多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

小さな旅・深谷

2009年12月04日 | 日記
深谷ネギで有名な埼玉県深谷市を訪れた。池袋から80分、上尾も北本も、熊谷も過ぎ、籠原で前の5両を切り離した次の駅だ。駅舎は深谷がレンガ製造の町だったことから赤レンガ造りの建物を模している。戦前の東京駅を1/2スケールにしたものだ。ただし本物のレンガではなく煉瓦調の外壁パネルなので、間近でみると重量感はない。北口のデッキを下りると駅前広場に右翼の宣伝カーが乗りつけ、来年2月7日の市長選の演説をしていた。

駅から北西に6キロのところに渋沢栄一生家がある。生家に行く公共交通機関は「くるりん」という1日2-3本の市営のコミュニティバスしかない。歩けば1時間30分かかるので10時33分発のバスに乗るしかない。帰りも14時2分を逃すと16時26分しかなく、行程は限定される。
渋沢は日本資本主義の父、500社もの企業を起こし、経済団体では東京商工会議所、社会事業では東京養育院をつくった。
門の前の「青淵翁生誕の地」という石碑には皇紀2600年3月の年月が彫られている。二宮尊徳と同じように戦前、人気があった「偉人」のようだ。
栄一の実家は藍玉を商う農家と聞いていたが、来てみると門からして立派で馬車がそのまま通過できるものだった。3200坪の敷地、220坪の家、蔵が4つもあり、蔵のひとつには現在の金額で1億円、ほかに財宝1億円がつねに保管されていたとガイドの方から説明があった。いま土地成金で富裕な都市近郊農家といえども不動産以外に2億円も所有する農家はあまりないと思う。豪農を超える豊かな生まれだったようだ。
屋敷は2階建、2階は全室養蚕用で、室温調節のため天窓に煙出しが付いている。1階はすべて10畳間で5室ある。

生家から10分ほど歩いたところに渋沢栄一記念館がある。王子に立派な「史料館」があるが、こちらは深谷市営の施設である。「渋沢栄一とその青春時代」「偉人たちと渋沢栄一翁」「論語と算盤、下田ハリス記念館」「社会福祉・国際親善」の4つのコーナーから出来ている。下記のプロフィールを理解できるようになっていた。

渋沢栄一は1840(天保11)年、深谷の豪農の家に生まれ、身分は農民だが名字帯刀を許された。23歳のとき江戸に出て尊皇攘夷の志士となる。しかし運命のいたずらで一橋慶喜の家臣となった。慶喜が将軍となり、慶喜の弟・昭武に従いパリ万博へ随行する。このとき銀行、取引所、会社、工場などを見学し、資本を持ちより会社を興す株式会社制度や資本主義経済を知ったことが大きな財産になった。使節団は25人だったが、渋沢は14歳の少年のころから藍玉の販売に長け、よい藍玉をつくった人を奨励する相撲の番付のようなものをつくるなど産業や商業に関心が高かったので、ほかの人と着目点が違ったのだろう。
1968年帰国すると明治維新の世の中になっていたので、慶喜のいた静岡で商法会所(合本出資の金融機関と農協の業務を合わせたような機関)を設立した。69年には大隈重信に「高天原の八百万の神達論」で説得され、大蔵省の役人となる。政府に仕えたのはわずか4年だが、その間に土地測量の基本になる度量衡や、太陽暦への統一、藩札廃止と公債発行など財政の基礎づくりのプロジェクトを立ち上げ、富岡製糸場をつくった。
野に下った渋沢はまず第一国立銀行をつくった。国立といってもいまの日本銀行のようなものではない。ただし国立銀行券を発券できた。その後、日本郵船、東京瓦斯、東京石川島造船所、渋沢倉庫、東京電力などを設立し、関係した会社は500社に上る。
社会事業の分野でも、博愛社(後の日本赤十字社)、東京養育院、日本結核予防協会、聖路加病院などを創立した。   
実業の才覚だけでなく、幼少より論語を学んだので、道徳と経済の合一をめざし「論語と算盤」というキャッチフレーズを残した。

深谷も駅からこれだけ離れると、ひろびろした平野一面に畑が広がる。太くしっかりした深谷ネギ、ブロッコリー、キャベツ、ほうれんそうが育っていた。戸建て住宅も消防署も小学校もすべて敷地がゆったりしている。渋沢が設立した日本煉瓦製造の工場跡から駅まで4キロの遊歩道が整備されている。かつてレンガを運搬する引込線があり貨車が走っていた。遊歩道の途中にはレンガ造りのアーチ橋(4m)や福川鉄橋(22m)が残っている。
遊歩道と交差する車道の道路幅もゆったりしている。ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ(1972年)で6人の男女が田舎の道を横一列になった歩く場面があった。ああいう道はどこにでもありそうで、なかなかみつからなかった。やっと深谷でみつかったと思った。春ならもっと雰囲気が似ていそうだ。
道で会った人が「こんにちは」と声をかけてくれる。島や山では体験したことがあるが、土地がゆったりしているだけでなく人情も暖かいところのようだった。
この町では、いやにたくさん黄色いプレートの軽乗用車をみかけることに気づいた。都市近郊なら子どもを後ろに座らせ自転車に乗る主婦層が、みんな軽乗用車を利用しているようだった。そういえばたいていの家の軒先に、自家用車が2―3台停まっていた。卵とニワトリの関係かもしれないが、だから公営交通が必要ないのだろう。
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