菅原勝矢投手
・「不器用」ということばは、この人のためにあるのではと思うほどのっそりと、そしてモノにとらわれなかった。
1972年、7月4日、札幌円山球場の夏はぬけるような青空が広がり、東京の梅雨が信じられないほど爽やかだった。
首位・阪神との攻防は巨人のリードで9回表、一死一塁と大詰めを迎えていた。先発の菅原は力投していた。川上監督の期待どおりであった。この年、開幕からローテーション投手の高橋一と渡辺が不調で、堀内ひとりの投手陣の中にあって、救援として開幕1か月で5勝をマークした菅原は、まさに救世主となった。
救援から先発に堀内との2本柱までに成長した菅原だから、巨人ベンチ、スタンドの巨人ファンも「あと2人で終わり」と読んで、見守っていた。
ネット裏では「これで、巨人は首位の阪神に2ゲーム差に迫った」と記者たちがソロバンをはじく。阪神の攻撃、安藤の当たりはライナー性であったが火を噴くほどの鋭さではなく、かわいたグラウンドに跳ね、ツーバウンド目で菅原のグラブの方に飛んでいった。「しめた。ゲッツーだ!」
菅原はそう思ってグラブをさし出しながら、2塁方向に顔を向けた。だが、菅原がさし出したグラブの横を生きもののようにすりぬけて、打球は菅原の左目の方にすごい勢いで飛んできた。
「あっ!」
菅原はうめいて倒れると、手で目を覆ったが、その間からは真っ赤な血がしたたり落ちた。
長嶋、王が
り寄ってきたとき、菅原は体をふるわせていた。いつもなら「お前は
オーバーだからな」と気にもとめない長嶋も、異常なうろたえ方に事の重大さを知った。マウンドから病院へと「ツキ男」が去るとともに巨人は逆転負けを喫した。その夜、菅原の親友、阪神の江夏が見舞いに来たが病院の先生が、そっといった。「江夏さん、目を14針縫ったのですが、菅原さんには4針といってください。本当のことをいうと相当にショックですから・・」
江夏はそのとおり、菅原に伝えると、なるほど菅原は地獄で仏に遇ったようにホッとした。
それでも前半戦2位で折り返した巨人の、巻き返しの主役として後半戦11試合に登板し、自己最高の13勝をマーク。巨人Ⅴ8に貢献して見事なカムバック成ったか、と思われた。
ところが、首脳陣は気になっていたことがあった。左目の視力は0,3まで回復しながら、菅原は自分の近くに打球がくると目をそらし、「カン」だけで捕るようになってしまったのだ。打球が怖くなった彼に自信をつけさせようと、いやがる菅原をひっぱり出して守備練習が行われていたが1973年、6月27日、多摩川で中尾コーチからノックを受けていたとき、目をそらす悪いクセが出て、左頭部に打球が当たって倒れた。病院での診断は「頭部打撲の外傷」が認められた。激しい目まいに顔をゆがめ、ランニングをしていても途中でやめる。チームメイトは「ケガに負けたらおしまいだ。なにくそという気でやってみろ」と激励をしたが、だめだった。菅原のプロ生活は1973年限りでピリオドが打たれた。33勝8敗、勝率808が彼の通算成績であった。
菅原の母校は秋田県・鷹巣農林高校というスキーでは有名も野球では知る人もない無名校。ここでエースとして投げ、農大に入学したが、「好きな野球をやるのならいっそ、プロで・・」と、大人しいわりには思い切りがよい選択だった。
平凡に進んでいれば営林署で秋田杉の管理でもしていた男が、145キロ台のスピードボールを投げる能力があるばかりに、プロの門をたたいたのである。
4年目の1967年、速球とシュートを武器に11勝をあげ、翌68年は4勝、69年にはパッタリ勝てなくなった。当時のチーム内では堀内にもヒケをとらないほどの速球を持ちながら低迷する原因を「気の弱さ」と見た巨人首脳は1972年、キャンプでの同室に王を組み入れ、お精神力の向上を図った。そしてグラウンドでは長嶋に声をかけられる。「お前は、威力のある球を投げられるのに、一つだけ違うのは考えすぎなんだよ。野球なんて、そんなに難しいもんじゃないんだ」
自己主張の強い投手が多い中で、菅原ほど「ひっこみ思案」な性格も珍しい。東北なまりのせいもあるが、彼の口を開かすのに苦労した記者は「菅原を記事にするのは大変だ」と苦笑したものだった。
1971年、9月7日、参考記録ながらヤクルトを相手に7回を降雨コールドながらノーヒット・ノーランをマークした。そのときも「もし雨でなかったら大記録を作っていただろうな」と水を向けられ「いえ、とんでもない。あの辺が限度。負けないでよかった」と欲のない答えが返ってきた。
巨人を去る時、目の治療費でモメたこともあって散りぎわの華やかさはなかったが、「捨てる神あれば拾う神あり」で、菅原はⅤ9監督の川上企画に就職し、少年野球を指導するようになった。現役時代の真面目な性格が川上監督から評価されたのだが、菅原は少年たちに手とり足とり指導しながら、何度も強調した。
「みんなプロのカッコいいプレーばかりを真似てはいけないよ。基本が一番大事なんだ。ゴロが飛んで来たら最後までボールから目を離しちゃだめだ。おじさんは目を離したために、プロ野球選手をやめなければいけなくなったんだよ」
菅原が教えた少年たちは、何の邪心もなくひたすら白球を追っていった。いわれた通り、じっとボールから目を離さないで・・・。
そして今「1984年」。菅原がユニフォームを脱いで早くも10年が過ぎた。
ことし、開幕前の多摩川の練習場を菅原は訪れた。同時期に巨人に入った堀内が投手コーチに就任したことで、その働きぶりをのぞきたかったようである。かたや堀内は、王巨人の露払い役、かたや菅原は自動車のセールスマンなどをして社会の荒波に打たれながら、必死に生きている。
「野球をやめてから、プロ選手であったことがいかに幸せかがわかる。それにしても、いまの若い選手は堂々としているなあ」
20年前、おどおど練習していた自分の姿を思い浮かべたのであろう。菅原が見つめる先には、槇原や水野の姿があった。
・「不器用」ということばは、この人のためにあるのではと思うほどのっそりと、そしてモノにとらわれなかった。
1972年、7月4日、札幌円山球場の夏はぬけるような青空が広がり、東京の梅雨が信じられないほど爽やかだった。
首位・阪神との攻防は巨人のリードで9回表、一死一塁と大詰めを迎えていた。先発の菅原は力投していた。川上監督の期待どおりであった。この年、開幕からローテーション投手の高橋一と渡辺が不調で、堀内ひとりの投手陣の中にあって、救援として開幕1か月で5勝をマークした菅原は、まさに救世主となった。
救援から先発に堀内との2本柱までに成長した菅原だから、巨人ベンチ、スタンドの巨人ファンも「あと2人で終わり」と読んで、見守っていた。
ネット裏では「これで、巨人は首位の阪神に2ゲーム差に迫った」と記者たちがソロバンをはじく。阪神の攻撃、安藤の当たりはライナー性であったが火を噴くほどの鋭さではなく、かわいたグラウンドに跳ね、ツーバウンド目で菅原のグラブの方に飛んでいった。「しめた。ゲッツーだ!」
菅原はそう思ってグラブをさし出しながら、2塁方向に顔を向けた。だが、菅原がさし出したグラブの横を生きもののようにすりぬけて、打球は菅原の左目の方にすごい勢いで飛んできた。
「あっ!」
菅原はうめいて倒れると、手で目を覆ったが、その間からは真っ赤な血がしたたり落ちた。
長嶋、王が
り寄ってきたとき、菅原は体をふるわせていた。いつもなら「お前は
オーバーだからな」と気にもとめない長嶋も、異常なうろたえ方に事の重大さを知った。マウンドから病院へと「ツキ男」が去るとともに巨人は逆転負けを喫した。その夜、菅原の親友、阪神の江夏が見舞いに来たが病院の先生が、そっといった。「江夏さん、目を14針縫ったのですが、菅原さんには4針といってください。本当のことをいうと相当にショックですから・・」
江夏はそのとおり、菅原に伝えると、なるほど菅原は地獄で仏に遇ったようにホッとした。
それでも前半戦2位で折り返した巨人の、巻き返しの主役として後半戦11試合に登板し、自己最高の13勝をマーク。巨人Ⅴ8に貢献して見事なカムバック成ったか、と思われた。
ところが、首脳陣は気になっていたことがあった。左目の視力は0,3まで回復しながら、菅原は自分の近くに打球がくると目をそらし、「カン」だけで捕るようになってしまったのだ。打球が怖くなった彼に自信をつけさせようと、いやがる菅原をひっぱり出して守備練習が行われていたが1973年、6月27日、多摩川で中尾コーチからノックを受けていたとき、目をそらす悪いクセが出て、左頭部に打球が当たって倒れた。病院での診断は「頭部打撲の外傷」が認められた。激しい目まいに顔をゆがめ、ランニングをしていても途中でやめる。チームメイトは「ケガに負けたらおしまいだ。なにくそという気でやってみろ」と激励をしたが、だめだった。菅原のプロ生活は1973年限りでピリオドが打たれた。33勝8敗、勝率808が彼の通算成績であった。
菅原の母校は秋田県・鷹巣農林高校というスキーでは有名も野球では知る人もない無名校。ここでエースとして投げ、農大に入学したが、「好きな野球をやるのならいっそ、プロで・・」と、大人しいわりには思い切りがよい選択だった。
平凡に進んでいれば営林署で秋田杉の管理でもしていた男が、145キロ台のスピードボールを投げる能力があるばかりに、プロの門をたたいたのである。
4年目の1967年、速球とシュートを武器に11勝をあげ、翌68年は4勝、69年にはパッタリ勝てなくなった。当時のチーム内では堀内にもヒケをとらないほどの速球を持ちながら低迷する原因を「気の弱さ」と見た巨人首脳は1972年、キャンプでの同室に王を組み入れ、お精神力の向上を図った。そしてグラウンドでは長嶋に声をかけられる。「お前は、威力のある球を投げられるのに、一つだけ違うのは考えすぎなんだよ。野球なんて、そんなに難しいもんじゃないんだ」
自己主張の強い投手が多い中で、菅原ほど「ひっこみ思案」な性格も珍しい。東北なまりのせいもあるが、彼の口を開かすのに苦労した記者は「菅原を記事にするのは大変だ」と苦笑したものだった。
1971年、9月7日、参考記録ながらヤクルトを相手に7回を降雨コールドながらノーヒット・ノーランをマークした。そのときも「もし雨でなかったら大記録を作っていただろうな」と水を向けられ「いえ、とんでもない。あの辺が限度。負けないでよかった」と欲のない答えが返ってきた。
巨人を去る時、目の治療費でモメたこともあって散りぎわの華やかさはなかったが、「捨てる神あれば拾う神あり」で、菅原はⅤ9監督の川上企画に就職し、少年野球を指導するようになった。現役時代の真面目な性格が川上監督から評価されたのだが、菅原は少年たちに手とり足とり指導しながら、何度も強調した。
「みんなプロのカッコいいプレーばかりを真似てはいけないよ。基本が一番大事なんだ。ゴロが飛んで来たら最後までボールから目を離しちゃだめだ。おじさんは目を離したために、プロ野球選手をやめなければいけなくなったんだよ」
菅原が教えた少年たちは、何の邪心もなくひたすら白球を追っていった。いわれた通り、じっとボールから目を離さないで・・・。
そして今「1984年」。菅原がユニフォームを脱いで早くも10年が過ぎた。
ことし、開幕前の多摩川の練習場を菅原は訪れた。同時期に巨人に入った堀内が投手コーチに就任したことで、その働きぶりをのぞきたかったようである。かたや堀内は、王巨人の露払い役、かたや菅原は自動車のセールスマンなどをして社会の荒波に打たれながら、必死に生きている。
「野球をやめてから、プロ選手であったことがいかに幸せかがわかる。それにしても、いまの若い選手は堂々としているなあ」
20年前、おどおど練習していた自分の姿を思い浮かべたのであろう。菅原が見つめる先には、槇原や水野の姿があった。
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