夕凪に紛れる淡い月の色を眺めながら、鮮やかな色の着物に袖を通す。それはひどく狂わしい紅色をしていたが、一針一針丹念に彫られた花模様が繊細で美しい。一目でさぞ高価なものであろうことが見受けられる高尚な着物である。しかし普段の夜一からすれば珍しい、と喜助は被ったままになっている帽子をひっそりと畳に置いた。
夜一が喜助の前に惜しげもなく素肌を晒すことは珍しくない。それは男と女の間柄であるから故であると他者は見るのかもしれぬが、決してそうではなく、ただ夜一がそういったことに頓着しないためであった。が、喜助は常にそのことを気に病んでいる。さも彼女のことは全て許容しているといった風な顔をしているけれども、胸の内はやはり宜しくない。
しかし目前に佇む夜一の横顔は普段見ているものとは少々違うようで、喜助も同じく険しい表情を見せた。夜一は楽な服装を好んで着用しており、現世で服を与えられた時にも「着物なんぞより良い」といたく気に入った素振りを見せた。それ以来着物に袖を通したことなどなかったというのに、あちらから持ち込んだ着物を夕時になって突然手に取り自室へと消えた夜一を見て、これはどうしたことか、とテッサイなどは訝しい表情を隠せないでいる。
そうしてそのことを喜助に知らせると、ああそう、と何ともなしに答えられ、そのまま慣れた仕草で夜一のいる部屋の入り口を開いたのだった。
「失礼しますよ、夜一サン。」
「おう、喜助か。」
テッサイはそこで場を離れたが、喜助は足音を立てずにおもむろに中に入ってゆく。元より女性の着替えに立ち入るような愚か者ではないが、内に佇むしなやかな背中に魅せられ、とうとう踏み入れてしまったのである。素肌を拝むため、というよりも、その凛と光の差す横顔に惹かれて。
今更、という間柄ではあるが、それはそれだと念のために「すみません」と謝罪しておくと、「何がじゃ?」とさも不思議そうに目を開かれたので、そのまま畳に座してしまった。
「綺麗っスねえ。」
「そうじゃろう、そうじゃろう。」
二度繰り返し、夜一は襦袢をきつく締めた。すると着物のことじゃないのに、と喜助が薄く苦笑を浮かべる。その容貌からしても、吉事などに用いる着物であることは容易く分かるが、けれども果たしてなぜ今日という日に持ち出したのか、それは分からずじまいであった。
「今日は何かありましたっけ?」
「何もないぞ?…そろそろ年は明けるがな。」
そう言って懐かしそうに目を細める彼女がいとおしく、掻き抱いてしまいたい思いを押し留める。それこそそんなことをしては今の状況につけ込んだようであると思ったためだ。喜助は話を逸らすような気持ちで、穏やかに口を開く。
「早いもんスねえ…一緒にコッチに来てどれくらいになります?」
「そうじゃのう…そろそろ一年と半年になるか。」
「おや、そんなになりますか。」
喜助が罪を犯し、あちらを追放されてから既に一度年を明かしていたが、それももう二度目となる。夜一と喜助は目を細めたまま外を眺め、夕闇に染まる前は空気と共に空が白んでいたことを思い、雪が近いのやもしれぬと考えていた。
「それで、どうして何もないのにその着物を着てみようと思ったんスか?」
「正月に着ようと思ったんじゃが、長う着ておらんものじゃからどうなっておるか気になってな…。どうやらまだ着られるようじゃ。」
「虫なんかには喰われてないみたいっスね…。でも今年の正月は普通の格好だったじゃありませんか。」
「折角の正月じゃ。今年とは違う着物で脅かそうと思うてな。じゃが見られてしもうた。つまらん。」
不貞腐れたように息を吐いた夜一を見て、それはそれは、と喜助が笑みを浮かべた。どんな形であろうとも、美しい姿を見せようと思ってくれたことは嬉しい。自分だけにではないだろうが、普段外見にはあまり頓着しない夜一のことである。
「…正月じゃなくても良いじゃないスか。綺麗ですよ。」
「いや、正月にも着るぞ。テッサイにはまだ見られておらぬからのう。」
―…本当は、いつもより綺麗なところはアタシにしか見せないで欲しいんスけどねえ。
そうは思うが、夜一は無邪気に正月の算段を立てている。何とも可愛らしい、と感じてしまうところがまた忌々しい。喜助は、夜一のこういった奔放な部分も、もしくは凛とした部分も、時折見せる懐かしげな表情も、全て許容し、愛している。しかしながら、何の意識もなくこのように振舞うのは、些か残酷なのではないかとも思う。未だ彼女は、『女』としての自分の価値をよく知らぬままである。
「…そんなもの着なくても、充分艶かしいんですけどねえ、アナタは。」
「何か言ったか?喜助。」
「いいえ、何にも。」
背を向けたまま、夜一が肩越しに訝しげな顔を浮かべる。喜助は畳に帽子を置いたままにして、ふと立ち上がり背後から夜一を抱き締めた。夜一は突然のことに驚いて喜助を振り返るが、額に口付けられ、そのまま押し黙った。
夕闇はいつしか濃紺の空へと変貌し、夜一の紅を沈めるようにして二人の影に覆い被さる。するとふとした瞬間に、女美丈夫とも言える夜一が何とも儚い色を帯びているように思えて、少しばかり腕の力を強めた。霞がかった影の美しい人は、艶めいた黒髪を垂らして喜助の胸に身を寄せたが、大きく開かれた丸い瞳は終ぞそのままであった。
今宵は潜む 月の下
朧に浮かぶ 霞姫
今宵は土に 惑う紅
小さく微笑う 霞姫
■あとがき■
僭越ながら「喜夜祭」様に投稿させて頂きました喜夜でございます。(タイトルは「かすみひめ」と読むのですが、~かすみひめ~とルビを振るよりもこちらの方が良い気がしたので。あしからず)
とても好きなCPにも関わらずあまり書く機会に恵まれませんでしたので、これを機会にデビュー。(笑)素敵な場をありがとうございましたv
夜一さんが無自覚に肌を露出するのを、喜助さんはあまり宜しく思っていないといいなあ、と。
ジン太と雨がいつからいるのかはよく分かりませんが、この時はいないということで。
夜一が喜助の前に惜しげもなく素肌を晒すことは珍しくない。それは男と女の間柄であるから故であると他者は見るのかもしれぬが、決してそうではなく、ただ夜一がそういったことに頓着しないためであった。が、喜助は常にそのことを気に病んでいる。さも彼女のことは全て許容しているといった風な顔をしているけれども、胸の内はやはり宜しくない。
しかし目前に佇む夜一の横顔は普段見ているものとは少々違うようで、喜助も同じく険しい表情を見せた。夜一は楽な服装を好んで着用しており、現世で服を与えられた時にも「着物なんぞより良い」といたく気に入った素振りを見せた。それ以来着物に袖を通したことなどなかったというのに、あちらから持ち込んだ着物を夕時になって突然手に取り自室へと消えた夜一を見て、これはどうしたことか、とテッサイなどは訝しい表情を隠せないでいる。
そうしてそのことを喜助に知らせると、ああそう、と何ともなしに答えられ、そのまま慣れた仕草で夜一のいる部屋の入り口を開いたのだった。
「失礼しますよ、夜一サン。」
「おう、喜助か。」
テッサイはそこで場を離れたが、喜助は足音を立てずにおもむろに中に入ってゆく。元より女性の着替えに立ち入るような愚か者ではないが、内に佇むしなやかな背中に魅せられ、とうとう踏み入れてしまったのである。素肌を拝むため、というよりも、その凛と光の差す横顔に惹かれて。
今更、という間柄ではあるが、それはそれだと念のために「すみません」と謝罪しておくと、「何がじゃ?」とさも不思議そうに目を開かれたので、そのまま畳に座してしまった。
「綺麗っスねえ。」
「そうじゃろう、そうじゃろう。」
二度繰り返し、夜一は襦袢をきつく締めた。すると着物のことじゃないのに、と喜助が薄く苦笑を浮かべる。その容貌からしても、吉事などに用いる着物であることは容易く分かるが、けれども果たしてなぜ今日という日に持ち出したのか、それは分からずじまいであった。
「今日は何かありましたっけ?」
「何もないぞ?…そろそろ年は明けるがな。」
そう言って懐かしそうに目を細める彼女がいとおしく、掻き抱いてしまいたい思いを押し留める。それこそそんなことをしては今の状況につけ込んだようであると思ったためだ。喜助は話を逸らすような気持ちで、穏やかに口を開く。
「早いもんスねえ…一緒にコッチに来てどれくらいになります?」
「そうじゃのう…そろそろ一年と半年になるか。」
「おや、そんなになりますか。」
喜助が罪を犯し、あちらを追放されてから既に一度年を明かしていたが、それももう二度目となる。夜一と喜助は目を細めたまま外を眺め、夕闇に染まる前は空気と共に空が白んでいたことを思い、雪が近いのやもしれぬと考えていた。
「それで、どうして何もないのにその着物を着てみようと思ったんスか?」
「正月に着ようと思ったんじゃが、長う着ておらんものじゃからどうなっておるか気になってな…。どうやらまだ着られるようじゃ。」
「虫なんかには喰われてないみたいっスね…。でも今年の正月は普通の格好だったじゃありませんか。」
「折角の正月じゃ。今年とは違う着物で脅かそうと思うてな。じゃが見られてしもうた。つまらん。」
不貞腐れたように息を吐いた夜一を見て、それはそれは、と喜助が笑みを浮かべた。どんな形であろうとも、美しい姿を見せようと思ってくれたことは嬉しい。自分だけにではないだろうが、普段外見にはあまり頓着しない夜一のことである。
「…正月じゃなくても良いじゃないスか。綺麗ですよ。」
「いや、正月にも着るぞ。テッサイにはまだ見られておらぬからのう。」
―…本当は、いつもより綺麗なところはアタシにしか見せないで欲しいんスけどねえ。
そうは思うが、夜一は無邪気に正月の算段を立てている。何とも可愛らしい、と感じてしまうところがまた忌々しい。喜助は、夜一のこういった奔放な部分も、もしくは凛とした部分も、時折見せる懐かしげな表情も、全て許容し、愛している。しかしながら、何の意識もなくこのように振舞うのは、些か残酷なのではないかとも思う。未だ彼女は、『女』としての自分の価値をよく知らぬままである。
「…そんなもの着なくても、充分艶かしいんですけどねえ、アナタは。」
「何か言ったか?喜助。」
「いいえ、何にも。」
背を向けたまま、夜一が肩越しに訝しげな顔を浮かべる。喜助は畳に帽子を置いたままにして、ふと立ち上がり背後から夜一を抱き締めた。夜一は突然のことに驚いて喜助を振り返るが、額に口付けられ、そのまま押し黙った。
夕闇はいつしか濃紺の空へと変貌し、夜一の紅を沈めるようにして二人の影に覆い被さる。するとふとした瞬間に、女美丈夫とも言える夜一が何とも儚い色を帯びているように思えて、少しばかり腕の力を強めた。霞がかった影の美しい人は、艶めいた黒髪を垂らして喜助の胸に身を寄せたが、大きく開かれた丸い瞳は終ぞそのままであった。
今宵は潜む 月の下
朧に浮かぶ 霞姫
今宵は土に 惑う紅
小さく微笑う 霞姫
■あとがき■
僭越ながら「喜夜祭」様に投稿させて頂きました喜夜でございます。(タイトルは「かすみひめ」と読むのですが、~かすみひめ~とルビを振るよりもこちらの方が良い気がしたので。あしからず)
とても好きなCPにも関わらずあまり書く機会に恵まれませんでしたので、これを機会にデビュー。(笑)素敵な場をありがとうございましたv
夜一さんが無自覚に肌を露出するのを、喜助さんはあまり宜しく思っていないといいなあ、と。
ジン太と雨がいつからいるのかはよく分かりませんが、この時はいないということで。