏は、この音楽を作り出したということは、誇ってよいと思う。
有識者の新聞へのコメントで、「現代の聴衆はもはや音楽は聴いておらず、それにまつわるストーリー(感動秘話)を聴いているのである。そのストーリーが無いと売れない。」とかいう主旨のものがあった。が、それは違うだろう。いくらストーリーが感涙にむせぶものであっても、音楽自体がつまらなければ、1時間前後の交響曲など最後まで聴き通さずに人は退出するであろう。
しかし、それは無かった。少なくとも自分は。
本当に残念である。もう一度言うが、こういう音楽の作れる新垣氏は、著作権放棄などと言わず、改めて、正当に自分のものとされてはどうだろうか。
さて、佐村河内氏は、嘘でも良いからヒーローになることを喜びとした。ヒーローとして見られることに喜びを感じた。時間軸で見ると、その永続性が無いのは明らかであるのに、そこに踏み込んだ。その手段として、自分の物ではない、他人のものを使った。
そして、これは、結構シビアに誰にでも当てはまることだと気づいた。
ギブソンのSJ-200(フォークギター)をかかえてエルビス気取り。そんなあなたは、もう一人の佐村河内氏である。
ギブソンのJ-45(フォークギター)をかかえてよしだたくろう気取り。そんなあなたは、もう一人の佐村河内氏である。
フェンダーのストラトキャスター(エレキギアー)をかかえて、ジミヘン、リッチー気取り。以下同文。
ビトンのバッグをかかえて・・・・気取り。以下同文。
現代のベートーベン? そして僕らは、オラが街のエルビス、たくろう、ジミヘン、、、、、、、
自分自身だけであり続ける、って難しいね。
新垣氏の音楽。SJ-200、J-45、ストラト、ビトン。これらは本物である。
そして、僕らは偽物。
偽物にならないためには、自分自身であればよい。
さて、それはどこにあるかな?