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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

都教委包囲・首都圏ネット7.24集会

2011年08月01日 | 集会報告
前日ほど涼しくはないものの、7月末とは思えぬ気温のなか、文京区民センターで、都教委包囲・首都圏ネットの「『君が代』最高裁判決糾弾! 大阪府「君が代起立」条例撤廃 7・24集会」が開催された(参加160人)。
5月30日から最高裁判決のラッシュが続き11件すべて敗訴、大阪では橋下知事が6月3日に「日の丸強制起立」を電撃的に条例化し、9月府議会では職員処分条例をつくろうとするなか、こうした状況をいかに位置づけ、これからどう闘うか考えようという趣旨だった。
嘱託採用拒否裁判、嘱託採用拒否撤回を求める会など、藤田裁判の藤田勝久さんを含む5人の原告の発言のあと、最高裁判決の批判と分析の報告があった。

「日の丸・君が代」強制裁判・最高裁判決の批判
                金子潔さん(解雇裁判・予防訴訟原告)

わたしは7月14日の解雇裁判最高裁判決で、判決ではなく紙切れをもらった。こんなものをもらうために7年間闘ったわけではない。社会状況は7年前より悪くなっているが、今日の集会は「判決に屈しない、闘い続ける」という決意の集会だ。

●最高裁判決の特徴
この判決は竹崎長官を除く14人の裁判官全員が参加し、しかも文章も3小法廷ともまったく同じ、そして後の裁判で大法廷判決並みに前の判決を引用しているので、実質は大法廷判決と押えるべきである。
2人から反対意見、7人から補足意見があり判事の過半数を上回る。マスコミ報道では「慎重な配慮を教育関係者に求める」という補足意見や宮川光治判事の反対意見にスポットが当てられた。しかし効力を発揮するのはあくまでも主文だ。補足意見は主文の危険さを隠蔽し、社会にこの判決を受け入れさせる小道具と理解すべきである。地獄への道も善意で敷き詰められていることもある。
そして判決言い渡しの酷さも特徴だ。すべて同文、前判決の引用で、個別裁判の独自性を無視している。

●最高裁判決「主文」の批判
主文は、職務命令は憲法19条の権利を間接的に制約(権利の侵害)することを認定した。この点はピアノ訴訟最高裁判決がごまかしていたのを整理したものである。
しかし職務命令の目的および内容などを総合的に較量し、必要性・合理性を認める。そして職務命令が求めているのは、儀式的行事における儀礼的所作で、歴史観・世界観それ自体を否定するものではない、という構造になっている。
一方的結論で、詭弁の最たる理由づけである。
1 判決は、前後の脈絡に関係なく、そしてなんの根拠もなく「学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要」という。そこから職務命令の「必要性・合理性」を導く。「最初に結論ありき」の暴論である。
2 判決は、起立斉唱は思想・良心の自由について間接的な制約となり権利の侵害性があることを認めながら、一方で起立斉唱は儀礼と言い逃れている。宮川光治判事は「こういう論理立てはおかしい。きちんと審査しないといけない」と差し戻しを求めた。詭弁と決めつけがこの判決の本質である。
3 しかしこの判決が本当に求めているのは何だろう。それは公務員は全体の奉仕者であり、上司の命令に従う義務があるという公務員論である。学校教育法、地公法、学習指導要領から職務命令は憲法に違反しないとする。
しかし公務員だから基本的人権を制約してもよいとは、憲法のどこにも書かれていない。それなのにこの判決は上意下達の公務員秩序を前提にしている。戦前の天皇官吏の制度であった公務員の仕組みを現行憲法に引き写し、合理化している。

●最高裁判決の意味するもの
一連の日の丸君が代裁判は、憲法19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」をめぐるもっとも根本的かつ本質的な裁判である。19条は欧米では珍しいといわれる。たとえば世界人権宣言では「思想、良心及び宗教の自由に対する権利」と、宗教の自由と同じ条文に入れている。日本では思想良心の自由と信教の自由を分けている。それは戦前の日本は天皇制イデオロギーで心と体をがんじがらめにされてきた反省から、憲法上の保障として19条を設けたからである。日の丸君が代は天皇制と深い関係にある。また、身も心もがんじがらめにする最大の犯罪的役割を教育が担った。教育の場で日の丸君が代の強制は許されないと、わたしたちは裁判をした。これが19条裁判の本質だ。最高裁はこれを否定した。職務命令を合憲とするとは、もはや最高裁の名を呈さない。名前を変え、違憲裁判所とすべきだ。
判決文をていねいに読んでほしい。ある重要な文言が一度も出てこない。それは「基本的人権」という言葉だ。憲法19条は基本的人権のひとつで、しかももっとも重要な人権にもかかわらずである。悪名高い猿払事件大法廷判決ですら書いている。もはや裁判官の頭のなかにそういう認識がないとしか思えない。
2つめに、憲法19条は「職務命令」以下のものに過ぎないということがある。憲法98条は「憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」としているのに、憲法と職務命令を比較する論理構造がおかしい。そのおかしさを補足意見で指摘したのは須藤正彦判事だけだった。「必要性と合理性の根拠を、できれば憲法自体に求められることが望ましい」。言い換えれば「憲法上の根拠がない」ことを認めた
また従来政治活動の自由の制限や労働基本権と表現の自由に関する判決はあったが、19条固有の判決は出ていなかった。今回の判決ははじめての最高裁判例である。制約を課すには厳格な基準が必要なのに、たんに「必要性、合理性」だけにしている。本当に許せない。
最後に、藤田裁判をわざわざ一連の日の丸君が代判決に入れていることに注目すべきである。この意味は、学校秩序を維持するには刑事弾圧を行うという権力の意思の表れである。今後教員が校長に楯突いたとき、刑事罰を科される虞れがあるということだ。
わたしたちは裁判に負けたがくじける必要はない。右翼の総本山・日本会議の現在の会長は三好達・元最高裁長官である。靖国の御霊(みたま)に応えるため昔の日本に戻そうという連中が最高裁を乗っ取っている。だからくじける必要はない。今後も闘いを続けよう。

もうひとつのテーマは、この秋予想される橋下徹・大阪府知事の職員処分条例への対抗策である。
大阪・君が代条例撤廃の闘い
               井前弘幸
さん(「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大阪 事務局)

6月3日、橋下徹知事が代表を務める大阪維新の会の議員立法で「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」が制定された。施行は6月13日で、府立学校にいっせいに日の丸が掲揚された。掲揚台のない学校は旗ザオだけでよいとされ、旗ザオだけ買いに走り、校門に国旗が立てかけられた。財政難、給与カットの時代なのに掲揚台だけは別予算になっている。
維新の会には57人の府議が所属し、議会の過半数は55なので一党だけで可決可能な絶対多数になっている。4月の選挙のあと初めて制定された条例で、マニフェストにも書いていないものから手掛けた。賛成は59人で維新の会56人のほか、みんなの党1人、無所属2人、反対48、棄権1という結果だった。単独過半数による強行姿勢がこれから4年続きそうだ。
橋下知事9月の府議会で「複数回、不起立するとクビ」という罰則を可決しようとしている。なぜ知事は、これほどこだわり独裁的に強行しようとするのか。それは教育内容すべてにわたり押し付けを進めるため、いままで政治の教育への介入を押しとどめてきた憲法、教育基本法の壁を「日の丸君が代」を使い、一気に突破することがねらいなのだ。先ほどの最高裁判決の分析にあったのと同質の問題である。条例1条には「府立学校及び府内の市町村立学校における服務規律の厳格化を図ることを目的とする」とある。橋下は「条例のなかに処分規定がない」というが、すでに府教委は「この条例をもって(処分に)動く」と表明しているので、この条例そのものを撤廃させることが重要だ。
橋下知事はメールやツイッターを多用する。5月7日、8日の幹部職員向けメールで「組織のルールに従えないのなら教員を辞めてもらいます」「何が社会常識か、最後は公選職が決めること」と書き、条例施行日の前日の6月12日、毎日新聞の批判についてツイッターで「子どもの頃は一定の強制が必要。社会なんて、人間の本能とは正反対のことばかり。このストレスに耐えれないと自滅する」「教育は強制であるとはっきりと位置付けるべきである」と書いている。また6月9日の教職員向け配布物には「校長マネジメントによる学校組織運営」を強調し「正解がわからないからこそ、政治の判断に委ねるべきではないでしょうか。政治は、その判断を間違えば、選挙という民意の審判を経て責任を取ることができるからです」と述べている。
7月1日のツイッターには「政治の(教育への)不介入の行き過ぎも禁物」「不介入の行き過ぎは、行政、教育現場の暴走に繋がる」と書いている。知事は、政治が教育に自由に介入することを目指している
6月の条例のときはわずか4日くらいで900人、63団体から条例反対への賛同が集まった。橋下知事は9月20日からの府議会に職員処分条例を提案し、1か月で成立させ10月20日に辞職し市長選に出馬しようとしている。これからの3か月でどれだけ押し返せるか。この問題は大阪だけの問題ではない。全国署名全国集会を行う。府議会や府教委に全国から声を届けていただきたい。

その他、横浜市の教科書問題の報告、福島県郡山市の放射線情報のファックス通信の実例の報告があった(集会全体の報告はこちらのサイトを参照)。
最後に「集会のまとめ」と「集会決議」の採択、「行動提起」の提案があり、シュプレヒコールで集会を閉めた。
閉塞的な状況が社会を押し包んでいる。希望はまだ見えない。しかし、これも福島第一原発の厄災同様、自然災害ではなく人災である。何とかしないといけない。
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