今年は大逆事件で幸徳秋水、管野スガら12人が処刑されて100年の年である。管野の記念碑が、新宿駅南口から甲州街道を600mほど歩いた左手の正春寺にある。「大逆事件の真実を明らかにする会」が1971年7月に建てた石碑で「くろがねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮らしぬ」という、獄中で詠んだ歌が刻まれている。といっても40年の風雨にさらられ、文字はほとんど読めない。裏面の「革命の先駆者管野スガここにねむる 71年7月11日」という文字は読み取れる。
大量処刑の報に接し、石川啄木、木下杢太郎、永井荷風ら多くの文学者が大きな衝撃を受けた。徳富蘆花もその一人だ。蘆花は1868(明治元)年12月熊本県水俣生まれ。21歳のとき上京し、6歳上の兄蘇峰の民友社に入社した。30歳のとき国民新聞に連載した「不如帰」(ほととぎす)で一躍有名作家になった。1907年2月、39歳のとき千歳村粕谷(現・世田谷区粕谷)に転居し、11年に増築のため烏山から移築した書院の建前をした1月24日がまさに大逆事件の死刑執行日(管野のみ翌25日)だった。判決からわずか6日後のことで、じつは蘇峰は、桂太郎首相への嘆願書や明治天皇への公開直訴状を新聞に公開する計画を立てていたが、水泡に帰した。
たまたま2日前の22日に一高弁論部の河上丈太郎と森戸辰男から講演の依頼があり、2月1日に一高講堂で行ったのが有名な「謀叛論」である。その草稿が蘆花記念館に展示されていた。
第一稿は半紙8枚、二稿は10枚なので、それほど長いものではない。
青空文庫で読むと「僕は武蔵野の片隅に住んでいる」と、豪徳寺に墓がある井伊直弼と松陰神社に墓がある吉田松陰の話から始め、「ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為の志士である」と続く。
しかし「我々の脈管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである」とあり、蘆花の主張は天皇制批判とは無縁であることがわかる。
「陛下に仁慈の御心がなかったか。御愛憎があったか。断じて然(そう)ではない――たしかに輔弼(ほひつ)の責(せめ)である。もし陛下の御身近く忠義骨(こうこつ)の臣」あればと「国政の要路に当る者」に人物がいないことを嘆いている。
ただし「諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」と、政府批判、言論の自由を強調している。ヒューマニズムから発したものだろう。
その後蘆花は、1923年に難波大助が摂政宮(のちの昭和天皇)を暗殺しようとした虎ノ門事件のときも助命嘆願書を東宮太夫に送っている。また大逆事件のあと1913年に大連、青島、朝鮮に旅行したときは、旅順小学校の教師、菱田正基から安重根が獄中で書いた「貧而無諛、富而無驕」(ひんにしてへつらうことなく、とんでおごることなし)という書を譲り受け、大事に保管していた。それらも記念館に展示されていた。
蘆花記念館は京王線芦花公園の駅から徒歩15分、8万平方メートルの広さの都立蘆花公園のなかにある。芦花公園の北西1万4000平方メートルの一角は恒春園という名で、母屋、二つの離れなど当時の建屋、愛子夫人の居宅、墓などが保存されている。1936年、蘆花の没後10周年に未亡人が東京市(当時)に寄贈したものである。また59年建築の蘆花記念館も併設されており、前述の嘆願書などの遺品が展示されている。
記念館にはトルストイから届いた手紙も展示されていた。
蘆花夫妻は1906年、日露戦争の直後に、パレスチナからロシアへ旅をし、トルストイにヤスナヤポリアナで面会し約1週間滞在した。それ以来トルストイの最晩年の3-4年間つながりがあったようだ。手紙の内容は、蘆花や妻・愛子の宗教観を尋ねるもので、そのなかに「ロシアにおける革命、日本にも起こるべき諸改革について」蘆花が手紙で触れていると書かれていた。蘆花は「社会主義」への関心はあったようだ。トルストイが「すべての人間が人間的権力への隷従から解放されることです」と答えているのが興味深かった(日本語訳は中野好夫)。トルストイは1910年に亡くなったのでロシア革命はもちろんみていない。血の日曜日事件(1905)は見聞しているので革命への憧れがあったのだろう。なお、面会したとき「君は農業で生活できないか」とトルストイに言われたことが、翌7年に世田谷に転居するきっかけとなったそうだ。
世田谷では文章を書くかたわら、農作業を行ったので、草刈鎌や鍬も展示されていた。
秋水書院の「自彊不息」(みずからつとめてやまず)の額
2つの離れのうちひとつは前に触れた烏山から移築した書院で「秋水書院」と名付けられている。もうひとつは1909年に北沢から移築した梅花書屋(25坪)である。母屋と秋水書院、梅花書屋は長い渡り廊下でつながっている。
秋水書院に9尺×6尺(2.7m×1.8m)の大きなテーブルがあった。18歳のとき今治の教会で兄の伝道を手伝っていたころ使っていたもので、夜はベッドとして使用した。また渡り廊下に明治36年製造の古いオルガンが置いてあった。旧式の古い家庭用のオルガンにみえたが、横浜の西川製で国産で最も古い部類の7ストップの教会型オルガンだそうだ。
文字通り晴耕雨読の生活を送っていたことがうかがえる。
☆芦花公園の南側に東京ガスの球形のガスタンクが5つある。1960年代に「少年ジェット」という人気TV番組があった。悪役ブラックデビルが「ウーヤーター」と叫ぶと嵐が吹いた。「60年代 郷愁の東京」(本橋信宏 主婦の友社 2010.6)で読んだのだが、「宇宙病人間」(60年3月16日放送)という巻で、デビルたち3人がこのガスタンクに登った。当時タンクは2つだけで撮影時期は冬だったはずでずいぶん寒く、かつこわかっただろうと書いてある。映像でみると、烏山や八幡山には畑が広がっているとあり、蘆花が暮らした大正時代とあまり変わらなかったようだ。
大量処刑の報に接し、石川啄木、木下杢太郎、永井荷風ら多くの文学者が大きな衝撃を受けた。徳富蘆花もその一人だ。蘆花は1868(明治元)年12月熊本県水俣生まれ。21歳のとき上京し、6歳上の兄蘇峰の民友社に入社した。30歳のとき国民新聞に連載した「不如帰」(ほととぎす)で一躍有名作家になった。1907年2月、39歳のとき千歳村粕谷(現・世田谷区粕谷)に転居し、11年に増築のため烏山から移築した書院の建前をした1月24日がまさに大逆事件の死刑執行日(管野のみ翌25日)だった。判決からわずか6日後のことで、じつは蘇峰は、桂太郎首相への嘆願書や明治天皇への公開直訴状を新聞に公開する計画を立てていたが、水泡に帰した。
たまたま2日前の22日に一高弁論部の河上丈太郎と森戸辰男から講演の依頼があり、2月1日に一高講堂で行ったのが有名な「謀叛論」である。その草稿が蘆花記念館に展示されていた。
第一稿は半紙8枚、二稿は10枚なので、それほど長いものではない。
青空文庫で読むと「僕は武蔵野の片隅に住んでいる」と、豪徳寺に墓がある井伊直弼と松陰神社に墓がある吉田松陰の話から始め、「ただの賊でも死刑はいけぬ。まして彼らは有為の志士である」と続く。
しかし「我々の脈管には自然に勤王の血が流れている。僕は天皇陛下が大好きである」とあり、蘆花の主張は天皇制批判とは無縁であることがわかる。
「陛下に仁慈の御心がなかったか。御愛憎があったか。断じて然(そう)ではない――たしかに輔弼(ほひつ)の責(せめ)である。もし陛下の御身近く忠義骨(こうこつ)の臣」あればと「国政の要路に当る者」に人物がいないことを嘆いている。
ただし「諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」と、政府批判、言論の自由を強調している。ヒューマニズムから発したものだろう。
その後蘆花は、1923年に難波大助が摂政宮(のちの昭和天皇)を暗殺しようとした虎ノ門事件のときも助命嘆願書を東宮太夫に送っている。また大逆事件のあと1913年に大連、青島、朝鮮に旅行したときは、旅順小学校の教師、菱田正基から安重根が獄中で書いた「貧而無諛、富而無驕」(ひんにしてへつらうことなく、とんでおごることなし)という書を譲り受け、大事に保管していた。それらも記念館に展示されていた。
蘆花記念館は京王線芦花公園の駅から徒歩15分、8万平方メートルの広さの都立蘆花公園のなかにある。芦花公園の北西1万4000平方メートルの一角は恒春園という名で、母屋、二つの離れなど当時の建屋、愛子夫人の居宅、墓などが保存されている。1936年、蘆花の没後10周年に未亡人が東京市(当時)に寄贈したものである。また59年建築の蘆花記念館も併設されており、前述の嘆願書などの遺品が展示されている。
記念館にはトルストイから届いた手紙も展示されていた。
蘆花夫妻は1906年、日露戦争の直後に、パレスチナからロシアへ旅をし、トルストイにヤスナヤポリアナで面会し約1週間滞在した。それ以来トルストイの最晩年の3-4年間つながりがあったようだ。手紙の内容は、蘆花や妻・愛子の宗教観を尋ねるもので、そのなかに「ロシアにおける革命、日本にも起こるべき諸改革について」蘆花が手紙で触れていると書かれていた。蘆花は「社会主義」への関心はあったようだ。トルストイが「すべての人間が人間的権力への隷従から解放されることです」と答えているのが興味深かった(日本語訳は中野好夫)。トルストイは1910年に亡くなったのでロシア革命はもちろんみていない。血の日曜日事件(1905)は見聞しているので革命への憧れがあったのだろう。なお、面会したとき「君は農業で生活できないか」とトルストイに言われたことが、翌7年に世田谷に転居するきっかけとなったそうだ。
世田谷では文章を書くかたわら、農作業を行ったので、草刈鎌や鍬も展示されていた。
秋水書院の「自彊不息」(みずからつとめてやまず)の額
2つの離れのうちひとつは前に触れた烏山から移築した書院で「秋水書院」と名付けられている。もうひとつは1909年に北沢から移築した梅花書屋(25坪)である。母屋と秋水書院、梅花書屋は長い渡り廊下でつながっている。
秋水書院に9尺×6尺(2.7m×1.8m)の大きなテーブルがあった。18歳のとき今治の教会で兄の伝道を手伝っていたころ使っていたもので、夜はベッドとして使用した。また渡り廊下に明治36年製造の古いオルガンが置いてあった。旧式の古い家庭用のオルガンにみえたが、横浜の西川製で国産で最も古い部類の7ストップの教会型オルガンだそうだ。
文字通り晴耕雨読の生活を送っていたことがうかがえる。
☆芦花公園の南側に東京ガスの球形のガスタンクが5つある。1960年代に「少年ジェット」という人気TV番組があった。悪役ブラックデビルが「ウーヤーター」と叫ぶと嵐が吹いた。「60年代 郷愁の東京」(本橋信宏 主婦の友社 2010.6)で読んだのだが、「宇宙病人間」(60年3月16日放送)という巻で、デビルたち3人がこのガスタンクに登った。当時タンクは2つだけで撮影時期は冬だったはずでずいぶん寒く、かつこわかっただろうと書いてある。映像でみると、烏山や八幡山には畑が広がっているとあり、蘆花が暮らした大正時代とあまり変わらなかったようだ。