gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

舞鶴市の青葉山&松尾寺 探訪記

2013-04-25 22:56:50 | 古寺(古事)探訪記
京都府(舞鶴市)と福井県(高浜町)の県境に聳える青葉山(696m)は、太古の昔
活火山として噴流を吹上げ、直下の日本海に流れ込んでいたと伝えられている。
この火山特有の峻厳な山は、山容ゆえに早くから修験道の修行の場となっていた。
今は、死火山として緑多い美しい姿の山を「若狭富士」と呼称され、多くの人の目を
楽しませている。
しかし、「若狭富士」と呼ばれるのは福井県側からの姿であって、京都府側から見る
と東西に峰が分かれて見える双耳峰となっている。



                                 松尾寺境内に在る青葉山登山口

小生も若い頃、よく高浜の海で泳いでいたが、浜から見える若狭富士をいつも眺め
ていた事を思い出す。
戦前までは、女人禁制の修験道の山であったが、現在は中腹に在る松尾寺の境内に
登山口が設けられ、「近畿自然歩道」として山道ながら、12kmのハイキングコースとなっ
ていて、多くのハイカーに親しまれている。
若い頃に舞鶴自衛隊に入隊していた小生の知人は、舞鶴の駐屯地から、この青葉山まで
行軍し、「山岳訓練」をやっていたと話していた。昭和40年前後の話だが、今はそのような
訓練がやられているかどうか・・・・?




和銅元年(708)、修験僧の「唐の僧、威光上人」が、山の中腹に草庵を結び「馬頭観音」を祀り、
大悟され【松尾寺】と号されたと伝わる。
創建以来1300余年を経ているが、元永2年(1119)には、鳥羽天皇の行幸があり、寺領4千石を
給され寺坊60を超え、大いに繁榮した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院(藤原 得子)の
念持仏であったといわれる。
しかし、多くの寺がそうであったように、この寺も度重なる火災に遭い現在の狭小な寺域になった。





この松尾寺は、西国第29番霊場で本尊の馬頭観世音は、西国33霊場の中で唯一の観音像である。
それゆえ、古くから農耕の守り仏として、また牛馬畜産、車馬交通 、更には競馬に因む信仰を
広く集め、近在の人々の参拝が絶えない。


第29番札所 松尾寺のご詠歌
そのかみは  幾世経ぬらん  便りをば  千歳もここに  松の尾の寺

松尾寺の境内には、元永2年(1119)鳥羽天皇のお手植えと伝えられるイチョウの大木が、
この寺のシンボルのように聳えている。
舞鶴市指定文化財  根回り6.0m、  樹齢900年と推定 
 


     鳥羽天皇のお手植のイチョウの大木

東舞鶴の「金剛院」探訪記

2013-03-29 22:48:10 | 古寺(古事)探訪記
「関西花の寺25ヶ寺」と冠した宗旨宗派の垣根を超えて集まった、お寺のネットワークが存在する。
西国札所のようなメジャーではなく、
マイナー寺の「寺起こし」的な営みの所産だろうと思われる。
近畿2府4県25ヶ寺が、手入れの行き届いた四季折々の花や樹を観賞させてくれる。
今年で結成20年になり、多くの記念イベントが予定されている。
その関西花の寺の第三番、東舞鶴に在る「金剛院」を訪ねた。



   平忠盛が植えたと伝わる奉行杉 

この寺の三重の塔に惹かれ遠く舞鶴まで車を走らせた。
国道27号線から脇道を車で4-5分の距離ながら、金剛院の佇まいは奥山に
ひっそり佇む「隠れ寺」といった風情だった。
あたり一帯は「金剛院京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている山々だ。
木々に見え隠れする本堂や三重の塔は、すっかり山裾に溶け込んでいて、小生のお気に入りの風景だ。
この地域は、古くから志楽と呼ばれていた地域で、平安時代後期には、平清盛が支配していたと伝わる。
金剛院の参道の入り口付近にそびえる、高さ約25メートルの巨大な木は「奉行杉」と呼ばれ、
清盛の父親の忠盛が植えたとの言い伝えが残っている。




寺の案内書によれば、

    平安時代初期の天長6年(829)、高丘親王によって創建されました。
    親王は、第52代嵯峨天皇の皇太子でもありましたが、世の無常を感じて
    仏門に入り、法名を真如と称し、弘法大師の弟子となり・・・中略・・・その後、
    白河天皇が勅願時として「慈恩寺」の寺号を下賜されました。
    更に鳥羽天皇の皇后美福門院の帰依により大いに栄え、
    寺域に12坊の塔頭などが並び全盛期を迎えました。(後略)
span>



何と言っても、圧巻は高さ24.6m、国の重要文化財に指定されている三重の塔だろう。
昭和25年(1950)に解体修理され、相輪を新しくして修復されたそうだ。
塔内部の須弥壇には、創建したとされる真如法親王(高丘親王)の坐像が安置されている。
塔の手前に苔むした石の階段があり、何と105段もある。段上には、本堂があり石段の
途中で振り返ると、三重の塔が見下ろせる伽藍配置となっている。
うーん何処かで見た景色だ!兵庫県加西市にある一乗寺の三重の塔によく似た配置だ。
もっとも一乗寺の三重の塔は、国宝に指定されているが・・・。




またこの寺は、作家三島由紀夫の小説「金閣寺」にも、登場し主人公が思春期に
遭遇した稀有な体験として、金剛院で起こった「ある事件」を紹介している。
当然フィクションだが・・・。

寺の案内書の表紙写真は、真っ赤に色づいた紅葉を背景に美しい三重塔が写っている。
紅葉の秋にまた、訪れよう!




京都府木津川市の泉橋寺

2013-02-02 20:15:54 | 古寺(古事)探訪記
1月の小春日和の日、木津川市の泉橋寺を訪ねた。
この寺は、天平12(740)に僧行基によって、木津川に架けられた橋の管理や
木津川で命を落とした人々の供養や救済をする寺院として建立された。(当初は泉橋院)
創建時の泉橋寺は七堂伽藍を備えた立派な寺院だったが、
平安時代後期の平重衡の南都攻めの際に大半を焼失してしまった。
更に1470年前後の応仁の乱でも、大きな打撃を受けた。


  

  

今では、この寺の前にある大きな地蔵像が有名で山城大仏と呼ばれ、
古寺巡りのコースとなっている。
このお地蔵さんは、高さ4.85mにもなる大きなもので、
案内板には
   
  泉橋寺は、奈良時代の高僧行基によって、木津川に架けられた泉大橋を
  守護・管理するために建立された寺院である。
  その門前にある地蔵石仏は、永仁3年(1295)に石材が切り
  始められて、その13年後の徳治3年(1308)に地蔵堂が上棟・
  供養されたもので、またその願主は般若寺の真円上人であった。
          (中略)
  1470年頃から応仁の乱の影響が南山城地域にも及び、
  文明3年(1471)に大内政弘の軍勢が木津や上狛を攻めて焼き払った際に、
  泉橋寺地蔵堂も焼かれて石仏も焼損、それ以来地蔵石仏は露座のままとなっている。
  現在にみる地蔵石仏の頭部と両腕は、元禄3年(1690)に補われたものである。


と書かれている。
確かに、お地蔵さんの周りには、地蔵堂の礎石のみが整然と並んでいた。


  

また泉橋寺は、平安時代中頃に流行した「初瀬詣で」(長谷寺詣で)で京都の貴族の婦人たちが、
京都から奈良の長谷寺へ詣でる旅の途中、この寺で一夜の宿を取ったといわれている。
中でも、「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母は、その日記に、
朝早く舟で賀茂川を下った一行は、宇治院(藤原師氏の別荘)で昼食、奈良街道を下って夕方、
この泉橋寺に到着し、この寺で一泊したと書かれている。
この泉橋寺の夕食に出された「きざんだ大根に柚子の汁の和えもの」を旅先の田舎料理として、
大変印象深かったとも書いている。(上巻)
「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母が、この寺に泊まった968年頃は、
七堂伽藍、宿坊も備わった大寺院だったと思われる。(この時、推定32歳)

「蜻蛉日記」の作者である藤原道綱母は、夫である藤原兼家との結婚生活を嘆き悲しんで作った、
次の歌が百人一首に集録されている。


  【嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る】

  

当時木津川の水量は、今よりも比較にならないくらい多く、この川に橋を架ける工事は、
大事業で難事業でもあったようだ。併せて難工事につきものの多くの工夫たちの犠牲も伴った。
泉橋寺は、小さいお寺だが宇治橋(646年架橋)の橋寺と同じように、
橋の守護と犠牲者の供養のため1200余年の間、法灯を守り今に伝えている。


  

浜松市の「気賀関所」探訪記

2013-01-19 20:46:45 | 古寺(古事)探訪記
所用が有って静岡浜松市まで自家用車で行った。
途中、浜松市細江町に在る「気賀関所」の復元館を訪ねた。
気賀関所は、慶長6年(1601)に徳川家康によって創建されたと伝わる。




江戸時代の関所は、幕府の所在する江戸の防備を目的として設置された。
一般に「入り鉄砲に出女」といわれるように、鉄砲が江戸に持ち込まれることや、
人質として住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐための監視を中心に、
往来する人々や荷物の取調べを行った。
こうした関所業務は、以後明治2年(1869)の関所廃止まで、実に260余年もの間、続けられた。



気賀関所の関守は、旗本の近藤家が代々拝命したが、それは明治2年の関所廃止まで続いた。
気賀関所の約550坪の敷地内は、冠木門、本番所、向番所(牢屋)、遠見番所、町木戸等の
建物で構成されていた。
変わったところでは、享保14年(1729)中国の清朝から8代将軍吉宗に献上された「象」が、
京都から江戸へ向かう途中に、この気賀宿に泊まった。多くの沿道の百姓たちは、仕事をやめて
初めて見る「ゾウ」の大きさに、大変驚いたと「案内リーフレット」に書かれている。


  

浜松市の案内板に、以下のように書かれていた。

     【江戸時代、細江町を東から西に横切っていた街道を、東海道本坂越又は
     本坂道・本坂街道・姫街道などと呼んでいた。姫街道の要衝地であった気賀上村に、
     徳川家康は早くから関所を設けて、「入り鉄砲と出女」の監視を中心に、
     通行する人々や荷物の取り調べを行った。
     その後、箱根にも関所が造られ気賀関所は、箱根関所・今切(新居)関所とともに、
     東海道の3関所といわれ明治2年まで続いた(後略)】
     現在の気賀関所は、平成元年の「ふるさと創生事業」として、
     現存する資料に基づいて再建、再現されたものである】


  

★冠木門(かぶきもん)
  今で言うなら「正面玄関」で、ずいぶん立派な門である。

★本番所(ほんばんしょ)
  上の間、中の間、女改めから成り、「入り鉄砲」、「出女」の取調べが行なわれた。
  番頭2名、平番4~5名が交替で勤務した。

★向番所(むかいばんしょ)
  関所としては珍しく、牢屋があった。

★遠見番所(とおみばんしょ)
  火の見櫓のような建物、上に釣鐘が掛けてあり、下には大砲一門が設置されていた。

 
  


 


ピザ石窯の薪作り

2012-12-23 21:52:37 | ピザ窯奮闘記
我が家の「ピザ石窯」でのピザ焼きも人気が出てきたのか、焼く頻度が多くなってきた。
一年分の薪を用意していたのが、あっと言う間に底をついてしまった。
これから来春に掛け、大急ぎで薪作りをする必要がある。

  

ピザ窯にしろ暖炉にしろ、薪の木の種類は、ズバリ広葉樹が最適である。
平たく言えば「ナラ」、「くぬぎ」、「樫」なんだけど、中々手に入らない。
購入するのなら簡単だが、無趣味オヤジは、無類の貧乏オヤジでもあるので簡単に購入は出来ない。
一番最適な木種は、ナナカマドと言われている。
【ナナカマド】と言う木は、七回かまどで燃やせるくらい火持ちがいいと言われている。
本当かどうか分からないが、古人からの言い伝えだから・・・・・。
もっともこの木は、紅葉の季節に真っ赤な実で彩りを添えるので、
おいそれと薪などには出来ない・・・と思われる。

  

そんな折、職場の同僚のMさんが、自宅裏に大きく育ったクヌギの木を伐採し、
その木の処置に困っていると聞き、貰い受ける事になった。
伐ったばかりの生木なので大変重い、乗用車のトランクに積み込むのも重労働だった。
そんな苦労で手に入れたクヌギを今度は、自宅庭で「ヨキ」(斧)を使って、割り木にしなければならない。
これが、また大変だった。節のある生木だから、硬いこと半端でない。
柄の長さ95cmのヨキも、木に打ち込めずに跳ね返されてしまう。

  

こうして散々苦労して揃えた【薪割り木】も、半年ほど乾燥させておく必要がある。
この「苦労の薪」で美味しいピザが焼けるのは、来年の夏休みの頃かも知れない・・・・・。