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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

こまつ座のシャンハイムーン

2010年03月12日 | 観劇など
3月6日(土)夜、紀伊國屋サザンシアターこまつ座の「シャンハイムーン」を観た。この芝居の初演は1991年、再演が93年で17年ぶりの公演なので、わたしが観るのは初めてだ。

席は前から3列目の右端に近いところで、あまりよくなかった。ただ装置や小道具、役者の表情はよくみえる。舞台は、1934年の上海内山書店の2階倉庫、上手と下手に大きな本棚が並んでいる。上手にはベッド、下手には人体骨格模型と机があり、机の上にラジオとスタンドが置いてある。正面には広いガラス窓が二重にあり日が差し込んでいる。
1934年というと、満洲事変(31年)と日中戦争(37年)の間の時期で、溥儀が満州国皇帝、ヒトラーがナチス総統に就任した年に当たる。
テーマは、当時54歳で多くの病気を抱える魯迅と彼を尊敬する日本人の友情である。魯迅は身体だけでなく、人物誤認症や失語症という心の病も患う。その原因は深い罪責感であることが解き明かされる。一時は日本の鎌倉へ亡命し身体と心の治療に専念することを決意する。しかし魯迅本人が「人物誤認症も失語症も、わたしが自分自身に与えた罰だったのではないか・・・」と病気の真の原因をみつける。「雑感文(ざつぶん)でこの世の中の欠点をつく。つきつづける。それがこの自分の後世に対する責任でしょうから。この場所を、そしてこの時代を背負って生きつづけましょう」「みなさんの生き方、みなさんそれぞれが紡いでこられた人生の物語が、わたしを直してくれたのですから。みなさんは名医ですよ」と、結局6人とも上海に留まることになる。
そのあとのエピローグが感動的だった。舞台には魯迅を除く5人が立ち、手紙を読み上げる。2年後の秋、魯迅はすでに亡くなっている。魯迅の第二夫人広平は第一夫人への手紙、内山みきは改造社社長山本実彦に、内山完造は書店員で療養中の徐波へ、医師の奥田は鎌倉の兄に、歯科医の須藤は長男出産直後の鎌倉の妻へ、魯迅の死後1週間のそれぞれの心境を綴った手紙である。最後に広平が「先生のご臨終に立ち会って下さった方々を列記して筆を擱(お)くことにいたします。朱安さん、これはとてもふしぎですが、みなさんが日本の方でした」と名前を読み上げ、幕が下りる。
文章や言葉の問題もこの芝居の大きなテーマになっている?。プロローグは、6人の役者が読む魯迅の書簡である。一番目の手紙で、魯迅が書いた文は、口語体の小説や翻訳、文語体の詩、雑感文、論文、日記、手紙の6種類であることが紹介される。このなかの小説と雑感文の違いがこの芝居のひとつのテーマになっている。
「読む者のこころを洗い清め、さらに静かな勇気を養わせてくれる魯迅小説。その小説を栄養にして成長した青年も多い」「魯迅雑感文を愛読する若者の数となるともっと多い。曰く『中国全土はかならず一つにまとまらねばならない』。曰く『蒋介石の国民党は周恩来の共産軍との内戦をやめよ』」(1幕3場)。一時は鎌倉で落ち着いて小説「シャンハイムーン」を書こうとしたが、やはり上海にとどまり雑感文で社会の欠点を批判することを決意する。
2幕では、魯迅が版画講習会を開催したことに触れ「中華民国の文盲率は90%。その同胞たちに文字を近づけるため絵入りの質のよい本が出版されないといけない。この国を牛耳を執っている連中は、文字を操ることで文盲の同胞を喰いものにしている」と文章の力が語られる。
そして内山完造は書店の主人である。60キロも遠くの昆山から歩いてやってきた3人の少年をみて「ですから感心なんですよ。日本語を勉強している、ついては日本の絵本や童話を一冊でも多く買って帰りたい、そこで汽車賃を節約して歩いてきたと言ってた。(略)本屋の親父をやっててよかったと思うのは、こういう客がきてくれたときだ。本棚の背表紙の列に今にもくいつきそうなあの真剣な目、あれを傍(はた)から見てるときの気持ちったらないね」(2幕3場)
別の側面からも、ことばにスポットが当たる。
失語症の魯迅は「中国にもたしかにてんのうせいがある」(可能性がある)、「大きなたらいがある」(未来がある)、「ひごろのおつうじがあれば」(こころが通じ合っていれば)などと発語する。「文学者のいのちはおそばだ」(ことば)、「わらじはかつどんの現場から脱げた。自分と同じそそうの持ち主たちが吶喊の声をあげて突進して行ったときも、わらじは脱げた」(わたし 活動 逃げた 思想)と脱力するような言い間違いを連発する。一種のことば遊びだが、井上ひさしの面目躍如である。
日本人のへそ」の吃音矯正のための発声練習「むかしある所にカタナ国がありました‥そこの王様アイウエ王は王子を残して亡くなりました‥そこで腹黒カキクケ公は王位に就こうと企みました・・・」を思い出した。

わたくしが見たこまつ座の芝居は、栗山民也、鵜山仁、木村光一の演出が多かった。丹野郁弓(民藝)の演出ははじめてである。夫を「先生」と尊敬しつつ厳しいこともいう許広平(有森也実)と、しっかりものだがじつは夫を立てることお優先する内山みき(増子倭文江)の女性2人の性格づけはよくできていた。
役者では若い歯科医・奥田愛三役の土屋良太が道化役を元気いっぱい好演していた。有森也実は、ずいぶん昔自由劇場でみた立木リサの演技にちょっと感じが似ているように思った。
格子の窓ガラスを通して差してくる月光や朝の太陽など、沢田祐二の照明が美しい舞台をつくっていた。

☆この芝居で、藤野(厳九郎)先生は仙台医専が東北帝大医学部に昇格したとき教員として残れず、福井県三国町で町医者となったことを知った。学士の資格がなかったからである。その藤野先生の出身校はなんと愛知医学校だった。愛知医学校もその後名古屋大学医学部になるのだが、愛知県立医大になったとき東京帝大出身の勝沼精蔵が内科学教授に就任し、血液内科、神経内科を中心にだんだん陣容を整えていった。1944年終戦間近の名古屋大学に南京政府の汪兆銘が密かに入院し手術を受けた。そして名古屋で亡くなるのだが治療チームの一人が勝沼教授だった。魯迅からたどり始めると、不思議な巡り合わせである。
☆窓の下から聞こえる「出て行け!」「貴様は日本人じゃない!」「非国民!」という居留民団男女のどなり声は、わたしには2月27日に文京区民センター前で聞いた在特会の声に聞こえた。こういう日本人の排外主義は65年たってなにも変わっていないようだ(このドラマで描かれるように、もちろん日本人全員ではないのだが)。
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