秋らしくなり、お天気に恵まれた日曜日。
いつものメンバー(母、弟夫婦、私)で父の墓参りに行った。
なんと、春のお彼岸以来である。
秋のお彼岸も母を連れ出すにはまだ暑すぎて、気づけば10月になってしまった。
霊園の中を私の腕に掴まって歩きながら、
「ここ、こんなにきれいやった? 直さはったん?」
「いやどこも直してないよ、前から手入れが行き届いててきれいよ」
そのあと町中に出ても、どこもかしこも初めて見る景色らしく、
「ここどこ?きれいなところやなぁ!初めて来たわ」
「いつものとこやん。ホラあそこがモノレールの駅で。ここでよく待ち合わせしたやん」
「へえそうか。覚えてないわ」
だいぶ認知症が進んでいるようだ。
毎日がまっさらで、どこに行っても何を見ても「初めて」というのは
どんな気持ちだろう。
それはそれで新鮮で良いかもね。
天ぷらとお刺身の定食を食べて、デザートも同じ店で食べて・・・
約2時間。
母はゆっくりと時間はかかるがお膳の白飯以外ほぼ食べた。
デザートは別腹といい、ガトーショコラをペロッと。
施設でも、時間はかかるが毎食しっかり食べているらしい。
片付かないで職員さんも困るだろうに、待っていてくださってありがたい。
デザートを待つ頃、母が突然、昔話を始めた。
今思えば、母は朝から若い女学生だったのかもしれない。
だから周りの目に映るものすべてがきれいで・・・。
母は1928年、大阪のど真ん中の裕福な地主の家に生まれた。
父親は米屋だか酒屋だかを営み(ここは訊くたびに違う)、N市のミッション系女学校に通っていた。
「女学校の前まで専用電車が走ってて、それに乗って通ったんよ」
(へえ~初耳! 母はお金持ちのお嬢様だったんだ。専用電車の件も初耳!)
といっても英語の勉強が出来たのは僅かの間で、すぐに禁止された。
これがとても残念で、「もっと英語を習いたかったわ」(ふむふむ)
母の父は長男だったが土地や店を全部弟妹に分け与えてしまい(え、なんで?)、
自分は何も要らないといって、家族は貧しい長屋住まいだった。
(私が知ってる母の実家は狭くて小さい長屋だった。お嬢様の気配など皆無)
その父は母が17歳の時に他界した(脳卒中か心臓発作か、急死)。
戦後、某商社に働きに出ていた母は、そこで外国語専門学校を出た商社マンと知り合う。
可愛かった(自分で言うか)からすぐに見染められて、
「プレーボーイだからやめとけと周りに言われたんやけど」お付き合いが始まり、
「まさか心臓悪いなんて知らんまま」結婚した。
(このあたりのコイバナは一度聞いたことがある)
ある時、父は母が通っていた女学校を見てみたいと言った。
女学校のあるN市を訪れてすっかりその地が気に入った父は、
母に内緒で小さな小さな一軒家を買った(イマふうにいえばサプラーイズ!かしらん🤣)。
「知らんうちに家買ったって。あんな山の上の不便なとこに。
犬もどこかから連れてきて。私は飼うなら猫やと決めてたのに勝手に犬連れてきてん」
(サプライズ失敗か🤣)
父はロマンチストだったんだな。
犬の話は知っていたが、家の話は初耳だった。
N市の地名のきれいな響きが気に入った父は、生まれた赤ん坊(私)の名前にそれを付けた。
女子は〇〇子が一般的だった時代には風変わりな名前で、目立つので私はイヤだった。
でね、犬にもつけたんですよ、そっくりではないけどほぼ同じ名前を(笑)
犬と私は同じ発想で同列かい🤣
そんな昔話を懐かしそうに話す母であった。
私も弟も知らない話が多くて、びっくり。
思えば親の若い頃の話なんて、なかなか聞く機会ないものね。
戦時中の苦労話などは断片的に聞いたことがあるが、
どこまでが本人の記憶か、それとものちほど知った話か、もう定かでない。
もっと早くから、母の記憶が確かなうちに聞いておけばよかったね。
いつものメンバー(母、弟夫婦、私)で父の墓参りに行った。
なんと、春のお彼岸以来である。
秋のお彼岸も母を連れ出すにはまだ暑すぎて、気づけば10月になってしまった。
霊園の中を私の腕に掴まって歩きながら、
「ここ、こんなにきれいやった? 直さはったん?」
「いやどこも直してないよ、前から手入れが行き届いててきれいよ」
そのあと町中に出ても、どこもかしこも初めて見る景色らしく、
「ここどこ?きれいなところやなぁ!初めて来たわ」
「いつものとこやん。ホラあそこがモノレールの駅で。ここでよく待ち合わせしたやん」
「へえそうか。覚えてないわ」
だいぶ認知症が進んでいるようだ。
毎日がまっさらで、どこに行っても何を見ても「初めて」というのは
どんな気持ちだろう。
それはそれで新鮮で良いかもね。
天ぷらとお刺身の定食を食べて、デザートも同じ店で食べて・・・
約2時間。
母はゆっくりと時間はかかるがお膳の白飯以外ほぼ食べた。
デザートは別腹といい、ガトーショコラをペロッと。
施設でも、時間はかかるが毎食しっかり食べているらしい。
片付かないで職員さんも困るだろうに、待っていてくださってありがたい。
デザートを待つ頃、母が突然、昔話を始めた。
今思えば、母は朝から若い女学生だったのかもしれない。
だから周りの目に映るものすべてがきれいで・・・。
母は1928年、大阪のど真ん中の裕福な地主の家に生まれた。
父親は米屋だか酒屋だかを営み(ここは訊くたびに違う)、N市のミッション系女学校に通っていた。
「女学校の前まで専用電車が走ってて、それに乗って通ったんよ」
(へえ~初耳! 母はお金持ちのお嬢様だったんだ。専用電車の件も初耳!)
といっても英語の勉強が出来たのは僅かの間で、すぐに禁止された。
これがとても残念で、「もっと英語を習いたかったわ」(ふむふむ)
母の父は長男だったが土地や店を全部弟妹に分け与えてしまい(え、なんで?)、
自分は何も要らないといって、家族は貧しい長屋住まいだった。
(私が知ってる母の実家は狭くて小さい長屋だった。お嬢様の気配など皆無)
その父は母が17歳の時に他界した(脳卒中か心臓発作か、急死)。
戦後、某商社に働きに出ていた母は、そこで外国語専門学校を出た商社マンと知り合う。
可愛かった(自分で言うか)からすぐに見染められて、
「プレーボーイだからやめとけと周りに言われたんやけど」お付き合いが始まり、
「まさか心臓悪いなんて知らんまま」結婚した。
(このあたりのコイバナは一度聞いたことがある)
ある時、父は母が通っていた女学校を見てみたいと言った。
女学校のあるN市を訪れてすっかりその地が気に入った父は、
母に内緒で小さな小さな一軒家を買った(イマふうにいえばサプラーイズ!かしらん🤣)。
「知らんうちに家買ったって。あんな山の上の不便なとこに。
犬もどこかから連れてきて。私は飼うなら猫やと決めてたのに勝手に犬連れてきてん」
(サプライズ失敗か🤣)
父はロマンチストだったんだな。
犬の話は知っていたが、家の話は初耳だった。
N市の地名のきれいな響きが気に入った父は、生まれた赤ん坊(私)の名前にそれを付けた。
女子は〇〇子が一般的だった時代には風変わりな名前で、目立つので私はイヤだった。
でね、犬にもつけたんですよ、そっくりではないけどほぼ同じ名前を(笑)
犬と私は同じ発想で同列かい🤣
そんな昔話を懐かしそうに話す母であった。
私も弟も知らない話が多くて、びっくり。
思えば親の若い頃の話なんて、なかなか聞く機会ないものね。
戦時中の苦労話などは断片的に聞いたことがあるが、
どこまでが本人の記憶か、それとものちほど知った話か、もう定かでない。
もっと早くから、母の記憶が確かなうちに聞いておけばよかったね。
齢を聞くと23といい、住所を聞くと昔住んでいた場所の住所を言う。でも微妙に間違っている。
寝たきりで下の世話も必要なのだけど、以前は恥ずかしがっていなかったのに自分が23歳だと思うようになってからは恥ずかしがるようになったとか。
そういう認知症は幸せかもね。
pukarikoさんのお母様は齢を聞いたら幾つだと答えるかしら。
こんばんは。
この日の母はおそらく娘時代に戻ってましたね。
だからどこを見ても初めてで、きれいに見えたのでしょう。
女学校の専用電車の話は嘘だろうと思いましたが、
調べたら本当でした。
ついこの間まで走っていたようです(京阪電鉄の、後方2車輌が学校専用)。
認知症になったら自分の一番輝いていた時代に戻るといいます。
今日は娘時代、明日は高校生時代・・・
好きな時代にワープ出来たら楽しいでしょうね。
これからでも思い出をいっぱい作った方が楽しい老後を過ごせそうです.
実際、日がな一日ボーっと過ごしているように見えて
実はお年寄りはみんな脳内時間旅行を楽しんでいるのかもしれません(^-^)